真っ白な部屋。いつものように、セラムは虚ろな目で壁を見つめていた。
空気は冷たく張りつめ、物音ひとつしない。
死んだように凍てついた空間だ。
およそ四ヶ月、この部屋には全く変化がない。
しかし、それは突然訪れる。
久遠ヶ原の学生たちが、やってきたのだ。
「空虚な部屋ですのね……」
無機質な室内を見回して、ディアドラ(
jb7283)は悲しげに呟いた。
「まったくだ。こんな所に閉じこめれば、無気力になるのも無理はない。外を見せるのがまずいなら、絵でも飾ってやればいいものを」
江戸川騎士(
jb5439)も、珍しく感情的だ。
この二人は、天使と悪魔。今回の依頼は他人事ではない。巡り合わせが悪ければ、自分たちもこうなっていたかもしれないのだから。
「はじめまして。私は陽波飛鳥(
ja3599)。よろしくね」
最初に話しかけたのは飛鳥だった。
以前は天魔への復讐ばかりを考えていた彼女だが、いまは随分と軟化している。
「無気力だって聞いたけど、外の世界に興味はない? たのしいわよ、外は。青い空があって、暖かな日差しがあって……。私の通ってる学園は滅茶苦茶な所だけど、毎日刺激的で楽しいわぁ……」
本当に楽しそうに笑う飛鳥。
しかし、セラムは見向きもしない。なんの興味もなさそうに、壁だけを見つめている。
「初めまして、私は鳳静矢(
ja3856)だ。よければ、君の名前を教えてもらえないか?」
次に声をかけたのは静矢。
セラムは壁を見つめたまま、ぽつりと名前を口にする。
「セラムか。良い名前だ。……しかし、この部屋は殺風景きわまるな。仮にも女性の部屋だ。花の一輪ぐらい、あってもよかろうに」
静矢は適当に見つくろってきた切り花の束を手に、「これを飾っても良いかな?」と問いかけた。
セラムは特に興味なさそうに──といって不快でもなさそうに、コクリとうなずく。
そこへ、紀浦梓遠(
ja8860)が口を出した。
「僕も花を持ってきたんだ。一緒に飾らせてね?」
彼が用意したのは、ガーベラと紫苑だ。
「知ってる? ガーベラの花言葉は『希望』なんだよ。きみが一日も早く良くなりますように……ってね」
あえて明るい口調を保ちながら、梓遠は続ける。
「おっと、自己紹介がまだだった。はじめまして、僕は紀浦梓遠。この花の名前と同じだよ。きみがセラムさん、だよね?」
ベッドに腰かけているセラムの視線に合わせるよう、梓遠はしゃがみこんだ。
が、セラムは焦点の合わない目を壁に向けるばかりだ。
「お医者さんから聞いたよ。元気がないんだって? ……ねぇ、これを見てごらんよ」
梓遠はアルバムを取り出すと、たくさんの写真を披露した。
いずれも、みごとな風景写真だ。
色鮮やかな花畑、星々のきらめく夜空、青く波打つ海……
「どう? この大自然こそが、人間界最大の魅力だよね。いまの季節の海なんかさ、日の光に照らされると凄く綺麗なんだよ」
「海は知ってる……」
セラムは海の写真に目を落とし、指でなぞった。
「では、こういうのを見たことはあるかしら?」
ディアドラが、貝殻のブレスレットを見せた。
海岸で拾ったトミガイやマメウサギガイを紐で繋いだものだ。
「見たこと、ない」
「そうですか。では、記念にどうぞ」
ディアドラはセラムの手を取ると、手首にブレスレットを通した。
セラムは、ぼんやりとそれを見つめている。
「海って不思議ですよね。近くだと透明なのに、遠く離れると青色なの。だから、海岸を歩くのは凄く楽しくて……。ときどき、貝殻を拾いに行ったりもするの。綺麗なのをあつめて、手を加えてあげれば……ほら、こうして新しいものができあがる」
「……これ、自分で作ったの?」
「ええ」
「私にも作れる?」
「もちろん。いつか外に出られたときは、いっしょに海へ行きましょう。私の知っていることなら、なんでも教えますわ」
「おぼえて、おく」
貝殻のブレスレットを見つめるセラムの瞳は、わずかに光を取りもどして見えた。
「あんたは俺と正反対だな。天使と悪魔というだけじゃなく……」
騎士はアコースティックギターを弾きながら語りかけた。
物悲しくも、やさしいメロディだ。まるで、凍った心を溶かすような──
「ここの所員から聞いたが、あんたの記憶は海の風景と一人の男だけらしいな。……これは俺の想像だが、あんたが男の記憶を思い出して悲しくなるのは、そいつを忘れたからだ。忘れてしまったのは、おまえがそいつを裏切ったから。罪を犯したと思っているからだろう。違うか?」
「……おぼえてない」
「あんたは罪を犯した自分が許せないから、ここを出ないことを望んだんじゃないか? 儚い命と夢で形成される、残酷で美しい現実からの逃避というわけだ。しかし、『忘れてしまったことを覚えている』なら、あんたは本当は罪を償いたいのさ。こんな狭苦しい所に閉じこもったままで、本当に満足なのか?」
「でも、外には何もない……」
「あるさ。海もあるし、空もある。それらは日々変化して、一刻として同じ色になることはない。外の世界は変化に満ちている。人の心も同じだ。時間とともに移り変わる。現に、俺たちが来る前のあんたと今のあんたは、もう別人だ。あんたは、今日の出会いを忘れることはできない。これが変化だ」
「変化……」
騎士の熱弁に触れて、セラムは考えこむように顔を伏せた。
なにか、感じるところがあったのかもしれない。
「自分は、本を持ってきたよ」
何十冊もの本をドサッと置いたのは、キイ・ローランド(
jb5908)
バリエーションは幅広く、絵本や童話から推理小説まで揃っている。
読み物ばかりではない。図鑑や写真集もある。
「おすすめは、これ。『旅行記』の本なんだけど、旅した人の感想と写真が載ってるんだ。これを読むと、それだけで旅してる気分になれるんだよ」
キイのすすめで、セラムは旅行記をパラパラめくった。
やはり、海の写真で手が止まる。
「海が好きなの? じゃあ魚の図鑑とか、どうかな?」
そう言ってキイは魚類図鑑を広げたが、セラムは見向きもしなかった。
あくまでも、気になるのは海そのものらしい。
「海に思い入れがあるようですね」
と言ったのは、天宮佳槻(
jb1989)
彼はこの依頼を受けたとき、以前戦った使徒のことを思い出していた。
というのも、その男の名がセラムだったのだ。
あの、廃墟と化した水族館での戦いは、じつに後味の悪いものだった。
そういえば、この天使はあのときの少女と雰囲気が似ている──
そう思いながら、佳槻は30cmほどの水槽をベッドサイドに置いた。
中には、ヤドカリとハゼが二匹ずつ。それに、生きた貝も入っている。
「海の匂いがする……」
セラムは水槽を覗きこむと、鼻をすんすんさせた。
「ちょっと思うところがあって、これを持ってきたんですが……。気に入ってもらえましたか?」
佳槻の問いに、セラムは何度もうなずいた。
「それはよかった。面倒を見なければすぐに死んでしまいますが、マメに世話をすれば結構生きるものですよ。よければ置いていきます。飼ってみませんか?」
「うん。飼う。飼わせて」
セラムがそう言ったとき、部屋の外で様子をうかがっていた所員たちが、「おお……」と声をあげた。この施設に来て以来、セラムが自らの意思で何かをしようとしたのは初めてだったからだ。
「元気になったところで、お風呂に入らない?」
ソーニャ(
jb2649)は、思い切ったことを口にした。
「お風呂……?」
「うん。だって、きみの髪ボサボサだもん。いつも使ってるところ、あるよね?」
「お風呂なんて、入ったことない。だって、私は。人間じゃないし。この部屋からも、出られないし……」
「そう、残念……。じゃあ、髪だけでも綺麗にしない?」
「うん」
「じゃあ、ここに座って」
ソーニャは、皆から少し離れたところにイスを置いた。
会話を他人に聞かれたくないのだ。本当なら二人きりで話したかったが、部屋を出られない以上しかたない。
「ねぇ、ボクたち似てるよね」
セラムの髪にブラシをかけながら、ソーニャは語りだした。
「ボクも昔、地下に閉じこめられてたんだ。いまのきみと同じで、外に出られなかった。閉じこめられる前の記憶がないのも同じ。この依頼を見たとき、ボクはきみを他人とは思えなかったよ」
「記憶は戻ったの?」
「ううん、全然。……ねぇ、記憶には残ってないけど心の中に何かが残ってる……そんな想い、きみにもある?」
「あるかも、しれない」
「やっぱり、ボクと同じだ」
ソーニャはセラムを強く抱きしめた。
実際、ふたりの境遇はよく似ている。ひとつだけ違うのは、セラムがソーニャのように解放される未来は保証されていないという点だ。
「ボクの心に残ってるのは、空。どこだかわからない、無窮の天空。その空を思うと、心が締めつけられて狂いそうになる。頭の中が破裂しそうで、いてもたってもいられないの。ボクは、あの空を飛びたい。この翼で、おもいきり飛びまわりたいんだ。だから、ボクはあの空を見つけに行く。だって、そうでしょ? それがボクの妄想でも、行かずにいられない。探さずにいられない。愛さずにはいられないんだ。どんなに苦しくても、いつか必ずたどりつく。だって、それがボクの生きる理由で、生きなければならない理由だから。……きみにも、そんな想いがある?」
「……海に。行ってみたい、かも」
「じゃあ、いつか一緒に行こう。ボクも外に出してもらえるまで時間かかったけど、必ず出してもらえるから」
「……うん」
「あら。すこし気力が湧いてきたみたい?」
ソーニャたちのもとへ、飛鳥が近寄ってきた。
手には、リボンやバレッタを持っている。
「外に出る意思を取りもどしたなら、おしゃれすることも覚えないとね」
「おしゃれ……?」
セラムが首をかしげる。
無理もない。この部屋でいくら自分を飾っても、意味がないのだから。
「そう。とくに髪は、女の命。いじることを覚えたら、たのしいわよ? ちょっと教えてあげるね」
飛鳥は少々強引に、セラムの髪をセットしはじめた。
とくに嫌がるそぶりもなく、あっというまにセット完了。
「私たちとおそろいにしてあげたよ、ほら」
飛鳥が手鏡を渡すと、そこには飛鳥やソーニャと同じツインテール姿のセラムが映っていた。
それを見て、セラムはわずかに微笑む。
「おや。笑顔を見せられるようになったか。最悪の無気力状態は脱したようだな。……ところで、調理場を借りてこんなものを作ってみた。皆で食べないか?」
そう言って静矢が持ってきたのは、焼きたてのホットケーキだった。
「それは、なに?」と、セラム。
「おっと、そうか。記憶を失っているのだったな。これはホットケーキだ。まぁ食べてみるといい。バターとメープルシロップをかけてな」
言われたとおりにして、セラムは恐る恐るホットケーキを口に運んだ。
「甘くて、おいしい」
「いい笑顔だ。外の世界には、これよりおいしいものが無数に存在するぞ?」
ニヤリと静矢が笑ってみせた、その直後。
「あっ! 私もケーキ持ってきたんだった! 先こされた!」
騒ぎだしたのは飛鳥だ。
所員に預けておいたケーキを受け取り、「ジャーン!」と大袈裟に見せびらかす飛鳥。
「見てよ。一切れ4000円の、超高級ザッハトルテ! こんなのが経費で食べられるなんて、夢みたいだよね! 人数分あるけど、みんな食べる? 食べないね。じゃあ私とセラムさんで山分けだ!」
「みんなで食べたほうがいいと思う……」
「あ、はい……」
冗談の通じないセラムであった。
こうして、なごやかな雰囲気の中でティータイムが過ぎていった。
独房のように殺風景だった室内にはコサージュやミニアクアリウムが飾られ、ベッド脇には何冊もの本やアルバムが重ねられている。かわされる会話は楽しげで、騎士の奏でるギターの音色も今は悲しみの色を捨て去り、風のように爽やかだ。
だれの目にも、セラムの状態が改善されたのは明らかだった。
見守る所員たちもホッと息をつきながら「大成功だな」「久遠ヶ原に依頼して正解だった」などと話している。
が、しかし。
たのしい時間は、永遠には続かない。
撃退士たちは遊びにきたわけではないのだ。任務が終了したなら、帰って学園に報告しなければならない。
「……というわけで我々はそろそろ帰るが、最後にこれを渡しておこう。今日の記念だ」
静矢が取り出したのは、一枚の色紙だった。
円を描くように参加者の名前が刻まれ、メッセージが添えられている。
いわゆる、寄せ書きだ。
『君が喜びと幸せに満ち溢れん事を願う』 鳳静矢
『次は青空の下で会いましょう。待ってるわ』 陽波飛鳥
『また、一緒に色々やりたいな!』 紀浦梓遠
『本物の海はやっぱり涙の味か、行けばわかるかな』 天宮佳槻
『想いを信じて、生きていこう』 ソーニャ
『思い描きたい空は、何色だ』 江戸川騎士
『今度一緒にお外で遊ぼう!』 キイ・ローランド
『「やりたいこと」が生まれますように。それが貴方の始まりになるから』 ディアドラ
すべてのメッセージを読み終わると、セラムは「ありがとう」とだけ言った。
「この中心に、自分の名前を書いてくれ。それで完成だ」
「……こう?」
静矢に言われるまま、セラムは署名した。
それを見て、佳槻の頭に再び疑念が浮かぶ。
この天使は、何故あの使徒と同じ名前なのか。
そもそも、記憶喪失になって自分の名前だけ覚えていたなど、都合が良すぎやしないか──?
この疑問を放っておけず、佳槻は所員に訊ねた。
答えは、こうだ。
「彼女がこの施設で目をさましたとき、セラムという言葉を繰り返していたんだ。それが彼女の名前とは限らないが、呼び名がないと不便なのでね……」
佳槻は瞬時に察した。
やはり、この名前は彼女のものではない。生き別れになった使徒のものだったのだ。
無論、推測に過ぎないし、だれかに話すようなことでもない。これから先、彼女は死んだ男の名前で生きていくのだろう。ただそれだけのことだ。とくに何の感傷もない。そんなものは、とうに失ったのだから。
その日の夜。
セラムはふと思い出して、不思議な装置を手に取った。
去り際に、キイ・ローランドが置いていったものだ。
「暗くなったら使ってみて。星の海へ行けるから」
と、彼は言っていた。
電源を入れると、映し出されたのは壁から天井まで一面に広がる星屑たち。
「わぁ……」
無意識のうちに声をあげて、セラムは作りものの星空を見上げた。
この部屋には窓がない。記憶を失った彼女にとって、星を見るのは初めてだ。
梓遠の見せてくれた、夜空の写真を思い出す。
あの本物の星空を、自分の目で見てみたい。
セラムは、すなおにそう思った。
できれば砂浜で。潮風を浴びながら。
となりに誰かがいれば、もっといい──