いまにも雨の降りだしそうな灰色の空の下。登山道を上る三つの人影があった。
先頭を行くのは鈴代征治(
ja1305)。そのあとを霧川琴音が歩き、背中を守るように樋熊十郎太(
jb4528)がついてゆく。
「あの、霧川さん。いまさら訊くのも何ですが、なぜお姉さんの居場所を……?」
ふいに問いかけたのは征治だ。
言いにくそうに少しためらって、琴音が答える。
「いままでにも何度かあったんです、こういうこと」
「え? まさか今までに何人も……!?」
「いえ、そうじゃなくて。撃退士の仕事でストレスが溜まると、いつも山小屋に篭もってたんです。子供のころよく遊んだ場所だから……」
「なるほど。そうですか」
征治は、ほっと息をついた。琴音に対する邪推が外れていたことに。
十郎太もどちらかといえば心配性なだけに、琴音の口からそういう説明が出てきたことに安堵せざるを得ない。
「行きましょう、お姉さんをつれもどしに」
十郎太が力強く言い、征治と琴音はうなずいた。
山小屋の周囲は、死んだように静まりかえっていた。
四月。まだ山開き前だ。一般人は立ち入ることができない。
小屋の周囲には、エルレーン・バルハザード(
ja0889)、周愛奈(
ja9363)、アセリア・L・グレーデン(
jb2659)、オーデン・ソル・キャドー(
jb2706)の四名が潜んでいる。
彼らは機動班だ。大勢で説得に行くと余計な刺激を与えるのではと判断し、こうして身を隠している。
オーデンが、奇妙なマスク越しに笑みをよこした。
征治と十郎太も、笑顔を作って返そうとする。
が、うまくできなかった。
小屋の中から、呪文のような声が聞こえたせいだ。
なにを言っているのか聞き取れないが、まともな言葉には聞こえない。
ごくりと唾を飲みこむ三人。
「だれかいるのは間違いなさそうですね」
征治はノックするべきか迷ったが、マナーとリスクの双方を考慮して、そっと扉を開けることにした。
そして──
中に踏みこんだ征治は、その場で凍りついた。
目に映ったものが、あまりに衝撃的だったのだ。
テーブルの前に座って独り言を続けるセーラー服の女は、霧川弦子だとわかる。それはいい。問題は、テーブルの上にあるものだ。あれは──
びしゃっ、という音がした。
征治のあとに入ってきた琴音が、嘔吐したのだ。
無理もない。テーブルの上で延々と弦子の恨み言を聞かされているのは、切断された頭部。バラバラ死体で発見された『魔女』の、生首だった。
おぞましい戦慄が走り、征治も十郎太も言葉が出ない。
まさか、ここまで狂っていたとは──。
これを説得するのか?
思わず顔を見合わせる、征治と十郎太。
そんな二人をよそに、琴音が大声で呼びかけた。
「お姉ちゃん! 帰ってきて!」
その呼びかけには、ふたつの意味があった。
が、どちらも弦子には届かない。
「……あら、琴音。ちょっと見てよ、この魔女の顔。ぶざまでしょう?」
振り向いた弦子の目は血走り、やつれきっている。事件以来一睡もしていないような顔だ。
「なんで……、なんで、こんなこと……。新井さんは、お姉ちゃんの親友でしょう!?」
「ぷっ」と弦子は吹き出し、火のついたように笑いだした。
「ふふふふふ。あははははは! ひははははは! なにを言ってるの? こいつは魔女よ! 私を撃退士の世界に引きずりこんで、すべてを奪って、笑ってる! 薄汚い魔女! 琴音、あなたも目をさましなさい!」
「目をさますのはお姉ちゃんのほうでしょ! ここに来る前、星野さんに会ってきた。自首してほしいって言ってたよ! そしたら会ってもいいって!」
「星野? 知らないわね。それより見てよ、この魔女の顔。傑作じゃない? あはははは」
「お姉ちゃんの付き合ってた人だよ! 思い出して!」
はたして、この呼びかけが正しいのか。征治にも十郎太にもわからなかった。琴音も同じだろう。殺人犯に自首をうながすなど、相手が正気でも難しいのだ。ましてや、この錯乱状態では──。
「琴音。私は撃退士なの。人に仇なすものを滅ぼすのが、私の仕事。この魔女は滅ぼさなければならなかったのよ」
「魔女なんかいないんだよ、お姉ちゃん!」
「ああ、かわいそうな琴音。これを魔女と見破れるのは撃退士の私だけなのね。でも安心して。こいつはもう死んだの。もう動かない。最高でしょう? ふふふ。ははははは。あっはははははは」
血まみれの生首を見つめながら、狂ったように笑いつづける弦子。
ひとしきり笑うと、彼女は息を荒げながら琴音を見た。
「さあ、あなたはもう帰りなさい。私は忙しいの」
「帰るときは、お姉ちゃんも一緒だよ」
「聞きわけのない子ね。ここにいると危険よ? 天魔が魔女を取り返しに来るかもしれない」
「そんなの来ないってば。おねがいだから、正気にもどって……おねがい……」
とうとう琴音は泣きだした。
見かねた征治が、しずかに口をひらく。
「弦子さん。妹さんだけでなく、ご両親も、星野さんも心配しておいでです。こんな暗い場所に閉じこもってないで、僕たちと行きましょう」
「あら……、あなた、撃退士?」
「そうです。だから、あなたの苦労や努力はとてもよく理解……」
「ああ、そう。わかった。これを横取りしにきたってわけね? まったく、撃退士なんて泥棒みたいなヤツばかり……。でも無理よ。ふふっ。わからない? 私は強いの。強くて、美しくて、賢いの。だから、私は孤独なの。そして、孤独こそが私を強くするの……」
言いながら、弦子は光纏した。赤黒い血煙のようなオーラが足下から立ちのぼり、ペンダント状のヒヒイロカネからズルッと剣が抜き出される。まるで、胸の中から剣を引きずり出すようなしぐさだ。
「駄目だ! 退却しましょう!」
琴音をかばいながら、征治も光纏した。
「待ってください! まだ話が……!」
「ここは危険です。ともかく外へ」
説得をあきらめようとしない琴音をなかば引きずりながら、十郎太は小屋を飛び出した。説得が失敗に終わったことを、無線で全員に伝える。
その通信の途中、十郎太は背中に衝撃を受けて吹っ飛んだ。斬られたのだ。
「この、泥棒……っ!」
倒れた十郎太の脳天めがけて、弦子の剣が打ち下ろされた。魔法の輝きをともなったその斬撃は、まともに食らえばただではすまない。
ガギッ、という音が響いた。
間一髪、征治のシールドが割って入ったのだ。
「弦子!」
後ろから呼びかけたのは、エルレーン。元恋人星野の姿に『変化』して、借りてきた服を身につけている。この距離では、本物と見分けがつかないだろう。
しかし、それは一般人の話。撃退士である弦子には通用しない。
ただ、彼女の注意を引くという目的は達した。弦子はエルレーンの術を見破るや否や、彼女めがけて猛然と走りだしたのだ。
その足を止めようと、草陰から飛び出したのは愛奈。
「ねむって!」という言葉とともに、スリープミストが発動される。
霧に巻かれた弦子の足が、よろっとふらついた。
そこへ、狙いすましたライフルの一撃。
影野恭弥(
ja0018)の放った銃弾は、みごとに弦子の足首を撃ち抜き──
つづけざまに、ギィネシアヌ(
ja5565)の『白娘娘』がヒットした。これでもう、弦子がどこへ逃げようと居場所は筒抜けだ。
完全に包囲された弦子の前に、オーデンが立ちはだかった。
「お嬢さん、魔女を切り刻んだそうですね。貴女、なかなか素質があるようです。……が、所詮偽り。魔女は姿を消しましたか? まだ貴女に語りかけているのでは? 貴女の中に、新たな魔女が生まれてはいませんか? 安心なさい。それは偽りの……」
「だまれ、バケモノ!」
話を遮って、弦子は横殴りに剣を振り抜いた。緑色の光を放つ刃がオーデンの側面をとらえ、シールドごと薙ぎ倒す。
その直後、距離をつめたエルレーンは弦子の背中に手をかけていた。
「いくよ! 覚悟して!」
弦子を羽交い締めにしたまま、高く跳躍するエルレーン。そのまま背中を反り返らせ、バックドロップの要領で弦子を地面に叩きつける。
「く……っ」
どうにか立ち上がった弦子だが、足がふらついてまともに動けない。
すかさずエルレーンの腕が弦子の剣に伸びた。これさえ奪い取れば、あとは──。
しかし、弦子は頑として手を離さなかった。いまや彼女にとって、剣だけが心の拠り所なのだ。手放すことは死を意味する。とはいえ、彼女の置かれた状況は絶望的であり──
バシッ、と音がして、弦子の背中に一匹の大蛇が噛みついた。ギィネシアヌの放った特殊弾だ。毒が染みこむように装甲を腐らせてゆく、効果的かつ残酷な攻撃。
動けないままの弦子を、さらに亡霊の腕のようなものが襲った。愛奈の放った『異界の呼び手』だ。
「やった! つかまえたよ!」
「こざかしい!」
足を絡め取られたまま、弦子はその場で剣を振り払った。
ゴォッ、と燃えるような音を立てて、青白い衝撃波が愛奈を吹き飛ばす。
「そこまでですよ」
おかえしとばかりに、オーデンがサーブルスパーダの峰で弦子の後頭部を殴りつけた。
「ごふっ」と血を吐いて、つんのめる弦子。常人はもちろん、鍛えられていない撃退士なら死んでもおかしくない一撃だ。
それでも、弦子は倒れなかった。天魔との戦いで身につけてきたディバインナイトの技と誇りが、彼女をささえているのだ。たとえ正気を失おうとも、それだけは失われない。
「この泥棒ども……。魔女ども……。ひとり残らず私が滅ぼしてやる……」
血を吐きながら仁王立ちで剣をかまえる弦子を前に、オーデンもエルレーンも攻めあぐねてしまった。
へたに攻撃すると死なせてしまうのではないかという不安。へたに手加減しようものならこちらが殺されるのではという懸念もある。このまま遠巻きに包囲して消耗するのを待つという策も──。
そうはいかなかった。
「えあああああっ!」
一瞬で距離を縮めた弦子の掌打が、エルレーンの鳩尾に叩きこまれた。ただの掌打ではない。光の力を帯びた、魔法の打撃だ。
「くたばれ、魔女ども!」
ひざをついたエルレーンの背中を貫こうと、弦子は剣を逆手に持ちかえた。
そこへ、アセリア・L・グレーデンの声が響く。
「わがままも大概にしろ。それ以上暴れるならこれを焼き捨てる」
その手に握られているのは、ビニール袋に詰めこまれた大量の錠剤。
弦子は手を止め、ぎらつく瞳でアセリアを睨みつけた。視線で人を殺そうとでもするかのような、すさまじい目つきだ。
「ああ、クソ……。ほんとうに、この世界はロクでもないヤツばかり……。おまえら全員、バラバラにしてやる……!」
ぞっとするような声で言い放つと、弦子は制服のポケットに手をつっこんで一ダースほどの錠剤を口に放りこんだ。それをボリボリ噛み砕きながら、小天使の翼を羽ばたかせて一気に舞い上がる。
「逃げる気か!?」
アセリアが闇の翼を開いたとき、その頭上から弦子が急降下してきた。
光り輝く刃はアセリアの肩を斜めに切り裂き、地面まで突き抜けて土埃を噴き上げる。
「つぅ……っ! これでも浴びておけ」
肩から血を流しながらも、冷静にナイトアンセムを放つアセリア。
闇に包まれた弦子は、たちまち認識障害に陥った。とはいえ、もともと認識が狂っていた彼女に、どれだけ効果があるか──。
「死ぃねええええ!」
弦子は鼻血を流しながら、脇目もふらずアセリアに斬りかかっていった。
その背中にオーデンのソニックブームが命中し、愛奈のエナジーアローが突き刺さる。
それでも止まらない弦子を最後に撃ち抜いたのは、恭弥のワイヤースタンガンだった。
どさっと倒れた弦子は、全身血まみれだ。生きているのが不思議なほどだが、呼吸は止まっていない。驚くべき耐久力である。はたしてこれはディバインナイトの能力なのか、それとも麻薬の作用なのか──。
「やれやれ……。目的を達成したとしても、自分が壊れてしまっては何の意味もないというのに」
斬られた肩をおさえながら、だれにともなくアセリアが呟いた。
そのアセリアの背後で、弦子がヌッと立ち上がる。そして、狂気と殺気の渦巻く起死回生の斬撃がアセリアの背中めがけて放たれた。
しかし、その剣が目標をとらえることはなかった。一瞬早く、恭弥の妖刀『紅血』が弦子の腹部を払っていたのだ。
「峰打ちだ、くそったれ……」
ごぼりと血を吐いて倒れた弦子は、それでもなお剣を手放さなかった。
「お姉ちゃん!」
琴音が駆け寄り、弦子の背中にすがりついた。
ぴくりとも動かない弦子。文字どおり満身創痍だが、彼女も鍛え抜かれた撃退士。命を落とすことはないはずだ。むしろ、肉体的なダメージより薬物による精神的なダメージのほうが深刻に違いない。
「琴音……」
地面に倒れ伏したまま、弦子はかすかに目をあけた。さきほどまでの野獣めいた狂気は完全に消え失せて、その瞳は怯えたように震えている。
「さむい……」
無論、寒さを感じるような気温ではなかった。血を失ったことと薬物による副作用が弦子の体温を下げているのだ。
十郎太が『トーチ』の炎を弦子のそばに浮かべ、「大丈夫ですか?」と声をかける。
聞こえたのか聞こえなかったのか、弦子は何も答えない。
重苦しい沈黙。灰色の空の下、琴音の啜り泣く声だけが聞こえる。彼女はハンカチで姉の顔をこすりつづけたが、あふれてくる鼻血と涙はいつまでも止まらなかった。
やがて、エルレーンがそっと言葉を紡いだ。
「……これから、生きつづけるのは、ほんとうにしんどいと思うけど。……でも妹さんみたいな、あなたを思ってくれてる人がいるから。まだ、しねないよ。自分勝手にしんじゃ、いけないんだ」
その言葉に、何人かの撃退士は首をうなずかせ、また何人かの撃退士は心の中でうなずいた。
しかし、弦子がうなずくことだけはなかった。