●
「重要なことは何を耐え忍んだかということではなく、いかに耐え忍んだかということだ」
――――ルキウス・アンナエウス・セネカ
●可能性無き前夜
その日もまた、夜がやって来た。いつもと変わらぬ夜だ。12月の空気を孕み、吐く息を白く変える温度。
いつもと変わらない夜。
世界はいつだって一日も変わらない。
嗚呼果たして、こんなに縷々漫然と流れる時間の中で、一体誰が想像しよう?
果たされる筈もない暴力を。出口無く湧きたった憎悪の感情を。
「明日の明朝、我々は『作戦』を開始する。しかし、しかしだ。きっと『我々の期待通り』にはいかないだろう――我々は少なく、幼い。負傷者が出るだろう、罵倒されるだろう、二度とこの地を踏む事も出来なくなるだろう。
それでも我々はここに集い、覚悟を決めた。何故か?
我々は人間だ。言われた事に只従順な犬ではない。我々はジ・アダム、人間だ。人間だからだ。
自らに火を放った僧を知っているか。炎の再洗礼を。その理由を知っているか。ここで動かねば一体誰が動くというのか。
諸君は間違いを甘受するか? 不満を不満のまま生活するというのか? 仕方が無いと諦めるか?
否。否だ。全くの『否』である!
天魔共には絶対的な死を! 我々人間には絶対的な勝利を!」
古寂びた体育館に響くのは女の決然とした声だった。月明かりが見下ろす中、割れた窓から差し込む月光が凡そ20人ぽっちの人間を、『ジ・アダム』を映し出す。
誰も彼も、顔には決意。目には憎悪。空気は張り詰め、今にも爆発してしまいそうな錯覚すら覚える。
そんな中。そんな中だった。
「――ほう。天魔なら、会話の余地もないと?」
凛と響いた甘い声。唐突な出来事に驚いたジ・アダムが振り返ったそこに、一人の少年――異様な出で立ちだ、長い白銀の髪に、右目を包帯で覆った金襴の獣睨、修道服に襤褸外套。
「何者だ」
「Astrid=Maria=Kraft――自由奔放にして享楽主義な狂言廻し(トリックスター)。っと、見た目での判断はしてくれるな。これでも汝等が厭う天魔故な」
答え、芝居がかった礼をしたのはアストリット・クラフト(
jb2537)。正直荒事は苦手でね、と玩弄する詐欺師の如く笑む。『詐欺師』らしく、言葉で応じさせて貰おうか。
天魔――ジ・アダムの面々が急激に殺気立つ。光纏する者。武器を構える者。今にも襲い掛からんとするが――そんな彼等をリーダーである紗月は手で制し、天使を鋭く見遣る。冷徹な視線が絡み合う。
「汝等に問いたい。言葉は不要か? ならば異国の者も排斥するのか?
何故、とは問うべくもないだろう。天魔と人の争いも、人と人との争いも、本質は変わらぬのだから。
此処が。この日本が。どれだけの修羅場であったか――などとは、今更な話だろう」
天を仰ぎ、手を広げ、謳いて曰く。
「『Dead men tell no tales≪死者は語らず≫――ならば復讐は誰が為に行われるのか。亡くなった者の為?
――否。亡くした己への、無聊の慰めだろう?
天魔廃絶。国の為世界の為人類の為――嗤わせるなよ、酔漢共が。
人が『人類』と言う一括りで纏められぬのならば、天魔もまた同様であり、一枚岩ではないのだ。
客観的に、先を俯瞰してみよ。学園の天魔を皆殺しにして、その先は?
天魔消えて万々歳――と、本気で皆が思うと? 他者の想いの否定は許されぬ。それは解るだろう?」
「天使の言う事を『理解してやる』道理はないな」
「では――私を殺すか? 構わぬよ。それが未経験の果てならば然りと言う物だ。だが……」
あぁ、やはり無理だな。皮肉の笑み。溜息吐息。これは前にも憶えがある。既知感だ、と。
そんな様子の天使に、紗月は皮肉たっぷりに口角を吊り上げて。
「御高説痛み入る。……で? お前は何をしに来たのだ。そうやって人間を否定して悦に入りたいだけか? なら一生やってろ。楽しいんだろ? 笑ってやろうか? それとも――私を殺すか? 構わないぞ。やれるものならやってみろ、糞天使」
言葉の暴力には言葉の暴力。因果応報、当然の出来事、ましてや天魔が相手ならば。彼の言葉はあまりにも一方的過ぎた。そしてジ・アダムはそれを許容するほど寛容ではなかった。紗月の、ジ・アダムの睥睨がアストリットをじわじわと包囲し始める。殺気だった目、目、目。
――正に一触即発。状況は『最悪』で始まった。
それでも、だ。
待ってくれ、と――大きな声が一同の間に割り込んだ。アストリットが包囲され切る前に彼の前に立ちはだかり、ジ・アダムを一望したのは強羅 龍仁(
ja8161)。魔具も、魔装も持たない姿で敵意がないことを見せつ、もう一度。「待ってくれ」、と。ジ・アダム――どこか放っておけない。そう思うが故に。変動する出来事に、アストリットを、龍仁を、そして紗月を交互に見比べるジ・アダムを、傷の男は息を飲んで具に見遣る。
「ここで学園からの天魔排除の為に動く方々がいると聞いてきました」
次いで、そんな言葉と共に久遠 冴弥(
jb0754)が龍仁の横に並んだ。向こうは暴動寸前故、否定から入るとそれだけで暴発しかねない。故に目的を明らかにしない言葉を放つ。尤も、向こうも自分達の存在を推測はするだろうが――少なくとも、直に刃を抜き放つ事はあるまい。
斯くして想定の通りだった。ジ・アダムは冴弥達の出方を窺っている――しかし未だ張り詰めた気配。いつ崩壊しても可笑しくない雰囲気。
――理解は出来る。冴弥はそう思う。天魔とは基本的に簒奪者で、謂れなく奪われた者が憤る事を。
(ある意味真っ当な感性の持ち主、なのでしょうね……)
だからこそ。少女はじっと彼等を見詰め、思うのだ。こんな形で学園を去らせてはいけない、と。
「俺達は先生の頼みで来たんだ〜」
嘘偽りの無い言葉と、いつもの笑顔と。仲間の横に立つ星杜 焔(
ja5378)もまた、龍仁と同じく非武装状態であった。
更に藤咲千尋(
ja8564)もそこへ加わり、黙したまま真っ直ぐな瞳でジ・アダムを見遣る。ぎゅっと抱き締める、それで分かり合えたらいいのだけれど……それが難しい事も、分かっている。だから彼女は目で、訴えるのだ。じっと、真っ直ぐに。
対峙した想い。人間と天魔の数だけ。嗚呼、果たして、それが織りなす戯曲は何処へ向かうのか。これは笑い濡れた面白喜劇か、それとも残酷なるグランギニョルか。想いがぶつかり合うのも、想いが空回りするのも、見ていて楽しいものだ――体育館の入り口付近、壁に身を預けるジェーン・ドゥ(
ja1442)は舌の上でロリポップを転がした。光纏はせず、口は三日月に笑んだまま、観劇。
(どう言葉をかけるのか――えぇ、えぇ、お手並み拝見といこうじゃないか)
揃う一同を見守るのは、三つの人影。
戦争の趨勢も決まってねェのに内部抗争開始って敗北フラグじゃね? と。そう思う法水 写楽(
ja0581)は仲間を黙し見守る。生憎、自分には説得出来るような心情理解や共感は無い。故に息を殺し、何かあれば対処出来るよう、じっと。
(俺のありえたかも知れない未来、だな……)
身につまされるね、まったく――黒い影の中、黒。麻生 遊夜(
ja1838)は呟きの代わりに白い吐息を漏らした。今でこそ自分は天使にも悪魔にも興味はないけれど。
しかしジ・アダムを放っておけば、彼の世界――彼の目の届く範囲を害するだろう。それだけは許せない。
「武器なんざ使わずに済むならそれでいいんだが……」
無意識下、視線を遣ったのは右人差し指に取り付けた黒と赤のダブルリング、ヒヒイロカネの指輪。
「頼むから使わせてくれるなよ……」
そんな光景、見たくねぇぞ。指輪を額に宛がいつ、遊夜は静かに目を伏せた。
同じく待機班である宇田川 千鶴(
ja1613)も物陰に隠れ様子を窺いつつ、されど何処か苛々とした気持ちを押さえこんでいる様な様子だった。手にした忍刀・雀蜂をぐっと握ったり、その力を緩めてみたり。冷たい鞘。冷えた白い指。
(不幸だ不幸だ憎し憎しと酔っていれば、殲滅も正当化できる……?)
ふ、と。髪と同じ白い色の吐息。
(人はそんなんやないと思いたいけどね……)
口唇から漏れた白は、夜の黒に解けて消えた。
「成程、全てお見通しという訳か。で、我々を潰しに来たのか?」
紗月の睥睨が立ちはだかる者達を一望する。警戒。武器こそ手にしていないけれど。
「ううん、違うよ。力尽くのつもりはない……少なくとも俺は、ね」
掌を、ヒラリ。焔の言葉に紗月は「ほう」と口を開いた。
「だが、少なくとも協力しに来たようには見えないな」
彼女の視線は、焔達の肩越しに見えるアストリット。彼女等の認識では『天使に喧嘩を売られた』のだ。
「……あのね、ジ・アダムを潰したいんじゃないの」
最中、千尋は空間が沈黙で満ちてしまう前に、一言。集まる視線。緊張に乾く唇を舐めて、言葉を続ける。
「同じ痛みを抱えて、でも何も出来ない人達は学園の外にも沢山いる。私は、ジ・アダムがそんな人達の拠り所になったらいいなって……そう思うの」
自分は、ごく普通の家庭で育った。普通の――彼等が狂おしい程に望んでも手に入らない、或いは滅茶苦茶に壊され奪われた日常を送ってきた。それでも伝えたい気持ちがある。
「正直、『お前に自分達の気持ちがわかるか!』って言われても、私は同じ気持ちにはなれない。でも想像は出来るし、寄り添いたいって思う」
千尋のその言葉に続いて、冴弥は静かな口調でジ・アダムに『進言』を。
「……暴動では教師陣も止めに入りますし、排除されるのは貴方達になります。
天魔に否定的な他の方々も、警戒される事になるでしょう。
それは結果的に天魔のこの学園への浸透を早める事になりませんか?」
紗月は、ジ・アダムは、反論をしてこない。なのでそのまま続けた。
「天魔に否定的な考え自体に理がないとは思いません。だからこそ、貴方達はここに残り、天魔の動きを監視する存在になる、という道もあるのでは?」
「――、」
反論の言葉は未だ出ず。言葉を出しあぐねているようにも見えた。ただ一方的に否定されたならば、否定し返せばいい。だが、彼女達の言葉は『否定』ではなかった。尤も『賛同』でもないが――だからこそ。
「……私は君達の言葉を否定しない。だが、……振り上げたこの感情は、溜まりに溜まったこの感情は、どうすれば良い?
あぁ分かっている、君達の言っている事は、正しい。尤もだ。けれども。すぐに『その通りだ、ならばそうしよう』と……言えると、思うか? 今更……」
来る所まで来てしまったのだ、と。紗月は言う。それでも最初に目を合わせた時の様な敵意は見受けられない。一先ず、一触即発の空気は免れたか。だがまだまだ安心できる状況では断じてない事は火を見るよりも明らかだった。
話を聞いてくれる、今の内に。次いで口を開いたのは龍仁、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「俺は暴動を考え直して貰う為にきた。俺自身、妻を殺されておりお前達に気持ちは分かるつもりだ。俺には護るべき者がいたからこそ、こちら側にいるのだが……」
一間。息を吸い込んで、ハッキリと。
「敢えて言わせて貰う。暴動を起こすのはやめてくれ。
今ここで学園に来た天魔を殺したところで何もかわりはしない。ただ、お前達が粛清されて終わりだ。
天魔を許せとは言わない。だが、学園に来た天魔に関してはもう少し長い目で様子を見てもいいんじゃないか?
退学になった場合、腕の立つ者はフリーでやれるかもしれないが、他の者はどうするつもりだ? 路頭に迷わせるのか?」
「……っ、元より粛清は覚悟の内だ。何故貴方は、最愛の人を天魔に殺されたのに天魔の肩を持てるのか?」
絞り出す様な紗月の声に、答えたのは焔。
「ん〜、俺も強羅さんやきみたちと似た様なものかな〜。7つの頃悪魔に両親を。去年の今頃に孤児施設の仲間を天使に、ね」
「何故? なのに、何故君達は……」
そこにいるんだ、と。無言の内に問う。天魔の話が出て、ジ・アダムの中では明らかに顔に影を落とす者も居た。よくよく注視して見れば、顔半分を覆い隠す髪の下に酷い火傷を負った者や、義手義足を付けた者、服の下に数多の傷跡を持つ者。天魔によって傷付けられたのだろう。消えない傷。身体だけでなく、心にも。
一人一人。外見、小さな仕草、それらが物語る。消えない復讐と憎悪の火を。遣る瀬なく出口無く果ても無い感情を。
「何なのだ。結局、そう言って、君達は『復讐』から逃げているだけじゃないのか? 怖いだけなんじゃないのか? 『天魔となかよしこよしすべし』という多数の意見に妥協して流されているだけじゃないのか!?」
「うん……そうかも、しれないね〜」
「何故笑っていられる? ふざけているのか?」
指摘された焔の笑顔。張り付いて取れない、凍りついた表情。そこに指をやって、焔は言う。
「これは、ずっと、『こう』なんだ〜……『あの日』から。ごめんね〜」
あの日、それが何を意味するのか、ジ・アダムには理解が出来た。天魔による何か、酷い事件。消えないトラウマ。
「天魔なんて憎くない。……と言えば嘘になるのだろうね〜。
でも。悪い事をしてしまった時、謝っても顔を見て反省していないと。野犬が荒らした鶏小屋を第一発見者だった俺の仕業だと。そう決め付けたり。気味が悪いと施設を追い出したり……性的な意味で襲ってきたり。してきたのは人間だった」
嗚呼、幾ら指先で頬を解そうとも、表情は『あの日』から何ら一つ変わらない。その笑顔で、続ける。
「世の中の全て滅ぼせば残るのは自分1人に、本当の孤独になってしまう。
人に邪魔者扱いされていた中、寄り添ってくれる人も現れた。幸せだと思った。彼女は天魔と撃退士の戦いに巻き込まれいなくなった」
知らず、俯いて居た顔。足元に影。暗い影。
「振り上げた力は……必ず狙った相手だけを傷つけるとは、限らない」
冷えた空気に声が響いた。紗月は奥歯を噛み締める。いっそ、暴力的に。徹底的に。否定されれば良かったのに。そうすれば、迷う余地なんて無く立ち向かう事が出来たのに。
どうすれば良い――惑い、迷い、逡巡、言葉を探している沈黙。
それを破ったのは、戯曲を謡う様なジェーンの声だった。
「憎い。怨めしい。許せない。そう感じるのは当然だ。
殺したい。壊したい。復讐したい。ええ、それもご尤も」
コツ、コツ、足音が響く。髪が靡く。広げた掌、聴衆を見渡し。
「その激情。その妄執。その想い。実に、実に、実に人間らしい。
復讐は何も産まない? 赦し共に歩むべき? 成程、正しい意見かもしれない。
ああ、そしてただ正しいだけで、人の感情の前には如何程の意味もない。その想いも行動も全肯定するよ」
コツ、コツリ。彼らの目の前、誰よりも近い所で、魔女は諸手を広げて嘯いた。
「天魔をどう思うか? ──人と同じ位愛しているとも」
目が合った。紗月は眉根を寄せ、問う。
「天魔を滅ぼすという我々を肯定しつつも、その天魔を愛している、だと?」
「あぁ、愛しているとも。君も。彼も。彼女も。天使も。悪魔も。人間も。誰も彼も何もかも。
さてさて、さてさて――だからこそ僕は言おう。君に予言を伝えよう。
君達の企みは学園に筒抜けで、このままでは一人も天魔を討てずに無駄死にだ、と。
ならばどうすれば良いか? えぇ、えぇ、それも勿論伝えよう。『学園に従い天魔を狩りつつ機を待て』と」
顔を寄せて囁くように、惑わすように。舌に乗せたキャンディよりも甘い甘い味をした毒を言葉にたっぷり潜ませて。何故なら彼女は魔女なのだから。
「憎くて怨めしくて許せない。命に変えても滅ぼしたい。ならば、ならば、ならばこそ無駄死なんて自己満足に浸る訳にはいくまい?
青いままの林檎など、幾ら蛇が唆そうがアダムもイブも食べやしないさ」
ジェーンとしては、彼等がどんな決断でも構わなかった。揺れる、決断するその様が見たい。
(――でも、欲を言えば。想いを貫いて欲しいかしらね)
そんな覗き込む視線に紗月は目を逸らす。堂々巡りの思考。確かに彼らの言う事は正しい。だが感情が追い付かない。振り上げたこの手は何処に下ろせばいい? 待てばいいのか? これ以上『待てる』のか?
「俺も強羅さんや星杜さんと同じようなもんさ」
最中に、物影より現れた遊夜が言葉を放つ。
「親父はディアボロに、母さんはサーバントに……妹は逃がせれたと思ったけど、結局生き残ったのは俺だけだった。
『天魔滅ぶべし』? 同感だね。実行した奴もそれを命じた主も同じ考えしてる天魔も駆逐するべきだろうさ」
ゆっくり見渡し、溜息一つ。
「……で、それが何でこんなことになってんのかな?
お前らの大事な人を殺したのは誰だ? そいつを潰しに行ったのか? その主は? 狩れなかったか? それとも誰だかわからなかったか?
殺すために強くなろうともせず、探す努力もせず、近場にいる手頃な相手に八つ当たりかまして満足か? お前らの憎しみってのはその程度なのか?」
「……他人を見下して、良い気分か? 口では偉そうに、正論の飯事ばかり。我々を止めに来たんだろう、まどろっこしい……そんなに気に食わないなら今すぐ武器を向ければ良いだろう!」
蟠り、迷った気持ちをぶつける様に。刃の様な感情を向けられながら、されど遊夜は一歩も退かず。
「憎むなとは言わん、仲良くやれとも言わねぇさ。どうせなら利用しちまえば良い、戦力が増えりゃ狩れる数も増えるんだからな。
何なら模擬戦でもして試してみるかい? これからの為に」
「こっちは種族混合チームなの。共に戦う仲間としての力を見極められるんじゃないかな?」
千尋も加わった提案に、紗月は顔を顰めた。
「模擬戦だと? ……悪いが、断る。必要性が無いし、我々の標的はあくまでも天魔だ。人間と戦うつもりはない。そして君達の仲間の天魔には『模擬戦』どころではなくなるぞ。
だから……退いてくれ。今下がったのならば、君達に危害は加えない」
感情を押し殺し、絞り出す様に言った言葉に。しかし退かず、それどころか龍仁は一歩前へ。手を広げて。
「どうしても行くなら俺を殺してから行け」
妻を化物に殺されて。自分か息子がここにいてもおかしくないと思うと、龍仁には彼等が他人事には思えない。故に、諦めない。
「ここで殺しておかないと俺はずっと付き纏うぞ。息子をお前達と同じ境遇にするのは心苦しいが、お前達が考え直して貰えないなら仕方ない」
「な……正気か!?」
「ふざけている様に見えるか?」
「退いてくれ」
「なら退かせるんだな」
「頼む」
「俺からも言おう、『頼む』。もう、やめるんだ」
「でも……!」
「分かってるんだろう? やめなさい」
「煩い!!」
絞り出した声は苦し紛れに、涙交じりに、八つ当たる様に、酷く幼稚な感情。強がりの仮面が落ちた声。
振り上げた拳――振り下ろす場所を見失った拳――されどそれは、影を凝縮した無数の棒手裏剣が二者の間の床に突き刺さり、断絶させる。
一同が振り返った先には、千鶴。射抜く様な視線で、ジ・アダムを見。
「次は当てる。……なんで外したか、彼らの話を聞いてもわからんか?」
歩み寄る。ブーツの足音。ピリピリと、漏らすのは抑えきれぬ怒気。その手に在るのは、ペットボトルに入った水。それを、ジ・アダムへとブチ撒けて。感情もぶち撒ける。
「黙って聞いとれば、この……ボケ共が! ドタマ冷やせ!! 不幸に甘えんなや! 乗り越えてみせろや!!」
肺の底から怒鳴り、空のペットボトルを床に叩き付け、千鶴は紗月へ指先を突き付け捲し立てる。
「えぇか、よぉ聴きや。あんたらがこれから不幸を免罪符に殲滅しようとするんは、誰かの同級生や。
あんた、なんもしてへん友達が意味分からん理由で殺されても、許せるんか? 違うやろ!? 許せへんやろがッ!」
響く怒声、たじろぐ一同に千鶴は長く息を吐いた。
「ある人の言葉や……『暴力は放たれた弾丸が二度と戻らぬ銃』。この意味が察っせやんならかかってこい、全力でお相手したる」
「俺は天魔が憎い」と。そう言った男は、人間にも天魔にも変わらぬ愛を注いでいる。憎悪も怒りも全部飲み込んでこの学園に居る。その心を、彼等こそ一番理解できる筈だと――ジ・アダムの存在にはうんざりしながらも、千鶴は心の何処かで信じているのだ。
身構える千鶴の横には、写楽。更に、窓を盛大に勝ち割って両者の間に現れたのは――フェンリス・ヴォルフ(
jb2585)。蒼い獣耳が彼が悪魔である事を物語る。
「あ〜、人間界守る為に天魔共と命懸けの死闘を繰り広げてるタフな連中が集まってると聞いて来てみりゃぁ……なんだこれは、自分のことばっかりで大勢も見えてねえやつばっかりじゃねえか」
身を起こし、後頭部を掻きながら溜息一つ。悪魔の出没に身構えるジ・アダムへ何ら臆せず一歩前へ、武器も何も構えずに。
「俺様達悪魔や天使共が人間界に降りたってことの意味をちっともわかってねえなあ。
程度の差こそあれどいつもこいつも命賭けてんだ。対抗種族だけでなく今まで仲間だった連中にも命を狙われてる。
あげく力は弱体化……俺様もこの姿を保つのが精一杯よ。元はでっけぇ狼なんだぜ?
人間にゃ分かんねぇかもしれねぇがよ。どれだけの覚悟、どれだけの理由があればそこまで出来るよ。
人を愛し守りたいと思うバカ、上の連中の方針に疑問を持ち己の信じた道を突き進むバカ。どいつもこいつもくだらねえお人好しだ。
まあ中には俺様みたいにより強い連中と戦いたいが為に裏切った大バカ野郎もいるけどなあ」
豪語高言、ニヤリと笑えば口唇から鋭い牙がギラリと光った。
「俺を殺したいか? だがなぁ、そりゃ無理だ。お前等の甘っちょろい攻撃なんざ効かねぇぜ。俺様を弱いやつら嬲って楽しんでるようなカス共と一緒にするんじゃねえ。
安心しな、ルシフェルだろうがメタトロンだろうが神だろうが魔王だろうが、この俺様が全員ぶちのめしてやるからよ。
根拠なんぞいらねえ、必要なのは覚悟だけだ――そうだろ、『人間』?」
悪魔の囁き。他ならぬ天魔に。反論はない。混乱している。彼等が今何を思っているか、誰の目にも明らかだった。
どうしたらいい。
どうすればいい。
ぐらぐら、揺れる気持ち。理性と感情の狭間。
「わたしが怪我するとすごく心配する人達がいるの。そこの千鶴さんとかね。あなた達にもいるんじゃないかな、同級生とか」
その中で、千尋は優しい微笑みと共に歩を進めた。ジ・アダムへと。
「いないって言われてもわたしが心配するよ。もう知らない人じゃないし同じ学校の人だし!!」
だから、だから。嗚呼、視界が、ジワリ。滲む。
伝えたい事がある。綺麗事だけじゃ駄目って分かってる。冷静な目で現実を見る人も必要で、その上で綺麗な世界を作りたいと思う。伝えたい気持ちはある。でも、それを上手く言葉に出来なくって。こんがらがって。複雑で。分かりたいし、分かって欲しくて。
笑顔のつもりだったのに、いつの間にか、感情が噴き出して涙がボロボロ。笑顔と元気と人懐こさは自信のなさの裏返しで、真っ直ぐなだけ不器用で、だからこそ、どうしよう、どうしよう。わんわん泣きながら、歩みを止めずに紗月の前へ。ぎゅっと抱き付いた。抱き締めた。
いつもいつも、千尋は恋人や友人に伝えたい気持ちを言葉で伝えきれなくて。そんな時は、いつもこうやって。言葉にしない分、純粋に気持ちが伝わる事もあるから。
体温。二人共人間で、二人とも生きている。
ぽろり。釣られる様に、あるいは、堪えていた糸が切れた様に。紗月の頬にも、伝う雫。
震える手が、ゆっくりと持ち上げられて。千尋を抱き返す。ぼろぼろ。涙は止め処なく、止め処なく。
嗚呼、分かっていた。知っている。彼等の言葉は届いていた。
ただ、どう受け止めたらいいのか分からなくって。受け止めてしまえば、所詮自分達の『気持ち』はその程度だったのではないか、そう認める事になるのではないか、と。怖くって。
怖くって。怖くって。
――人間的な、余りにも人間的な感情。
二人の少女の泣き声が響く中、ジ・アダムは俯き、項垂れ、或いは涙を流し、武器を手放してゆく。床に落ちる音が重なる。
「放っても暴動は潰されるのだから。戦う資格を奪われるのだから。俺達が寄こされたのは君達を守る為なのだから。
傷つけて迄止めても、君達の気持ちが動かなければ何の意味も無い」
俯く副リーダー達に焔は言う。それから、こう提案した。
「こんな時間に寒い中、お腹空いたでしょ。温かい美味しいもの、皆で食べよう」
お鍋、用意して来たんだ、と。
●可能性の始まる夜
冷えた体育館の中。されど、ほっこりと漂うのは暖かい湯気と、鍋の良い香り。談笑の声。
「まぁ……まだ戦いは続くんだし、そん中で天魔との在り方について考えれば良いんじゃね?」
あつあつの白菜を齧りながら写楽は言う。俺は、そうだな……見上げる視線。湯気の彼方。窓の外には星と月が輝いている。
「さっきは、きっつい事言うてごめんなぁ……」
「いや、こちらこそ。……すまなかった」
千鶴の言葉に、紗月は頭を下げる。
その一方で、
「野菜も食べなよ〜美味しいから〜」
「俺様は肉が好きなんだ!」
ヴォルフのお椀に野菜を入れようとする焔と、それを避けるヴォルフの攻防。冴弥はヒリュウと共に黙々と鍋をつつき、ジェーンは変わらぬ調子で一同を眺めては笑みを漏らしている。
その平和な様子を見、遊夜は湯気に曇る眼鏡を拭きながら。
「一件落着、だな」
笑みと共に、一言。
全くだ、と龍仁は通りすがりに応え、紗月の傍へと。目が合った。
「……ありがとうだ」
「あぁ、……ありがとう」
交わしたのは感謝の言葉。それ以上の言葉は、不要だろう。
そんな仲間達の様子をぐるりと見渡し、千尋は窓の外を見遣った。もうじき、夜が明ける――新しい一日が始まる。
「いつか沢山の人達の心の拠り所になってほしいな」
願いの言葉と、白い息。
●それから
その日も、何一つ変わらず始まった。
平和で、それでいて慌ただしい一日がまた始まる。
チャイムが聞こえる。騒がしい喧騒。学園の一日。
ジ・アダムは棄棄よりコッテリ説教をされたようだが、誰一人として退学や休学処分を受けた者はいなかった。とは言え、大量の宿題や課題やレポートを手渡されたようだが。
そんな彼等は今、これからの道を探している途中だという。だが、もう嘗ての様な過激な行動は起こさないだろう。
――とは言え、彼等の中の憎しみが消えた訳ではない。心の傷は容易には消えない。
彼らだけではない、心に傷を抱えた者は、数多くいる。
それでも、一歩ずつ。
彼等は進むのだ――今日も、明日も、明後日も、世界が回り続ける限り。
『了』