●ゆうやけこやけで
赤い夕焼けが網膜に沁み渡る。
あの日の様な夕焼けだった。
「……」
柊 朔哉(
ja2302)――あの時はレギス・アルバトレという名だった――は、ただ黙していた。依頼内容を言い渡された時と同様、表情を崩さず、ただじっと。
そして、静かに頭を垂れる。
彼女は事前に『あの』報告書に目を通していた。今でも鮮明に思い出す、あの光景。赤い色。それ以外の調べ物は功を奏さなかったけれど、やれる事はやった。
彼女達が、自分達の顔を覚えているかは解らない。
だが、一度引き合わされた運命ならば。
(……この罪科は、己が身で償います)
ロザリオをぎゅっと、握り締める。
佳奈子に撃退士を『怖い人』と思わせてしまったのは、自分の所為だ。
ロザリオを握り締めた手が、震える。
怖い。
彼女達と顔を合わせる事が、とても、怖い。
それを押し殺す様に、聖女は夕陽に祈るのだ。主よ、と。
その背を見、リョウ(
ja0563)もまた思い返す。
(俺達が犯した咎は、彼の帰る場所を俺達のエゴで奪った事、救う為ではなく終わらせる為に此処にいる事)
そして――目を伏せる。夕焼けの赤が、眩しい。
「あの時取り逃がしたから、もう一度目の前で奪う事になる、か……
全てはこちらの不足が起こしたことだ。だったら、もう一度背負うしかない」
畜生と、あの日の久遠 仁刀(
ja2464)は叫んだ。心の底から。
この世界はいつだって素晴らしく理不尽で。
「……願いは遠くに。慈悲は理想と共に置いてきました」
あれから、半年。あの時は『橋場』の名を持っていなかったアイリス・L・橋場(
ja1078)は表情に一切を浮かべない。姫宮 うらら(
ja4932)もまた、黙したまま首を振る。
語る言葉はない。全ての想いは刃に込めて。
並木坂・マオ(
ja0317)も同様に、思いを胸に沸々と。
(正直、『天魔』って言われても、いまいちピンと来てなかった)
羽が生えてて凄い力を持ってる人達なんだな、その程度の認識。だった。過去形。
今は――憎い。それも本気で、だ。
「こんな事で誰が喜ぶっていうんだよ……!」
憎むべきは誰なのだろうか。握り締める拳。
「……あまり、良い気はしませんが。仕方ありますまい」
字見 与一(
ja6541)は溜息一つ、仲間を促す様に一歩前へ。
そう、進まなくてはならぬ。
「この父娘のような悲劇を繰り返させないために、私はこれからも撃退士として戦うんだ」
緊張の動悸が脈打つ胸へ手を宛がい、神埼 晶(
ja8085)は深呼吸一つ。前を向く。
牧野 穂鳥(
ja2029)も差し込む夕光に目を細め、吹き抜ける夏の風に深緑の髪を靡かせた。
父と居たい。そんな幼い少女の願いは、自然で無垢で、当然な願い。
それを自分達は引き裂かねばならない。
けれど――蹂躙者になる事を、穂鳥は躊躇わない。
(明日は忘れるような憐憫が、この子にとって何の意味があるだろう)
やるべき事は果たす。
仲間を見渡し、頷き合い、銘々に動き出す。
ある者は変装し、ある者は足音を絶ち、ある者は気配を薄め、身を潜め、歩き出し、動き出す。
結果が先に繋がる事を信じて。
●xxx
どうしても、どうしても、気掛かりで、心配で、不安で、哀しくて、悲しくて、叫んで叫んで。
彼女との約束なのに。自分はこんな所で消えるわけにはいかないのに。
すると悪魔が笑ったのだ。
その願いを叶えてあげようと。
そして目を覚ましたそこに、真っ赤な真っ赤な夕焼けがあった。
眩しくって目を細めながら、思った。
それは腹の底から湧き上がる激しい衝動だった。
あの子を迎えにいかないと。
あの子と一緒に居ないと。
あの子を護らないと。
私と、彼女の、大切な大切な――たった一人の子供。
●赤く染まる
住宅街、川沿い、夕飯のにおいが漂ってくる夕暮れの道。
そこを、穂鳥と与一と晶が歩いていた。
その顔こそ常のものだが――まだか、まだか――歩き、斯くして、『その時』は訪れる。
「!」
居た。
自分達の何mか前、仲良く手を繋いで歩く仲睦まじい父子が。
笑顔だった。
楽しそうだった。
幸せそうだった。
その先に待ち受ける、悲劇なんて知らないで。
「……」
作戦開始。
何気なく、普通に、歩く。近付く。佳奈子は特にこちらを意識していないようだが、弘道はどうか。目元を柔和に笑ませて、はしゃぐ娘の話に相槌を打っている。気付いて居るだろうか。分からない。逸る気持ちを抑えつける。ここで失敗する訳にはいかない。今か。どうか。
今だ。
その瞬間、穂鳥はポケットからスマートホンを取り出した――その動作に弘道の視線が確かに穂鳥を捉える。同時、軽い物が落ちる音。
「あ!」
真っ先に反応を示したのは他でもない、佳奈子だった。その視線は下へ、穂鳥がスマートホンを取り出すと同時に地面へ落ちた可愛らしいストラップへ。
拾って貰えますか。そう穂鳥が声をかける前に、弘道の手を離した佳奈子はしゃがみ込んでそれを拾う。壊れてないか確かめて、ふっと息を吹いて砂を払い、穂鳥へ満面の笑顔を向けて。
「おねえちゃん、これ、落としたよ!」
「あ。ありがとう、助かりました」
穂鳥は差し出されるストラップを、その手を、優しく包み込んだ。
「例えばAがBを得るための条件を満たす時、Bが即座に自壊してしまうケースがあったとして、貴方であればどうしますか?」
その同時進行、与一は佳奈子のすぐ傍で一連を見守る弘道に話しかけた。意味があるんだか無いんだかよく分からない話。注意を引く為に。
「そうさせなければ良いだけの話です」
一言。それから佳奈子の頭を撫でた。拾ってあげたのかい、偉いねぇと。
斯くしてそれからは、一瞬。
「眠ってください、深く深く、夢も見ないほど。今日の今こそが夢となるように……」
優しく、しかし強く、穂鳥は佳奈子の両掌を包み込んだまま。囁いた声。魂縛。
ふっ、と――
全ては一刹那。
睡眠に落ちた佳奈子の体から力が抜け――それを穂鳥は抱きよせようと――その目には、視界には、見開いた――表情を怒り狂う悪魔のそれに変貌させ、弘道の腕が異形化していて――嗚呼――与一を凶悪に吹っ飛ばした凶器そのものの腕が、迫る、迫る、せま、――
「 が、は……っ!」
例えるならば、猛スピードのトラックに撥ねられたかの様な。鋼の壁に叩き付けられたかの様な。切り裂かれ、吹き飛ばされ、穂鳥は倒れていた。全身を襲う激痛。多分、骨が折れている。臓物が捻じくれて破れている。大量の出血。血反吐を吐く。それでも、どうなった、佳奈子は。赤い視界で見遣れば、そこには人間の左手で眠った佳奈子を抱き、悪魔の右手で撃退士達を睨み付ける弘道の姿が。
「貴様……貴様……佳奈子に何をしたァア……!!」
殺意。それから、怒りのみの感情。すさまじい殺気と怒気に穂鳥は全身から冷や汗が吹き出すのを感じた――これが、これが、ヴァニタス。今まで相手にしてきたディアボロ等とは次元が違う。なんだこれは。こんなものが、この世界には存在しているというのか。目の前に居ると云うのか。
殺される。
見開き切った眼が震えそうになって、痛みすらも忘れる程に。
しかし、その視界。穂鳥と弘道の間。
光纏もせずに両手を広げて立ちはだかった、晶。
その紫眼は真っ直ぐに、真っ直ぐに、弘道の目を見ていた。
実時間ならば一瞬の間。されど、晶が言葉を発するまでには永遠の様な時間が流れた――
「こんにちは」
目を逸らさず、一歩も退かず。
「はじめまして、新田弘道さんですよね。私は神埼晶といいます」
「退け」
「娘さんの事で、お願いがあります。話をきいてもらえませんか?」
敵意はない。戦闘の意志は無い。それを言葉で、態度で、目で示し。
「佳奈子に何をした」
「眠って貰っただけです。大丈夫、抱き締めている新田さんなら分かるでしょうが、傷付けてはいません。
佳奈子ちゃんに、貴方のその姿は見せない方が良いでしょう?」
「私を殺しに来たのか」
寸の間の沈黙。噛み締めた奥歯が答え。それでも、晶は言葉を紡いだ。
「佳奈子ちゃんを私達に託してはいただけませんか?」
弘道が佳奈子をその腕に抱いている事が幸いしたか――正に不幸中の幸いだ――弘道は一先ず怒りのままに襲い掛かってくる事は無い。その場から晶の様子を窺っている。
だが、その敵意は依然として消えていない。今も無数の針が晶に皮一枚分喰い込んでいるかの様な、そんな錯覚すら覚える。
す、と晶は空気を吸い込み、凛然と続けた。はっきりと。真っ直ぐに。
「新田さん、貴方はもう死んでいるんです。佳奈子ちゃんと一緒にいるべきではありません。
佳奈子ちゃんの今後をどうするつもりですか? 学校は? 友達もできないまま過ごさせる気なんですか?
撃退士に追われる身の貴方が佳奈子ちゃんを満足に育てられますか?
娘の普通の幸せを願うのなら、佳奈子ちゃんを解放してあげてください」
「っ……!」
弘道が。
表情を怒りに染めていた弘道の顔が、揺らいだ。困惑。狼狽。逸らされる視線。半歩下がる足。
「私は……護る……この子を……約束……幸せに……この子を……佳奈子を……」
更に下がる足。娘をぎゅっと抱き締める。
しかし、その目には隠しきれぬ動揺。苦しむ様に歪んだ表情。異形化が徐々に戻って行く。
「私は……死んだ……? そんな……」
再度撃退士達へ向けられたその目は――何と形容すべきだろうか、何かに気付いた様な、絶望したかの様な、嘘だと云わんばかりの様な、深い悲しみの様な。
「佳奈子ちゃんは、私達生者と共にあるべきです。死者の隣りに彼女の未来はありません」
「理不尽だとは思います。ですがあなたと娘さんの世界は、既に分かたれてしまいました。どうか、手を離してあげてください……!」
晶に続き、穂鳥も傷を抱えて声を張り上げた。
お願いだ。伝わってくれ。
全ての思いを胸に、声に、晶は弘道へと言い放つ。
「もし人間の心が少しでも残っているのなら、新田さん、どうか賢明なご判断をお願いします!」
夕風が吹き抜ける。
少女は悪魔の胸で安らかな寝息を立てている。
悪魔は沈黙していた。今やその姿は先の人間の姿に戻りきり、両手で娘を抱き締めている。しっかりと。離すまいと。
沈黙。一体どれ程の沈黙が流れただろうか。
口を開いたのは弘道だった。
「すみません」
それは、予想を大きく超えて謝罪の言葉。
「本当は、気付いていました。全部分かっていました。私が死んでいる事も、悪魔に蘇生された事も、もう人間に戻れない事も、……化物の私と一緒に居る事が佳奈子の本当の幸せにはならないだろう事も、もう日常は取り戻せない事も、この子は人間で私は化物で……二度と一緒には暮らせない事も……!」
その顔は。
幾筋もの涙が伝っていた。
心の底から悲しみを含んだ言葉だった。
「ああ、わかっていたんです、私は。知っていたんだ。私は化物だ。佳奈子は人間だ。一緒にはいられない。ああ、それでも、それでも、気が狂いそうになる程にこの子と一緒に居たい、この子を傷付ける者は泣かせる者は消してやりたい、頭では分かっていてもどうしようもないんだ、まるで極限の空腹の様に眠気の様に……耐えられないんだよ……抗えないんだよ、この『欲望』には……!」
嗚呼、それは、ヴァニタスの哀しき宿命。
欲望。彼らの、心臓であり脳味噌。
きっと人間には想像もつかぬ感覚、なのだろう。
慟哭が響く。佳奈子を抱きしめる。その頭を撫でる。ごめんな、ごめんな、ごめんな、死んでしまってごめんな、化物になってしまってごめんな、もう一緒に居られなくってごめんな、大人になる姿を見届けれずにごめんな、お前の子供を見る事が出来ずにごめんな。
一頻り泣いて、嗚咽を漏らして。
そして、弘道はゆっくり晶へと見遣った。
「晶さん」
「はい」
「……この子を」
差し出す腕に、抱いた佳奈子。『佳奈子と一緒に居たい』という欲望とは正反対の行動に瞠目する彼女を、弘道は穏やかな目と声で。
「早く」
「……はい」
近寄り、少女の身体を受け取った。眠った少女を、今度は晶がしっかりと抱きしめる。
それを見、満足そうに。哀しそうに。託す様に。
「いいですか。佳奈子をうんと遠くに離して下さい」
放たれた声。撃退士達を、見。
(こんなに若い……青少年達が……)
それらに、辛い事を押しつけてしまう後ろめたさを感じつつ。
弘道は努めて穏やかに、言った。
「私は……発狂する程に佳奈子と一緒に居たいです……ですが、それを抑えて、貴方達に佳奈子を託します。
この欲望に抗う事は……残念ですが、出来ません……今も、晶さん、貴方を八つ裂きにしてでも佳奈子を私の腕に抱きたい。だから。だから、そうならない内に、『抑えている』内に、どうかどうか」
ニコリと、笑んだ。
「お願いします。私を、どうか、」
涙を一筋、流しながら。
「殺して下さい」
●xxx
――ねぇ、弘道さん。聴いて、聴いて
――どうしたんだ、そんなに慌てて
――聴いて、あのね、居るの
――居る?
――そう、居るの。私のお腹に、貴方と私の赤ちゃんが
――ほ、本当かい!?
――あら、どうして嘘を吐かなくっちゃあいけないのかしら
――あぁ……なんて事だろう……やった、やったぞー!!
――ふふふ、弘道さんったら本当に涙脆いんだから
――この子、男の子かしら。女の子かしら
――どちらでも、君に良く似て優しい子になるよ
――そうね、きっと貴方に良く似て素敵な子になるわ
――名前は何にしようか
――そうね……弘道さんが決めて?
――私が? そうだなぁ……、『かなこ』
――かなこ?
――うん、女の子なら、かなこにしよう
――かなこ……良い名前ね
――ごめん、なさい、弘道さん。私、駄目みたい……佳奈子、の事、お願い……幸せに……
『佳奈子。佳奈子は、お父さんが絶対に幸せにしてやるからな』
例えこの命が燃え尽きようとも。
●夕闇が来るよ
めぎり。めぎり。
その身を苛む欲望、耐え切れぬそれに異形化してゆくそれを見、一帯に潜伏していた撃退士達は一斉に襲い掛かった。
「おぬしは此処で足止めで御座る」
いの一番、弘道へ斬撃を繰り出したのは虎綱・ガーフィールド(
ja3547)だった。
話は全て、聴いていた。一部始終を目撃した。故に、
「こと此処に至りて話すことなどなかろう」
その眼前に立ちはだかる、同時。反対側から飛び出したリョウが佳奈子を抱えて跳び下がる晶の元に現れた。
「佳奈子ちゃんをお願いします」
「分かった、そっちも頼むぞ」
受け取る少女。何も知らずに眠る少女。リョウは仲間を信じ走り出す――最中、一瞬だけ振り返ったそこには――弘道の眼差し。優しい、悲しい、目だった。娘を見ていた。しかしあの時の様に狂気を露わに襲い掛かってくる事は無く。
唇が動いた。それは佳奈子へ。最後の言葉。
さ よ な ら 。
「っ……」
万感を押し殺し、リョウは駆けた。駆けた。水上歩行を用いて川を渡り、彼方へ、彼方へ、彼方へ。
「なつかしいですね……今度は逃がしません……」
ふわり、されど堅固に、弘道が佳奈子を追わないように盾を構えたアイリスが立つ。暗赤色の煙をその身に纏う。
「……あの頃のように、ただ理想を棄てた物ではなく……正義を背負う者として、その絆、断たせて貰います」
「そうしてくれ……今度こそ……私を逃がさないでくれ……!」
言葉は哀願、されど欲望に抗えぬヴァニタスは『娘と自分を引き剥がす邪魔者』を破壊せんと焔を纏う異形の腕を超速で薙ぎ払った。
砕け散ったのは、血色の花盾――Scut de Ajax、しかし防御をしたとはいえ重い一撃は付近に居た皆に痛打を与える。
それでももう、下がる事は許されないのだ。
二度と許されぬのだ。
今度こそ。今度こそ。
「主よ、貴方の加護が私に在りますように」
赤黒い光を纏い、駆け付けた朔哉が審判の鎖を弘道へ放った。縛り付けた。
溢れ出しそうになる涙を堪え、盾を構え、聖女は悪魔を見る。
「新田様、貴方は私と共に冥府へ向かうのです……!
貴方が悪魔であるが故に、殺さなくてはいけないなんて……貴方は無実だからこそ、私は貴方を殺したくないのに……!!」
駄目だ。嗚呼。堪えていたのに、涙が。ぽろぽろ。
「君は、優しい子だね」
すまない。鎖を引き千切る弘道が掌を翳した。現れるは巨大な赤い魔法陣。
「!」
来る。そう直感した穂鳥は、朔哉の聖女が謳う聖譚曲によって傷が塞がったばかりの足を動かし仲間の前に立ち入った。瞬間。凄まじい業炎が炸裂する――穂鳥が両掌から展開したマジックシールドに直撃する――爆風に少女の髪が舞い上がる。飛び散る火の粉が、熱が、白い肌を焼く。
「……っ……!」
押し負けるものか。焼け焦げる掌は下げない。
穂鳥が決死で造り出したその隙。
見す見す無駄には出来ぬ。
「絆断つが我が宿業ならば」
構える薙刀、うららの目に弘道が映る。
「姫宮うらら、獅子となりて参ります……!」
あの日の様に。
焔が途切れたその瞬間、強烈に地を蹴ったうららが刹那を飛び越え間合いを詰める。一閃。横に薙ぐ一撃と共に横へ。確かな手応え。目があった。脳裏に過ぎる、あの日――あの夕暮れ――
「何故」
目を逸らさず、問う。
「何故、逃げた? 何故、退いた……っ」
深手を負ったとはいえ、撃退士達を蹴散ら突破して、佳奈子の下へと向かう事は本当にできなかったのか。
「何故、それだけの力と願いがありながら、最期まで彼女の下へと向かおうとしなかった……!」
「教えましょうか」
凄まじい攻防を交えつ、弘道は残った人間性を掻き集めて言葉を放つ。
あの日。
佳奈子を負わなかったのは深い傷を負って満足に動けなかった事もあるが……『このまま人間達と暮らした方が佳奈子は幸せになれるんじゃないか』と思ったから。
故に、烈火の様な欲望を押し殺し噛み殺し、弘道は潜み続けた。沈黙し続けた。湧き上がる欲望に耳を塞いで、只管、只管、欲望に抗い続けた。
それが、『今日』までの空白。
そう、我慢の限界だった。
欲望に勝つ事は出来なかった。
本当は撃退士達を攻撃したくない、このまま棒立ちになって全ての攻撃を受け止めて終わりにしたい。全てを。
なのに、彼の身を焦がす欲望が、それを赦さぬ。
それでも辛うじて理性を残しているのは奇跡か、『人間の弘道の心』に『悪魔の弘道の所業』を見せ付ける拷問か、悪魔として蘇ってしまった彼に対する罰か、運命の気紛れか。
「歯がゆいの……怨まれてやることすら出来ぬとは」
口元から滴る血を拭い、虎綱は対の銀剣を構える。猛攻に焼かれ裂かれ血を流しながらも、マオと息を揃えて左右から躍り掛かる。
「イヤアァァァッ!」
マオの鋭い回し蹴りが弘道の頭部を打ち据える。
その欲望からヴァニタスを救済するためには、殺す他に無い。
本当にそうなのだろうか。
嗚呼、頭がグルグルする!
「ッ……!」
禍々しい腕の一振りがマオの身体をズタズタに引き裂く。それでも倒れずに反撃の蹴りを叩き込んだのは――死活。体内に巡る過量のアウルが痛覚を遮断する。足掻いてやる。無茶苦茶に無茶をしてやる。この技を使った以上、もう攻めるしかない。
「ああああああああ!! アァアアアアァァアアアアア!!!」
態と攻撃をその身に受け、血飛沫を走らせながら、攻める。攻める。攻める。
れも自業自得かな。
全てが終わった後に生きていられる事に期待して。
(全ては夢の向こうに――)
頭では『それがいいかも』と思えるのにモヤモヤするのは、まだ自分が子供だからか。
「……何か苦い味だよ」
赤く、黒く、落ちる意識で呟いた。
●夢の夕路
あの日の様に、リョウの耳に佳奈子の泣き声が響く事は無かった。彼女を眠らせたのは好手だったろう。
斯くして家の前、佳奈子の保護者は待っていた。穂鳥が予め説明をした為である。ひどく動揺している様子であった。
彼等に佳奈子を託し、リョウは説明する。今回の件を『佳奈子が見た夢』として扱う事を、彼女が成長し父がいなくとも生きていけるようになったら彼の死を伝える事を、そして――もし、佳奈子が真相を知りたがったら己の下を訪ねるように伝える事を。
「では、仲間が待っているので」
そう言ってリョウは踵を返す。走り出す。
佳奈子からの憎悪は全て受け入れる覚悟だった。
(俺達が犯した咎……)
それは、彼女の中の父の死すらも奪おうとしている事。
(俺は咎人だ)
だがそれでも願う。彼女が幸せに生きていける事を。
もう二度と願えぬ彼の為にも――
●太陽が落ちる
ヴァニタスは凄まじく強かった。
だが、決して敵わぬというものでもない。それどころか徐々に、徐々に、その力は弱まっているように感じられた。それは弘道が欲望に抗い殺意と戦っている何よりの証拠であった。
倒れた撃退士もいるが、弘道自身も深い傷を負っている。決着の時は近い。
「娘の幸せを願っている、と言った……だが今のお前が望む幸せは、娘が人のままでは無理だ。
そして、冥界へ連れて行かせるわけにもいかない以上、こうさせてもらう……!」
根性で起き上がった仁刀は大剣を構え、弘道を見遣る。間合いを詰める、その刃に込めるのは、月白。振り抜く刹那の名は白虹。霧虹の如く揺らめく。弘道の呻き声、広く薙ぎ払われる腕の一撃。
それを盾で受け止めて、
「再び……問いましょう……。貴方は……人間として……生きていくべき……加奈子さんの事を……考えたことが……ありますか……?」
Alternativa Luna、『感情を消し敵を悉く殺す』という自己暗示によって凶暴そのものになりながらも、アイリスは問う。
「今なら、言えます……私は、ただ悪魔の掌で踊らされていた大馬鹿であった、と」
自嘲の笑み。少女の防御を振り払い、再度煉獄の焔を放つ。それは虎綱に直撃した――かの様に見えたが、それは空蝉。
「奥の手で御座る。さぁ止めてみせよ!」
全力を込めた一閃、弘道の上体が揺らぐ。
「貴方に退くべき路はない。ともに在りたいと願うならば。その想い、真ならば。
二度と彼女を放さぬと、命を賭して共に在ると此処で示せ!」
全身を地で真っ赤に染めたうららが凛乎と云う。刃を構える。
冥へと堕ちし父を討ち、そう在れなかった彼女が命を賭してそれを阻み、その覚悟すら断ち切らんと。
恨み辛みは、いずれあの世で。
「此処より先には、往かせません……!」
血反吐を吐き、拉げた腕で武器を持ち、うららは攻撃を一瞬も緩めない。その身体はとうに限界を迎えているが、死活の連続使用によって倒れる事を断固として拒絶する。
二度と刃を振るえなくてもいい。
命尽き果てても構わない。
「はぁああぁああああああッ!!」
悪魔の攻撃にその髪を結うリボンは切り裂かれ、焔の中で白髪が波打つ。
獅子が如く。
咆哮し、牙を剥き。
ズタズタの身体を気力で支え、滾る想いでただ刃を振るい、死力を尽くし――それすら越えて。
「貴方は止める! 止めてみせる!!」
最後まで。最期まで。只管に。
一閃。
弘道の身体が揺らいだ。ふら、ふら、大量の血を流しつつ蹌踉めき下がる。
その、彼の、脳天に。
晶は静かに、リボルバーで狙いを定め。
「新田さん、貴方は佳奈子ちゃんのお母さんと一緒に、天国で見守るべきです」
目があった。彼は向けられた銃口を、その奥の目を見ていた。じっと。
「どうか天国で見守ってあげて」
繰り返す。
引き金に乗せた指を、ゆっくり――
「どうか避けないで」
刹那。
銃声。
寸前、彼は笑んでいた。
ありがとう、と微笑んでいた。
●xxx
酷く優しい夢を見た。
酷く悲しい夢を見た。
父に優しく抱かれている。
おとうさん、と。呼びたくって、抱き付きたくって、なのに、目が開かない。自分は眠っている。
ごめんな、と。
その手が頭を柔らかく撫でる。
どうしてごめんなんて言うの。
おとうさん。
おとうさん。
ねぇ、どこにいるの。
●夜が来る
時間としては、リョウが正に佳奈子の保護者達の下へ辿り着かんとしている頃か。
静寂があった。
撃退士達の決死の猛攻。その果て、頭部を晶の弾丸に穿たれた弘道は仰向けに倒れていた。人間の姿で。
「貴方の結末、見届けました……何か言いたいことは?」
アイリスは満身創痍の体を引きずり弘道の下へ、その顔を覗き問う。
「佳奈子に」
震える声。掠れる声で。
「『すまない』。それから、『幸せになりなさい』、と。ただ、それだけを、伝えて下さい」
もう目は見えないか――その目に映る、夜の近付いた空。
「承りました。……もう、お眠り下さい」
「最後まですまないね……ありがとう、」
どうか君達の大切な人を大切にして下さい。
私が出来なかった分まで。どうか。
そう遺し、弘道は静かに目を閉じた。
そして、もう二度と動く事は無かった。
「どんな敵を倒せても、親子の魂を救うことすら出来ん……か」
手紙の類は不要か。虎綱は動かず、見守るのみに留めた。弘道は救われた……と信じたい。エゴだろうか。それでも。
見上げる空。
もう夕暮れは終わり、夜にならんとしている。
彼方から、控えていた撃退士チームが駆け寄って来る気配を感じた。
まさか討伐してしまうとは――すぐに治療を――大丈夫か、意識はあるか――そんな声を聞きつつ、生徒達は極限の疲労に意識を手放した。
●深夜
「……」
ぼうっとした意識の中、佳奈子は目を覚ました。保護者達の心配そうな顔があった。
佳奈子。抱き締めてくる。暖かい。柔らかい。優しい。
その背に腕を回しつつ、佳奈子は窓の外を見る。
夜だった。
喰らい外を見、何故か、頬を伝う涙。
「おとうさん、遅いなぁ……」
不意に口を吐いた言葉。
はやく迎えに来てね。
●後
数日後。
佳奈子には全て『夢』であったと伝えられた。
告げられたその時、佳奈子は疑いも否定もなく、ただ一言こう答えたという。
『そっか……』
と。酷く寂しげに。酷く悲しげに。
そして彼女は待ち続けるのだ――帰らぬ父の帰りを、いつまでも。
残暑を乗せた風が吹く。朔哉の黒い髪を靡かせる。
彼女が歩くのは、あの川沿いの道。ヴァニタスとの死闘があったとは思えぬ程に、平和そのものだった。
朔哉は川辺に立ち、そして、手にした花束をそっと川の流れに乗せる。
「……」
流れていく、それを見つつ。
朔哉はロザリオを手に、祈りを捧げた。
「主よ、貴方の元に娘を愛した無実の男が向かいました。どうか寛容に迎えてあげて下さい」
こうしてとある悲劇に終止符が討たれた。
それでも、今日も、明日も、世界は何事も無かったかのように回り続けるのだろう。
だが――朔哉はこの出来事を決して忘れはしない。
願いは遥か。見上げる空は、何処までも蒼い。
『了』