●xxx
大切だった。命よりも。愛していた。何よりも。
けれど護れやしなかった。だからもう、二度と失いたくはなかった。
――わたしがみんな、まもってあげる。
●縺れる運命
エマージェンシー。救援要請。情報を纏め、作戦を立て、用意を整えつ。
ヴァニタス、マザーマリア――想定以上にその足取りを掴む事が出来た。若杉 英斗(
ja4230)は己の掌に拳を打ち据える。
「今度こそ仕留めてやる!」
「えぇ、今度こそ。こちらが討ちもらしたヴァニタスが、友軍の危機を招いたのであれば……責任は取らねばなりませんね」
応える様に頷いたのはユーノ(
jb3004)。その傍ら、エルレーン・バルハザード(
ja0889)は子供用の服をぎゅ、とその胸に抱き締める。
「……あのばにたす、か。おかぁさん、で、いたいんだ……」
呟いた声は中空に消える。彼女達と、そして雪成 藤花(
ja0292)、星杜 焔(
ja5378)は共に『マザーマリア』の名に覚えがあった。実際に、その目で見た。
子供を愛し、子供を護ろうとする、悪魔。その為ならば人間を血祭りに上げる事に躊躇をしない存在。
「母親、か。……どーにも気分悪ィな、面倒臭ェ」
溜息と共にマクシミオ・アレクサンダー(
ja2145)は気疎げに赤い髪を掻き上げる。表情にこそ示さないけれど、脳の奥がじくりと痛んだ気がした。
「誰かを愛するが故に誰かを傷つける……これも世界が織り成す業の一つ、よね」
戯曲演者の如く物憂げに目を伏せるのはフレイヤ(
ja0715)。さぁ、往こうか。その歌に終焉を。
●繋いだ手
現場に急行。早急に。蒼い光のその向こう。辿り着いたのは廃墟となった灰色のビル。
駆けた先に、居た。ディアボロと、撃退士と、ヴァニタスが。久遠ヶ原の生徒達が仲間の到着に気が付く。来てくれたのか、と安堵の顔。それらをナイトビジョンの視界で捉えた英斗は光纏と共に声を張り上げる。
「あとは俺達に任せて、撤退して下さい!」
「助かった、ありがとう。どうか気を付けてくれ、奴は手強いぞ!」
「任せて下さい。それを斃す為の『俺達』ですから!」
先発隊とバトンタッチ。飛び下がる8人、飛び出す10人。
視線の先。啜り泣く黒い子供の様な3つの靄。事前情報の通り、何かを大切そうに抱えたマザーマリア。護る様に抱きしめているので確認し辛い。けれど。目を凝らしてみれば。あれは。まさか。間違いない。
「……!」
マザーマリアは、人間の赤ん坊を抱き締めている。彼女の魔法の力か、その子はすやすやと寝息をたてていた。
その事は、ユーノや他の者達にも予想はついていた。苦々しく、英斗は吐き捨てる。
「……また子供を拉致していたか」
「あかちゃん……守ってる、の? でも……だめだよ。きたないひとごろしの天魔が、それはできないよ……」
その目に何処か悲しい色を浮かべて。言葉を続けたエルレーンが、一旦闇の中に身を隠す。
マザーマリアが人間の赤ん坊を抱き締めているのであれば。撃退士はその子を救わねばならぬ。任務目標には含まれていないけれど――それは撃退士として行うべき事、行わなければならない事。
「死してなお子を守ろうとする君は、一体どんな悪魔に作られてしまったのかな〜? 知りたいな、生前の君を」
害意を持たず、焔が浮かべるは常のニコニコ笑顔。その意志は暴力の為ではない、マザーマリアと同様、『子供を護る為』。
「大丈夫、俺は決してその子を傷付けない。……俺にもその子を、守らせてくれないかな」
一歩。一歩。けれど。既に撃退士達との戦闘があったからか、マザーマリアは殺意と敵意に満ちていた。マザーグースを口遊みながら。おまえもこのこをうばうつもりなんだろう。あのときのように。
振り上げられた、片方の腕。魔力の籠った敵意の手。
それを――真っ正面から、受け止めたのは紛う事なき『盾』だった。
「貴女は、行動理念は別として、本質的に私と同じ存在なのでしょう。守るべき存在を護る為なら、自身の命すら盾に出来る。私と貴女は、同じモノ。守り、護る為に、外敵を征し、容赦なく殲滅する事を厭わない盾」
悪魔の手を盾で押し返し、夏野 雪(
ja6883)が凛然たる眼差しで敵対者を射抜く。
「違うのは、立ち位置だけ。向かい合い、敵対しあう。その立ち位置だけ。貴女の盾と、私の盾。どちらが先に砕けるか。雌雄を決すとしましょう」
その身に聖なる刻印を刻み込み、覚悟は完了。盾として、盾であり、矛であれ。誇らしく、盾であれ。
「活目して私を見よ。私の盾が砕けぬ限り、貴女の刃、自由に及ぶと思うな!」
裂帛。周囲のディアボロには一瞥もくれず、超接近。肉薄する。
凶暴性を剥き出しにしたマザーマリア。その殺意はそこいらのディアボロとは比にならない。濃密な。
それを、ヴァローナ(
jb6714)は蒼金の瞳で具に見詰めていた。フラッシュライトを設置し、周囲を明るく照らしながら。
『お前は母親? それとも子供?』
意思疎通。語りかけるダイレクト。
『私達に子供を傷つけるつもりはない。お前という存在が子供の側にいるから、子供は危険に晒される。……お前は子供を守るという。でも守るだけで育てることはできない』
脳で紡がれるそれは饒舌。耳から聞こえるのは音楽プレイヤーで再生する大音量の子守唄。指先を、ヴァニタスに突き付けた。
『お前の行動は矛盾している。お前がいなくなれば子供に危険は及ばない。私達が子供を奪うのではなく、お前が奪った。お前が子供を奪ったから取り戻さなければならない』
わかるか? 唇を動かすだけの、音の無い言葉。
『お前が奪ったのだ。お前が傷つけたのだ』
そんな、言葉達。けれど、マザーマリアが止まる事はなかった。狂っている。捩じれている。どうしようもなく、歪んでいる。まもる。まもる。なんであろうと。こどもをまもる。声なき慟哭が、聞こえた気がした。
一方で、子供が啜り泣く声。3体のマヨヒゴ達が、縋る様に攻撃性を帯びた手を差し伸ばしてくる。鼓膜を引っ掻くその声に、青薔薇の花弁の様な光を纏うフレイヤは顔を顰めた。
「……一体何を素にしてんのよ。いくら悪魔だからって悪趣味すぎんでしょ」
嗚呼、誰かの泣く声ほど、この黄昏の魔女が疎うべきものは無い。魔女は、魔女とは、正しき魔女と云うものは、本当の魔法とは。掌を翳し、構築するは炎の魔法陣。高まる魔力と共に纏う花弁がいっそう輝きを帯びた。
「――煉獄の劫火よ。其の罪を灼き、清めたまえ!」
術式展開。魔法陣より繰出すは青白い炎。啜り無くマヨヒゴ達へ炸裂するその火焔は、さながら蒼い薔薇が散る様で。
炎の残滓が闇を照らす――その最中を、マクシミオは光纏により銀に変じた髪を靡かせ吶喊する。煌々と輝くケダモノの朱睨で捉えるは焼かれたマヨヒゴ。視線が合った様な気がした。刹那に伸ばされた黒い手、が、マクシミオに縋りつく。泣いている。かなしいさみしいと泣いている。
もうやめてよ。
いたいよ。
ぶたないで。
きらいにならないで。
いいこになるから。
いいこになるから。
「――、」
聞こえたのは幻聴か、妄想か。彼の脳を駆けた感情は彼にしか分からない。咆哮。牙を剥き、右手に持った白い槍を掲げ。ざくり。ぶすり。振り払う様にグサリグサリ。四方八方で子供の泣き声。
気を逸らせる作戦か? けれど、マヨヒゴの声に英斗の刃が曇る事は無い。
「貫けッ、玄武牙<ブラックトータスファング>!」
構える盾剣『玄武牙』の白い輝きがいっそう増した。寄ってくるマヨヒゴを切り払い、牽制する。切り裂く感触。その直後――ギャアアアアアアア。マヨヒゴが金切り声を上げた。泣き叫ぶ。鼓膜を貫き聴覚神経をズタズタにする不快音。
「う――」
マヨヒゴの周囲に居た者が顔を歪め耳を押さえる。押さえたその手の隙間から、どろりと血。
戦場中に響いた『子供の泣き声』――マザーマリアの意識が、目の前の雪からマヨヒゴを攻撃していた者達に向いた。
だが、その時である。
「ママ」
甘える様な、幼い声。
正面から手を広げて。マザーマリアに抱きついたのは――山里赤薔薇(
jb4090)。子供っぽい笑顔を浮かべて、異形の悪魔に頬擦りをして甘えつく。ママ、ママ、と純真無垢に呼びながら。
(あなたは確かにお母さんだった)
甘え付きながら、マザーマリアの動きを阻害しながら、赤薔薇は心の底で思いを馳せる。彼女の存在が救いになった子供も確かに居ただろう。けれど……
(あなたはひどく極端で、やっぱり危険なヴァニタスだから)
ごめんなさい。言葉と思いは仕舞いこみ。『奪わせない』為、赤薔薇は『戦う』。
それとほぼ同刻。
「う、うわあああああ!」
マヨヒゴとは別の子供の悲鳴が戦場に走った。そこに居たのは6歳ほどの少年。肝試しでもしていたのか、偶然迷い込んだらしい――というのは嘘だ。それはエルレーンが変化の術で化けた姿。
「く、くそーっ! おれがたいじしてやるっ!」
後退り、恐怖の涙を流し、けれど『ただの少年』は勇猛果敢に、そして無謀に、マヨヒゴに立ち向かうが。向けられた攻撃。吹き飛ばされる。地面を転がる。傷ができる。赤い血、見開いた目。
「ひ、ひううっ……うわあああああっ! いたいよおっ、いたいよおっ! た、助けてええ! おばさん助けてええ!」
『ただの子供』には、マザーマリアは優しい女性に見えているのだ。助けを求める様に伸ばされた子供の手を、マザーマリアは裏切らない。赤ん坊を抱えている手とは反対の手で、『少年』を素早く抱き上げ、抱き締め護る。そして『エルレーン』は、彼女に抱きつきわんわん泣き喚くのだ。忍ぶ事をかなぐり捨てて、己だけ見よとその気を引いて。
結果としてマザーマリアの攻撃は防がれ、そして大いに『隙』ができた。――その間隙を、ユーノは見過ごす事をしなかった。
声無く、音無く、気配無く。明鏡止水の集中力で、背後より跳躍。伸ばす手の先には、マザーマリアが抱える赤ん坊。
瞬時の、刹那。擦れ違う瞬間。ユーノの手が、悪魔の手より赤ん坊を奪い去る。着地。マザーマリアから離れたからか、赤ん坊が『異変』に目覚めた。泣き声を、あげる。
その瞬間、ユーノの背中に襲い掛かったのは。感じたのは。如何なる刃も生温く思えるほどの殺気だった。ゾッ、とユーノは己の肌の粟立ちを覚える。早く、速くはやく離れねば。移動力には自信がある。走らねば。マザーマリアが有りっ丈の暴力をこめたその手を振り下ろして――
どん。
鈍い衝撃。血。
しかし、ユーノも赤ん坊も無事だった。護る様に光の羽に包まれている。それは、焔が行使した光翼<ディバイン・フェザー>。彼女達に降り注ぐ筈だった攻撃は、背に白い翼を生やした焔へ。
「……駄目、傷付けないで」
焔の最優先は赤ん坊の安全で。今だ、とユーノへ視線を促す。走る彼女の行く先には、藤花。受け継がれる。焔が守り、ユーノから藤花へと。
「雪成様、この子をお願いしますの。輝きとなる前の灯、守って下さい」
「はい、任せて下さい。……必ず、護ります。護り抜きます」
普段はふわりとしている藤花だけれど。そう頷いたその瞳には、何人たりとも揺るがせ得ぬ確かな決意が宿っていた。
そのまま、戦線に戻っていったユーノを見送り。藤花はマザーマリアを見遣る。子供を取り返そうと殺意を漲らせる哀しい化け物へ。
「マザー、また会いましたね。貴方の気持ち、わからないわけではないの。だけど……ごめんなさい 」
そのヴァニタスは誰よりも子供を大切に想うひと。だから、子供を抱き締めて。護りたくて。心配で。不安で。離したくなくて。
「奪うのではないの。貴方がそのまま抱いていては、抱いたまま戦ってしまっては、守るべき子どもが傷ついてしまうかもしれない。それはわたしも嫌。だから、この子は預からせてもらいます」
ね? 放つ言葉に眼差しに、敵意は無い。これ以上、マザーマリアを怒らせぬように。向けるのは慈愛と、博愛。陳腐な表現だと、嗚呼、自嘲するけれど。
「大丈夫……私が、絶対、護ってあげるからね」
泣いている赤ん坊を、マザーマリアの様にしっかと抱き締めた。聖なる刻印を施し、その手で身体で生命で護る様に。大丈夫だよ。笑顔を浮かべ、悪魔の心を受け継ぐように口遊むのは子守唄。大丈夫だよ。嫌な思いは、何一つさせない。無垢な記憶に、シミなど一つも作らせない。大丈夫だよ。私が絶対、護るから。
子供の泣き声が止まる。
けれど、悪魔の猛攻は止まらず。
ガァン、と鈍い音。雪が防御に構えた盾に火花を散らして掠ったマザーマリアの殺意の手が、雪の蟀谷の皮膚と肉をも削り取る。それでも彼女の顔は一切歪まず、視線は全てヴァニタスの一挙手一投足へ。
「私は盾。全てを征し、そして守る……『盾』!」
盾で以て征し、容赦なく殲滅せよ。Aegis of Order――その盾は『教え』であり、『秩序』であり、『指令』である。聖なる呪文で魔法を紡ぎ、展開する魔法陣より繰出すのは審判の鎖。じゃらりじゃらりと唸りを上げて、それは聖なる力で悪魔を焼きつつ絡みつく。
動きを封じられたマザーマリアへ。対峙したのもまた、マザーマリア。
『返して……子供を返して……私の子供……』
マザーグースを口遊み、黒いワンピースを靡かせて。意思疎通で直接語りかけるその正体はヴァローナ。彼女はこのヴァニタスを子供の様な存在だと思っていた。だから、見せ付ける。マザーマリアの『ありのままの姿』を。
だが、マザーマリアは最早己になど関心は無かった。彼女の想うものはただ一つ、たった一つ、子供の事。盲目に、偏執的に。
「返せ、返せ……!」
マザーマリアを真似て恨みを呟き、振り上げる刃。肉を裂く感触。ヴァニタス。嗚呼益々、『彼女』は駄々をこねる子供のよう。全てが矛盾している。ヴァローナは細めた目の視界でヴァニタスを見る。可哀想に、見える。でもこれ以上は『彼女』が苦しみ続けるだけ。
終わらせてあげたい。
もう、苦しまなくても良いのだと。
もう、哀しまなくても良いのだと。
「罪と責を抱きながら眠れ」
それは、せめてもの手向けの言葉。
●はぐれぬように
奔る、マヨヒゴの悲鳴。
仲間の前に立ち、盾となり、それを受け止めたのは英斗だった。
「レート的に痛いが、俺が受けるのがベストだろうな!」
「ありがとう、すぐに倒すから!」
彼が盾なら己は矛。フレイヤは炎の魔法を構築し、今一度マヨヒゴ達へ蒼炎を炸裂させる。
「踊りなさいな」
それに重ねられたのはユーノが繰出す雷羽<プルマ・サンクトゥス>、舞い散る光羽が美しくも残酷にディアボロ達を切り刻む。立て続けの攻撃に一体のマヨヒゴが倒れ、もう一体も焔がすかさず弾丸で撃ち抜き滅ぼした。
「これで終わりだ……!」
最後の一体へは、マクシミオ。突撃の勢いのまま、マヨヒゴの身体へ深く深く槍を突き立てた。
もう子供の泣き声は聞こえない。
後は益々怒りに暴れ狂うマザーマリアのみ。
やはり、マヨヒゴを『子』として護ろうとしていたのか。マクシミオは雪が死に物狂いで抑えているマザーマリアを見詰める。
――『母』。
ズキリ。記憶。己を虐待した実の母。尤も死んだ親に文句を付けるほど子供なつもりはないけれど、
「……俺だってなァ、出来る事なら愛されたかった。守られたかった」
欲しくても、もう二度と手に入らない。永遠に。感情を吐露して、らしくないと自嘲。愛されたい護られたいと吐露しておいて、愛された事も護られた事もないから『それが何なのか』なんてコレッポッチも分からないのだから。とんだジョークだ。理由も今更、どうしようもない。どうして愛されなかったのか、拒絶されたのか。
「正直、諦めてたンだ。わからなくていいやって。俺なりの庇護を愛を、誰かに精一杯注ぎゃァ良いって」
たとえそれが庇護でも愛でもなかったとしても。それで良かった。忘却と言う名の妥協。
だったのに。
今更ンなって気になるとか、反則だろ。
視線の先でマザーマリアの髪がざわりと揺れた。それに反応してマクシミオは飛び出し、やらせはしないと盾の殴打でその行動をキャンセルさせる。零の距離。彼は『母』を見る。
「なァ、『母さん(マザー)』。ヴァニタスでもこの際どーでもイイから、教えてくれよ。示してくれよ。わからねえんだよ。知らねえんだよ」
どうか、教えて。まるで泣きそうな声で。我知らず、伸ばした手。
けれど、なんとも、現実は残酷だった。
マザーマリアが護ろうとするのは『子供』で。
マクシミオはもう、『大人』だった。
「……はは」
空気に触れただけの空虚な手をそのままに。乾いた笑い。
結局、俺は、誰にも愛されやしないのか。
ズキリ。ズキリ。脳が、痛くて堪らなかった。
それでも、戦いは無情なまでに続くのだ。
赤薔薇とエルレーンはひたすら、無害な子供を装ってマザーマリアにしがみつく。その動きを邪魔する様に、攻撃をさせ辛い様に、或いは仲間の攻撃が当たる様に。当然ながら2人分の火力が減ってしまうが、それに見合う以上に成果は出ていた。赤ん坊もマヨヒゴも引き離された今、マザーマリアは彼女達をひた護る。そして、『外敵』と見做した撃退士達へ猛威を振るう。
そんな悪魔の攻撃性を少しでも沈める様に、赤薔薇はいっそう抱き締める手に力を込めるのだ。
「ママ、怒っちゃやだ!」
泣き叫ぶ。同様に、少年に化けたエルレーンも「こわいよ、こわいよ、はなさないで」と抱きつき続けて。
(やさしい天魔。ひとごろしのくせに、やさしいおかぁさん……)
演技をしているのに、マザーマリアが向けてくるのは本物の愛で。抱き返してくれる手は、本当に温かくて、優しくて。
(だから、)
ふわり、良いにおいがする。おかあさんの、におい。やさしい、におい。
(せめて、私は……お前を、斬らない!)
呼び続ける。呼び続けた。おかあさん、おかあさん。
憎むべきは、母の愛を弄ぶか様にヴァニタスを作った悪魔なのだろうか。
最後衛、マザーマリアの手の届かぬ場所で、藤花は赤ん坊を抱き締めたまま癒しの術を皆に施し続ける。眠らされた者も直ちに目覚めさせる。万物に平等なる愛を捧げる聖母の如く。
分かる――マザーマリアは藤花を見ている。正しくは、『赤ん坊を取り返す為に藤花を殺そうとしている』。その為に進もうとしているが、その進行は雪をはじめとした撃退士達が食い止めて。それに、もし藤花の身に何か起ころうが――その身を呈してでも赤ん坊を守り通すと、そう瞳に決意を抱いた者達は一人ではなかった。
「今度こそ、逃がしません」
槍を構え、銀の髪を靡かせて、ユーノは刀を振り翳すヴァローナと共に左右から攻撃を仕掛けた。二つの斬撃は確かにマザーマリアの肉を深く裂き、赤い血液を外気に晒させる。
けれど、直後。ヴァニタスの髪が殺気と魔力に揺らめいて。広範囲、全方向。頭上から突き刺さる様な凶悪な攻撃。暴力的なまでに鋭いそれが撃退士達の肌を容赦なく抉り裂き、血飛沫で廃墟のコンクリートを赤く赤く染め上げて。
抗うも倒れてしまう二つの、音。
或いは耐え切ったものの満身創痍で片膝を突く音。
「は――はぁッ、はあっ――」
少しでも護り、一つでも庇い。雪の足元に広がるは血溜まり。最もマザーマリアから攻撃を受けながらも、ズタズタに切り裂かれ失血にふらつきながらも、その脚で――地面を踏み締める。
倒れ伏すとも立ち上がれ。
何度でも剣を持て。
前へ進め。
共に往き、共に勝ち、凱歌をあげるその日まで。
反撃せよ、進撃せよ――汝『勇ありし者』也、即ち『神兵』也!
「……砕けますか、毀せますか、私の誇りを、魂を!」
張り上げる鬨の声。回復の光と共に、それは何処までも凛々しく雄々しく撃退士達の魂を奮い立たせる。
「俺達は負けない。さぁ、新しい魔具の威力をみせてやるぜ!」
防御の奥義で耐え切って、玄武牙をひた構え。英斗の身を包むのは不死鳥の如く赤いオーラ。絶対に負けない、絶対に諦めない。闘志は灼熱、頭は冷静。ヒビの入った眼鏡の視界で敵を捉える。男は辛い時こそ不敵に笑うのだ。
光で作られた藤の花がふわりと舞う。戦いの風に藤花の髪が揺蕩い、その右耳を飾るイヤーカフがきらりと光った。傷付いて血を流していく仲間に、悪魔に、藤花は溢れそうな涙をぐっと堪える。
「マザー、貴方の愛情はわかるのです。釦を掛け違えただけ」
回復の光を飛ばしながら、今にも零れそうな潤んだ瞳と潤んだ声。嗚呼どうして、むこうもこっちも、『子供を護りたい』と同じ理由をもっているのに。だから、どうしようもなく、辛くって。
「……わたしも同じように、子どもたちに愛情を注ぐ職を目指しています。焔さんと、大切な人と一緒に……。だから、マザー。子どもはわたしに任せて」
もう、こんな悲しい連鎖を止めましょう。
「そうだ――もう、今日で、これで、全部、終わりだ!!」
声を張り上げる英斗の声に続き、撃退士達が一斉攻勢に出る。
これで、さよなら。マクシミオが持つ槍に光が満ちる。同時にフレイヤも魔道書に手を翳し、光を書より生み出して。放った。光の奔流。強烈に。
白い輝き――焔は目を細める。翳されたその手に灯るもまた光、それはライラックに――焔の『幸せだった思い出』の姿となり、悪魔へ伸びて。二人の攻撃と共に炸裂する。
確かな致命打。回復の隙は与えない。光の残滓が舞い散る中、間合いを詰めたのは雪だった。『死刑執行』の戦斧を持ち、そこに有りっ丈の力を込めて。粛清。齎すは、断罪。秩序を乱すモノへ。一切の躊躇無く、一切の慈悲もなく、ただただシンプルに、ただただ真っ直ぐに、『振り上げた武器を振り下ろす』。
ぐしり。
血飛沫。
マザーマリアの上体が揺れた。
嗚呼。
彼女はここで、死ぬのだろう。
「……ママ、一緒にいるよ……」
赤薔薇は離れなかった。マザーマリアの最後の時まで、最期の瞬間まで。彼女が子供の温もりを感じながら天に昇れるように、力一杯抱きついて。力一杯甘えついて。その頬を、温かい涙で濡らして。
そしてそれは、マザーマリアが赤薔薇を抱き返した、瞬間だった。
「燃えろ、俺のアウル!!」
地を蹴り、大きく跳躍した、英斗。勝つ為に、負けない為に、特訓してきた新必殺技を今こそ。玄武牙に極限まで高めたアウルが込められ、まるで超新星爆発の如く白銀の光が全てを照らす。
「くらえ、新必殺――天翔撃<セイクリッドインパクト>!!」
堅き鋼の『護る』心を、圧倒的な力に変えて。
エルレーンと赤薔薇が抱き締め、撃退士の怒涛の攻撃に傷付いたマザーマリアは動けない。
そして――……
静寂。
秋の気配を含んだ風が、暗い廃墟を吹き抜ける。
がくり。膝を突いたマザーマリアがもう動けぬ事は、誰の目にも明らかだった。
そこへ、不意に。手を伸ばし、抱き締めたのはフレイヤだった。
「……魔女は見知らぬ他人を笑顔にさせる者。ヴァニタスだって笑わせてみせるわよ」
そう言って、笑んで、ボロボロになった悪魔の背中をそっと撫でて。
フレイヤは、思うのだ。人を愛するだけでは、子供を愛おしいと思うだけでは、本物の愛は分からない。伝わらない。
ではどうすればいいか――そんなの簡単、誰かに愛して貰えば良いのだ。ひとは、誰かに愛して貰う事で愛される温もりを知る事が出来るのだから。
だからこそ。フレイヤは、愛するばかりで愛される事を知らないヴァニタスに愛を贈る。本物の温もりを教えてあげようと。
(……そう、思うのよ)
返って来たのは掠れ声のマザーグース。
そして程なく、それも……聞こえなく、なる。
●サイレント
倒れた後も、マザーマリアの手は赤薔薇とエルレーンを抱きしめていた。ぎゅっと優しく、護る様に、慈しむ様に。
「ママ……」
その手を握り返し、赤薔薇は我知らず呟いた。繋いだ手。から、どんどん温度が抜けてゆく。その温もりを逃したくなくて、少女はいっそう『母』の手を握り締める。
「……ママ」
ぽたり、ぽたり。二つの手に、零れるのは雫。赤薔薇の鮮紅色の瞳から、止め処なく。大粒の涙。ぽろぽろと。嗚呼、嗚呼、死んで逝く。どれだけぎゅっと握りしめても、温もりが消えてゆく。それが、天魔の襲撃で殺された母親と家族を少女に思い出させるのだ。どうしようもなく、涙を溢れさせるのだ。
きっと。マザーマリアはヴァニタスになる前は、優しいお母さんだったのだろう。だから――今度もきっと、優しいお母さんに生まれ変われる。
(だから、今は楽になって。また人として生まれてきて、たくさんの子供を愛してあげて……)
「う、うぅ、うぁあああぁあぁあぁあああん……」
願いを胸に、少女は幼く嗚咽を漏らす。最期まで優しかった『ママ』を抱きしめて。嗚呼――今までで一番辛い任務。
「……」
エルレーンは変化の術も解かぬまま、子供の姿のまま、只管黙りこくっていた。
わたしは、また、『母親』をころした。
見殺しにした。
裏切り者の、エルレーン。
「――、」
呟いた言葉は誰にも聞こえぬ。ただ、エルレーンは死したマザーマリアに寄り添っていた。
●後日
マザーマリアが抱えていたあの赤ん坊は、前回の事件同様に育児放棄していた親をマザーマリアが殺して誘拐した子だという事が判明した。身寄りも名前も無い子だった。更にその子には、アウルの適性がある事も判明する。
本来なら、その子は施設に預けられる事になっていただろうが――
「俺が、預かっても良いですか」
名乗り出たのは焔だった。いつもの緩い表情だけど、その目に宿った意志は本物で。
斯くして――
木漏れ日の下。
赤ん坊の笑う声。
その子を優しく抱きしめるのは焔。藤花と共に、その子の笑顔を覗き込む。
命懸けで。悪魔が護り、撃退士が救いだしたひとつの命。
伸ばされた小さな手が、温かい手が、微笑む焔の頬に触れた――。
『了』