●ゆうやけこやけで
赤い夕焼けが網膜に沁み渡る。
きぃ、こ。
きぃ、こ。
ブランコが揺れている。ころころ笑う少女を乗せて。その背を押す男の顔もまた笑顔で、楽しげで、満ち足りていて。
(俺に出来る何かはきっとある)
ならば……その続きは深呼吸に押し込み、リョウ(
ja0563)は一歩を踏み出す。その視線の先では朗らかな笑みを浮かべたアイリス・ルナクルス(
ja1078)とレギス・アルバトレ(
ja2302)が揺れるブランコの元へと歩み寄っていた。
こんにちは。挨拶をすれば親子が二人へ向いた。こんにちは。返される笑顔。ただの親子みたいに。
「よかったら……お姉ちゃんと一緒に遊びませんか?」
佳奈子が父親を見遣った。彼が柔和に笑んだままぽんと娘の背中を押して促せば、少女は嬉々とブランコから降りて。
「わたし佳奈子! おねえちゃん達は?」
「アイリス、と申します。こっちはレギスさん、リョウさん」
「こんにちは」
「よろしく、佳奈子ちゃん」
僅かに屈んで視線を合わせる様にリョウもにこやかに話しかける。そして佳奈子を手招き、その掌にポンと落としたのは一粒の飴玉だった。
「あ、これはどうもすみません。ほら佳奈子、お礼は?」
「……えへへ。ありがとうおにいちゃん!」
それじゃ、何してあそぶ?――そんな光景。どこにでもありそうな、平和な。でも、その『異質』を撃退士達は知っている。これから起こるのであろう残酷な不条理も、全て。
それでも、それでも、ただ、自己満足でも。久遠 仁刀(
ja2464)は思う。出来得るならば、欠片でも救いを。
「あまり遠くへ行くなよ、佳奈子――」
そう呼びかける弘道の傍、並木坂・マオ(
ja0317)と共に仁刀は立つ。
「あんたに訊きたい事がある」
「……」
弘道は何も答えなかった。表情は娘を見守るそれだというのに――分かる。ゾッ、とする程。首元に断頭台の刃が突き付けられている様な、純粋な殺気。
直感する。誰も彼もが。気付かれている――何もかも。
理解する。誰も彼もが。脅されている――『動くな』と。
それでも仁刀は唾を飲み、背中に嫌な汗を感じながらも乾いた口を開いた。
「天魔の手先と化したあんたと娘の未来に対する展望等を問いたい」
「幸せです」
「あんた、『娘の幸せ』については考えてるのか?」
「見て分かりませんか、幸せです――佳奈子! もう帰ろう。日が暮れる」
弘道が一歩を踏み出した。何も知らない佳奈子は笑顔で父親へ駆け寄ろうとするが、
(これも、任務なんだ)
レギスがその小さな手を、掴む。振り返る佳奈子はきょとんと、次の瞬間には心配そうにレギスの顔を覗き込んで。
「レギスおねえちゃん……どうして泣いてるの? どこかイタイの?」
「!」
嗚呼。
この、頬を伝う温かい『コレ』は。
ぱたりと地面に一滴落ちた『コレ』は。
俺、泣いてるんだ。
「ごめんな、ごめんな、ごめんなぁ……!」
赦しなんて乞える立場じゃないのに。何て自分は身勝手で無力なんだろう――少女を抱き締め、一雫。背後から足音が聞こえてくる。弘道だ。笑顔の声で「帰るよ佳奈子」と。「わたし帰らなきゃ」と。嗚呼、このまま彼女を父の元へ向かわせる事が出来たらどんなにも楽だろう――全ての感情を噛み殺し、レギスは抱き抱えた佳奈子をリョウへと渡した。頷くアイコンタクト、リョウは全速力で走り出す。
刹那の殺気。
リョウが振り返ったそこには、弘道が突き出した鋭い爪の一撃を受け止めているアイリス、仁刀、桐原 雅(
ja1822)の姿が。
「佳奈子――」
「おとうさん……おとうさん、おとうさぁーーーん!! イヤ、はなして! おとうさん助けてッ!!」
「――……」
夕紅を劈く少女の悲鳴に、弘道の顔から表情が消えた。
斯くして、憤怒に満ちた黒い炎が吹き上がる。
●赤く染まる
討伐只一点のみ。
例えそれが幻想でも『父娘の絆を断つ』と言う物である以上、徹底的に。
善悪なく災禍の如く理不尽に在るべきで、奪った者が救いを語る真似などしてはいけないと。
故に慟哭も赫怒も何もかも、向けられるならば総て受け入れる覚悟を以て。
そも、甦る死者など見るに堪えないが故に。
そう思っているから――しかし仲間の気持ちの納得は出来ずともマキナ・ベルヴェルク(
ja0067)がただ黙して見守っていたのは、それでも何がしたいかという想いは理解しているから。
己が出来ない事を、『彼等なら或いは』という一縷の希望を抱いて。
抱いて、いた、のに。今や希望は砕け散った。目の前で。
「……――」
ギリ、と奥歯を噛み締める。離人感に由来する自己客観視。 自他や諸余の一切に捉われない不動の精神。愚直さ。渇望――『理不尽も不条理も退けられる“英雄”で在りたい』
なればこそ戦うしかないのだ。退く事は出来ないのだ。包帯に隠された右の腕より神秘の黒焔が吹き上がる。それは彼女の灰銀の髪を揺らしながらその四肢へと衣を纏うが如く。
ギリ、と奥歯を噛み締める……『終焉』を与える為に地を蹴った。
(気を抜ける相手じゃ……ない)
手筈通り、同時に雅も仁刀と共に弘道へ躍り掛かる。雅が狙うのは側面。胆に力を込めて息を止める。
例え紛い物でも、ようやく戻ってきた父親を佳奈子から奪うのは気が重い。
でも、生者と死者が同じ時間を過ごす事は出来ない。
だからこの場で討たせて貰う。
「それが2人の望まない結末であっても、だよ」
羽ばたく燐光。型を持たぬ変幻自在にして多彩な蹴撃。
「全力を尽くす以外の選択肢はない……!」
仁刀も紅蓮の刃を真っ正面から抜き放った。
が。
「退けぇえッ!」
異形化した焔を纏う腕が大きく薙ぎ払われ、三人を強力に弾き返す。その脚は真っ直ぐ佳奈子を追おうとしている――「おとうさん助けて」ひたすら聞こえてくるのは佳奈子の泣き叫ぶ声。それが益々弘道を凶暴に、残虐に、殺意に、憤怒に駆り立てる。
「『死してなお共に居たい』その想いには同情はするがねぃ。……それだけなのさね」
九十九(
ja1149)は軽い口調で矢を番えて弦を引く。視線の先ではレギスの投擲した斧を腕の一撃で粉砕した悪魔の姿。さぁてと、お仕事しますかねぃ。
「そんな事で揺らぐ純粋な生き方してきてない……ただ殺るだけなのさぁね!」
放った。一条の矢が悪魔を穿つ。くぐもった悲鳴と遠くで佳奈子の泣き叫ぶ声が姫宮 うらら(
ja4932)の鼓膜を打った。
討つべきは討ち、救うべきは救う 。割り切れないと言えば嘘になるが、為すべき事を。
悪魔に見込まれるほどの強い想いで、娘との再会を願っていた父親。
依頼を受けた以上、彼を討ち、少女を『救助』することを第一としなければならないのは仕方のない事だ、が……
(それでも、)
閉じた瞼に蘇る、夕日に彩られた親子の笑顔。
出来得ることならば――公園で仲良く遊ぶ親子を続けさせてあげたかった……。
「ッ、」
ぎり、と血が滲むほど歯を噛み鳴らし。
しゅるり、とリボンを解いて白銀の髪を振り乱し。
無情な仕打ちで以って彼の願いを叶えた悪魔への怒りを。
二人を救ってやれぬ無力さ、悔しさを。
二人の仲を引き裂くようにヴァニタスと化した弘道を討たねばならぬ無情さを。
全ての想いをこの一撃に込めて。
「始めましょうか。姫宮うらら――鬼となりて、参ります……!」
放つ矢は裂帛の意志。鋭い一撃は悪魔の手を強かに打ち据え、その軌道を逸らした――禍々しい爪がマオの身体を浅く切り裂く。
「くっ……」
悪魔の人がゲートを開いたら大変な事になる。でも、その『もしも』の為に、カナコちゃんの大好きなお父さんを殺しちゃっていいのかな。『今』を犠牲にしていいのかな。
裂かれた腹の傷を抱えてマオは表情を歪める。
「……わからない。わからないよ」
声が届くか分からないけれど話しておきたかった――しかしもう会話の余地など無い事は明白。戦うしかない。哀しいけれど弘道が消える事が一番の解決策なのだろうから。いきなり『死んでくれ』なんて、理不尽極まりないけれど。それでも。それでも、
「だからアタシは、これで答えを出すしかないんだ!」
仲間と息を合わせて地を蹴った。猛攻に焼かれ切り裂かれ傷だらけになりながら、それでも声を振り絞り。
(『流れを感じる』。そうだったよね、師匠)
流れに逆らわず、流れに乗って――マオは空高く舞い上がる!
カナコちゃん、本当にゴメンなさい。
「イヤアァァァッ!」
強烈な踵落としが弘道の頭部を打ち据えた。更に空中で彼を蹴り飛ばせば、マキナ・雅・仁刀らが三方向から追撃する。
「主よ、貴方の御恵みが私に在りますように――俺は皆を護りたいのです。すべてを、この腕で。……もう二度と、今回の様な事が起こらない様に……」
レギスはロザリオを握り締めて遥かな天へと祈りを捧げた。脳裏に描くのは楽しげな親子の姿。
「O Freunde, nicht diese To"ne――」
光あれ、と。奏でる歌は歓喜に寄せて。奇跡の福音と共に赤黒いアウルが仲間の傷を癒していく。
(私にとっては人もヴァニタスも変わらない、と思いますが……任務なら、仕方ありませんよね……)
血だらけになりながら。しかしアイリスは凛と立ち、蒼い瞳で暴れ狂う悪魔を見据えた。
「My hand is nothingness.This hand cannot grasp anybody's hand」
マオと共に悪魔が放った炎の中を吶喊し、大剣を真っ直ぐに構えた。
蒼いオーラの翼をはためかせ、その様は感情も何もない殺戮兵器の如く。
「I am the nothingness. I cannot save anyone.」
せめて苦しまないように。
悪魔へ剣を突き立てる。頬に返り血。
●夕闇がくるよ
助けてお父さんと暴れ泣き叫ぶ少女を必死に抑え込み、リョウはどこまでも駆けた。
(佳奈子嬢は絶対に守り抜く。これ以上の不幸の連鎖は断ち切ってみせる……!)
夕闇の影が長い。走って、走って、脚が痛んでも走って。
こつ、とアスファルトに飴玉が落ちた――自分が少女にあげたもの。
(あ――)
それに一瞬気を取られ、足が縺れて転んでしまった。しかしリョウは決して佳奈子を離さず、怪我すらさせず、蹌踉めく様に立ち上がり。暴れる少女を抱え込み。荒い息の間から。
「佳奈子嬢、見ただろう」
離して、と言われた返答に。
「もう君の父親は本当の意味で父親では無いんだ、ヴァニタス――悪魔なんだ」
「いいもん! いいもん! おとうさんはおとうさんだもん!! やさしいもん!!」
「俺達を恨んでくれて構わない。だが、彼が悪魔にされてもなお君と共に在りたいと願い、何故それを想ったのかを忘れないでくれ。 彼がいなくとも君が幸せに生きていけないのならば、彼は安心して眠れはしないだろう」
「いや。いや。おとうさんといっしょに、いたいよぉおお……!」
悲痛な、悲痛な、少女の鳴き声が。
唇を引き結んだリョウの耳にいつまでも鳴り響く……。
●太陽が落ちる
既に力尽きた者も出て、誰も彼もが血みどろだった。
それでも――弘道が未だ公園にて佳奈子を追えていないのは、撃退士の決死の行動によるものだろう。
「悪魔の道具と成り果てても子を想う気持ちは立派だが、死者は土へ還すのさね……これ以上は、やらせないのさぁねっ!」
願うは全員の生存。失血に片膝を突いた九十九であったが、血濡れた唇で弧を描き矢を放つ。それは弘道の目に当たり、悪魔の悲鳴が撃退士の鼓膜を打った。
「ハ、ざまァ……」
しかし直後に九十九の口からゴボリと血反吐が吹き零れ、遂に冷たい地面に倒れた。
既に倒れた者は半数以上。一歩踏み出す悪魔は健在。片足を引き摺り立ち向かおうとする雅を、失血に震える腕で剣を構えるアイリスを手で制し――一歩、槍を構え立ち向かうのは血に塗れながら……しかし立っている者の中では比較的傷の多くないうららであった。
「これより先には、」
恨み辛みは、いずれあの世で。膂力の限り地を蹴って、今の自分より遥かに強いであろうヴァニタスに真っ向から挑みかかる!
「往かせません!!」
立ち向かう。その力、そしてその願いの強さに負けじと吼え、決死の形相、覚悟で。
負傷も厭わず、指先一つ、足先一歩動かなくなるまで立ち向かおう。
力の限り。
死に物狂い。
白銀の獅子が如く。
百花繚乱の赤が咲く――咲いた。咲いた。
音が聞こえているようで聞こえない。
者が視えているようで見えてこない。
咽を振り絞り、只管に刃を振るう。
●夜が来る
血潮の中、力無く座り込んだレギスの視界に悪魔の姿は無かった。
うららの猛攻に深手を追い、逃げて行った。もう居ない。シンと静まり返る、夕闇の中。うららは呆然と佇んでいた。だらんと垂れた手から槍へと血が伝う。
「 あ、」
そして糸が切れたようにぺたんと座りこんで。死んで、ない。今更ながらの死の恐怖。その傍ら、アイリスが彼女の肩にそっと手を乗せる。
「……私は……誰も、救えないんですね……」
アイリスの蒼から紅へ戻った瞳から一筋、涙が無表情の頬を流れた……
●後
九十九は仲間に内密で警察には件の友人夫婦以外の佳奈子の引き取り手を探して貰っていた。あくまでもただのお願いなので無理なら仕方なかったのだが――母親の遠縁が見付かり、喜んで佳奈子を引き取ると名乗り上げたのは奇跡と呼ぶべきか。
そして仁刀はヴェニタス化以前の弘道の遺物を、特に『悪魔の事件』現場等で娘に託そうとした物がないか、必死に探していた。数ヶ月前故に希望は薄いけれど、警察・友人夫婦・現地、何でも当たって。
そして、封筒に収めたそれを仁刀はポストに投函する。
「……、」
黙って踵を返して、足音が遠退いて行く。苦労の末に見つけた、本当の弘道の言葉を記した佳奈子宛の手紙。
『佳奈子へ。お父さんは、いつも貴方の幸せを願っています。』
「――畜生、……!」
吐き捨てた言の葉は、晴れ上がった空に消える。
『了』