●夢の世界のグレゴール・ザムザ
名も知らぬ蝉が鳴いていた。
「ある朝目覚めると自分が不気味な化け物に――カフカの『変身』を連想させるな」
もし自分がその物語の主人公だったならば、と紺屋 雪花(
ja9315)は考えてみる。発狂モノだ。母親もグロテスクが苦手であるし……そう考えれば、今回の『討伐対象』には複雑な思いを禁じ得ない。
「帰ってきた息子が化け物になっていたら、二度と失わないように心がけた息子がまた同じ目にあったら……ご両親が受けるダメージは計り知れねぇな。
家族に残された幸せ……小さなレディのこれからが壊れないように、なんとしても守り通さねぇとな」
幸せで、でも偽りで、いつかは崩れる夢幻で。「真実は醜悪な現実ってわけだ」とキイ・ローランド(
jb5908)が呟いた。これの『元凶』でもある悪魔は性根が腐ってるんだろう。ある意味悪魔らしい。
「やりきれないお仕事だね」
「あぁ……やりづらいな」
その通り、全く以て。若杉 英斗(
ja4230)は何度目かの溜息を噛み殺す。
(将来危険かもしれないから倒す……か)
確かに天魔は発見次第討伐すべきだと思う。だが学園には堕天使やはぐれ悪魔が居る訳で、それと今回は何が違うのか。知性の有無?もし外見が可愛かったら見過ごしたりされたのだろうか?
等と思ってはみるけれど、では被害が出て人が死んでから動くのが正解とも言えないし、街の中に猛獣がいると考えれば放ってはおけない、そういう事なのだろう。
「私達は未来の懸念のために、今幸せな家族を崩そうとしているのだよ。少なくとも善行ではないだろう?」
舞台上の道化を見る目つきで鷺谷 明(
ja0776)は一同へ振り返った。未来の懸念の為に今の幸せを崩そうとする撃退士、その思いは如何なるモノか。観測、観劇、台無しにならない程度に突っついて引っ掻いて愉悦し嗤う。嗤いたいから。
「ハッピーエンドの向こう側ってのは案外こんなもんかもしれないのぜ。誰もが目を背き、耳を覆いたくなるようなバッドでシットな現実ってやつさ」
凛然、と。表情を崩さぬギィネシアヌ(
ja5565)が言い放つ。己は嘲笑も罵声も知らぬハッピーなお姫様などではない。物語は遍くハッピーエンドで終わると信じているお子様でもない。
「それじゃ、作戦通りに」
作戦を再確認した鈴代 征治(
ja1305)は皆に無線機を渡しつつ。
一見して『何処にでもある夏の一日』が、始まる。
●その辺の白昼夢
「あれが幸せな家族の形か。でも偽者なんだよね」と。
家族四人の平和な朝食を遠巻きの窓越しに眺めつつ、キイは呟いた。ゆうたくんとその家族。他愛もない日常風景。今日も平凡で平和だと信じきっている『一般人』。
(自分には家族なんてものはよく分からないけど、大切なものだったんだろうね)
キイは眺めていた。ただ眺めていた。目玉焼きを美味しそうに食べる少年――否、体を不愉快にくねらせる不気味なバケモノを。それを愛おしげに見つめる家族達を。ただ、眺めていた。庭にはアサガオが綺麗な赤い花をつけていた。
それじゃあ行ってくるよ、いつもと同じぐらいに帰るから。あなた気をつけてね。グチャグチャグチャグチャ。パパいってらっしゃい!
朝は何事もなく昼になった。何食わぬ顔で真夏の真昼の太陽が降り注ぐ。
公園は少年少女の笑い声で満ちていた。こんなに暑い、蝉の鳴く日に。
そこに女と、彼女と手をつないだ少女とバケモノがやって来る。
ゆうたくんだ!裕太、友達が来てくれたわよ。グチャグチャグチャグチャグチャ。5時前に迎えに来るからね、遠い所に行っちゃ駄目よ、水筒のお茶もちゃんと飲みなさいね。グチャグチャ。あ、おにいちゃんまってよー!
気味の悪いバケモノが子供達を追い掛け回している。鼓膜に不快な奇声を発しながら。
それだけを見れば一大事だ。天魔事件だ。されどそのカラクリ英斗は分かっている。アレはただ『子供達が遊んでいるだけ』。
周囲の地理を確認しつつ、公園周辺を散歩している学生を装う英斗は仲間達へ連絡を行った。
「そっちは?」
『近くのスーパーは結構人通りがあるね。廃工場とか廃墟も探してみたけど……ちょっと見当たらないかな。空き地も、その隣が民家だったりするし』
応えたのは街を散策するキイだ。
「公園も人が多いな……子供ばっかりだから、夜はいなくなるかもしれないけど」
『あ、今いいとこ見つけましたよ』
そこへ征治の声がやって来る。
『河川敷の橋の下。ここなら人目にはつかなさそうです。場所の情報は今送りますね』
『では公園からそこまでの人目につかないルートを探すとしよう』
公園にてゆうたくんを密かに撮影していた明が言う。英斗も念の為にコッソリゆうたくんを撮影しつつ、『ゆうたくんの母親は?』という征治の問いに「今は公園にいる他の親と会話をしているけれど、直に戻ると思う」と答えた。
「オーケー」
問題は今のところ起きてはいない。撃退士の思惑通り。簡潔に応えたギィネシアヌは征治から連絡を受けた河川敷へと足早に歩を進める。
作戦通りだ――なのに心はそれを素直に喜べない。
ゆうたくんの家に向かいながら征治は指で額の汗を拭った。暑い。夏だ。学ランのボタンを一つ開けてシャツごとパタパタ空気を送りつつ、アスファルトを歩く。
歩を止めたのはアサガオの前。坂嶺という表札。ここだ。仲間からの連絡通り、今はゆうたくんの母親が一人。インターホン。唇を舐めると汗の塩味がした。
『はい?』
「あの。久遠ヶ原の撃退士ですが」
インターホンのカメラの前に学生証を提示しつつ。向こう側で母親が息を呑む気配が聞こえた。
「御宅の息子さんのことで……少しお話をお伺いしてもよろしいでしょうか」
『……分かりました』
ドアが開く。緊張した様子の母親。顔色が悪いのは冷房の所為ではあるまい。「どうぞ」と言われ、「お邪魔します」と靴を脱ぐ。リビングには子供が描いた絵が飾られていた。おかけになって下さいと促され征治はソファに座る。窓の外から洗濯物が見えた。
「お暑い中ありがとうございます、今冷たいお茶を」
「あ、どうもすみません」
「いえいえ」
「本当に……すみません」
征治は台所へ向かった母親の背をじっと見ていた。古代退魔技術によって眠りに落ち、蹌踉めいたその姿を。手を伸ばす。倒れた体を受け止める。自分が座っていたソファに横にさせる。外に干してあったバスタオルを布団代わりに被せた。そして最後に彼女の近くに手紙を置く。
申し訳ないです。後で説明します。そう記された置手紙を残し、征治は足早に坂嶺家を後にした。作戦完了と仲間に連絡を送りながら。
●かえろう
時計は5時になろうとしていた。暑さは僅かにマシになり、空は赤い色になろうとしている。
公園の入口に現れたのは、ゆうたくんの母親――正しくはゆうたくんの母親に術で化けた雪花だった。
お母さん。バケモノは甲高い声でそう言ったのだろう。妹と共に駆けてくるゆうたくん。雪花は自分に抱きついてくる醜悪な化物に、肌をぬちゃぬちゃと這う感触に、されど柔らかい笑顔を浮かべて優しく撫でる。卓越した奇術師の舞台芸術技能。人を騙し演技する事ならば子供の頃から大得意だ。自分は母親。徹底的に事前観察し仕草も表情も話し方も服装もトレースしたつもりだ。そしてこのバケモノは明るい少年、自分の息子。愛しい子供。
帰ろう。そう促すように、来た時と同じように、雪花はゆうたくんと妹の手を引き歩き出す。
グチャグチャ。お母さんなんで何も言わないの?ゆうたくんが飛び出した幾つもの眼球で雪花を覗き込む。雪花は苦笑を浮かべながら喉をさすり、咳き込んだ。
「夏風邪でちょっと喉が……声も変でしょう」
嗄れた声に子供達は大丈夫かと心配してくる。早く帰ろう。家へと手を引いてくる。けれど――嗚呼、そっちじゃないんだ。
「お薬買うから、こっちから帰りましょう」
嘘を吐いて。
手を引いて。
笑みを浮かべて。
3人並んだ、夕焼け小焼けの長い影。
「……信じて待つってのも中々骨が折れるな」
河川敷、橋の下。橋を支える柱と橋の僅かな隙間に身を滑り込ませ息を殺すギィネシアヌが呟いた。河川敷の橋の下周囲は彼女が設置した張り紙とトラロープによって『進入禁止』となっている為か、ひとけはすっかり無い。否、正しくはそこかしこに撃退士が潜んでいる。例えば英斗の様に、ただの通りすがりを装ってスマートホンをいじっているとか。
さて、上手くいくだろうか――そう思った直後に、彼方に見えた人影。ギィネシアヌがスナイパーライフル『Black raccoon』のスコープを覗き込んでみれば、『作戦通り』。
何処まで行くの?
ゆうたくんがその様な言葉を雪花に投げかけた。妹も、普段はほとんど行かない川の近くにそわそわしている。
黄昏時の仄暗さは、橋の下で更にシンと暗くなる。
遠くで電車の音が聞こえた。それから川の音だけ。橋の下に手を繋いだ3人。
行き止まりだよ。
トラロープで箸の反対側は封鎖されている。少しずつ蓄積してきた違和感に兄妹が母親を見上げた。母親は微笑んだまま、徐に彼方を指さす。
「? ――」
二人が振り返ったそこにはキイが居た。銀河を一点に集めたかのような目映い光を放ちながら。
「きゃっ……」
目を伏せたのは妹だけ。
その背後には光に乗じて忍び寄った明が居る。少女の魂を、『縛る』。眠りに落ちる小さな体を抱き抱えた。
と、その時。目が合った。バケモノと。ゆうたくんと。何十もの血走った目玉が明を見ていた。
グヂャグヂャ。肉を引き潰すその声はこう言った。
「妹を離せ!」
伸ばされた数多の手。ボコボコと蠢く手。
されどその手は届かない。永遠に届かない。
「『そう』なっちまったら、もう誰かが終わらせてやるしかねぇのさ……。誰もやりたがらねぇなら俺が引鉄を弾くしかねぇだろ」
コンクリートの隙間に身を隠していたギィネシアヌが、照準をゆうたくんに合わせて引き金を引いた。天空神ノ焔<リアマデククルカン>。黄金の羽を散らす天の光が、ゆうたくんをブチ抜いた。奇襲にカオスレート差も相俟って、それは文字通り神罰の如き威力となる。ぐらりとゆれたバケモノの体が、地面に倒れ込んだ。
その隙に明は飛び下がり、同じく後退した雪花に眠っている少女を手渡した。安全の為に妹を彼女の家にまで運ぶのは雪花の役目。変化を解き頷いた彼は、目的地へと走り出す。
「たぶん理想はね、不条理劇だ。裕太君はいなくなった、ゆうたくんは戻ってきた、ゆうたくんはいなくなった。たったそれだけの不毛な話。覚えておきたまえよ。私達はifのために殺そうとしているのだ」
雪花の背から戦場へと目を移した明が誰とはなしにそう言った。
「悲劇とは誰もが悲しむ結末だ。勝者は無く、栄光は無く、そこにはただ虚しさと悲しみのみが残るもの。故にこれはまだ悲劇ではない。ただ慈悲の無い、惨劇だ。まあ、頑張りたまえよ。悲劇は嫌いなのだろう?」
さぁさ物語はクライマックス。
どうして。どうして。母さんはどこ。妹はどこ。痛いよ。痛いよう。
征治が繰り出した無数の妖蝶に切り裂かれながら、ゆうたくんが地面を這う。膿のような血が跡になる。
助けて。
オーラを抑えて光纏している英斗の足元で彼を見上げ、少年だったバケモノがそう言った。
でも、生憎、差し伸べる手には――もう武器が握られている。
せめて苦痛を長引かせないのが救いだろうか。奥歯を噛み締めた英斗は双龍牙<ダブルドラゴンファング>と名付けたトンファーを振り上げる。美しい光は破壊の光。英斗の必殺技、天翔撃<セイクリッドインパクト>を叩きつける。
どうして? どうして?
肉を陥没させ、潰れた目玉を地面に零し、地面に転がり、嗚咽を漏らし、それでもバケモノは生きている。己は人間であると信じたまま。夢を見たまま。
おかあさぁーーーん…… おかあさん…… どこ…… こわいよ……
「ごめんね、逃がすわけにはいかないんだ」
嗚呼いっそゆうたくんは狂った方が楽になるのか。
キイは言い様もない感情が込み上げてくるのを感じた。戦いは遊びじゃない。手を抜く訳にはいかない。全力でゆうたくんを殺す事が慈悲なのだ。そう信じよう。ごめんね。赦される筈はないけれど。自己満足の無慈悲な言葉だけれども。
キイが構えた刃盾から光の波が放たれた。盾に映るのは、再び天翔撃を繰り出した英斗、金の光と共に狙撃するギィネシアヌ、雷撃を斧槍に纏わせた征治、それらの真ん中に居るのはゆうたくんで――
言葉を投げかける事を、ギィネシアヌはしなかった。
「アフターケアってのは俺の性に合わんな。誰しも何かを失って、それでも生きていくかくたばるか、そんくらいの自由しか許されてない世界だしな。誰かが誰かを救おうだなんて、そいつぁちょいと傲慢ってモンなのぜ」
おやすみ、ゆうたくん。
●それは新聞にも載らぬ出来事
「天魔から守れませんでした。申し訳ありません」
夜、坂嶺家にて。
目を覚ました母親、妹、飛んで帰ってきた父親の前には征治と英斗が、頭を下げていた。
征治より昼間の非礼の謝罪と、一連の経緯説明を受けた坂嶺家は黙り込んでいる。
「スワンプマン、をご存知ですか? 全く別の全く同じ誰かと誰かは本当に同じと言えるのか、です。
今までのはほんのわずかな夢。ひどく優しい、けれど歪んだ夢。夢はいつか覚め、現実と向き合わなければ」
坂嶺家はやはり黙っていた。だがしばらくの後、父親が口を開く。
「どうか。裕太を奪った天魔を、……殺して下さい」
自分達と同じ思いをする人が二度と現れぬように。表向きはそういう事の、復讐心。
勿論です、と英斗は応える。
(あの天魔、素はやっぱり坂嶺裕太君だったのかな。だとしたら、この天魔を作った悪魔はいつか必ず討伐してやる)
ありがとうございました、と坂嶺家に見送られ。「朝顔をお願いできるかな?」と征治の言葉に妹は首を傾げる。なぜ兄が帰ってこないのか、彼女は終始不思議そうにしていた。「なんで?」という言葉は、妹を抱きしめ泣き崩れた母親の嗚咽にかき消される。
(家族なんだから……もしかしたらゆうたくんの事を気付いていたんじゃないかな)
寧ろ気付かない方が不自然か、と。英斗は歩き去りながら思った。天魔だとわかっていても、それでも四人の生活を続けたかった、とか?徐に坂嶺家へと振り返ってみる。永遠に平凡が戻らないその家を。しなびた赤いアサガオが玄関に在った。
(……確かめる必要なんてないな)
だって現に彼等は、たとえ偽りだとしても、確かに幸せを感じていたのだから。
そう、信じよう。
『了』