● 陶子
雨は激しくなる一方だった。
初夏とは思えないほどの、冷たい雨。
けれど、この廃墟にはとてもふさわしい。
もっと、もっと降ればいい。
降って降って、地上のすべてを水底に沈めてしまえばいい。
そうすれば、この廃墟は海になって──
「……っ!?」
いきなり、後ろから口を押さえられた。
なに!? なんなの!?
抵抗しようにも、まったく動けない。ものすごい力だ。
「――シッ! なぜ、このような場所におる?」
しずかな声。
こたえようがなかった。
口をふさがれているのもあるけれど、なにをどう答えてもいけない気がする。
悪い予感に体が震え、胸がざわついた。
きっと、この人は撃退士だ。
でも、どうやって私の後ろに──?
「ここは危険だ。ちと強引ですまぬが、ともに来てもらうぞ」
どうしよう。どうすればいい?
このままだとセラムは寝込みを襲われてしまう。
ここから大声を上げたって、とても届かないだろう。
振りほどいて逃げる?
そんなこと、できるはずがない。だって、すごい力だ。
迷ってる間に、抱きかかえられてしまった。
見れば、ひどく背の高い男だ。
銀色の髪が雨に濡れてキラキラしている。
そのまま、雨の中へ連れ出された。
たちまちびしょ濡れだ。
そんなことなど気にもしてないのか、男は勢いよく走りだした。
驚くほど速い。
あっというまに、二つ隣のビルへ。
「ここでじっとしておるがよい」
それだけ言うと、男は私を置き去りにして再び雨の中へ駆けだしていった。
すべてが、またたくまのできごと。
なにが起きたのかと思うほどだ。
いや、なにが起きたのかではない。起きてはいけないことが、いまから起きようとしている。
心臓が激しく打ち、雨よりも冷たい汗が全身から噴き出した。
すぐに戻らないと──
● セラム
殺気で目がさめた。
危惧したとおり、居場所が露見したのだろう。
壁に触れてみると、透過できない。おそらく阻霊符だ。いつもながら、こざかしい。
ウイスキーをあおり、ホールへ移動することにした。ここは砂だらけで、足場が悪すぎる。潮風に似た匂いは嫌いではないが、戦いには不要だ。
玄関ホールには、薄汚れたパンフレットや入場券の切れ端が散乱している。
入場券に記された発行日は、二年前のものだ。
その日以来、この水族館の──否、この街の時間は止まっている。
壁を背にして、待つことにした。
その間、『死』について考えた。
彼女が死んでからの三週間、考えなかった日はない。
この戦闘の結果がどうなろうと、俺はあと一週間で死ぬ。
他の天使の庇護下に入ることを、俺は選ばなかった。
昔の詩人が言っている。
愛するものが死んだ時には
自殺しなけあなりません
愛するものが死んだ時には
それより他に、方法がない
その言葉に従って、俺は死ぬつもりで撃退士を殺しまわった。
戦いの中で手勢のサーバントは次々と壊れていったが、あいにく俺は死ななかった。
どうやら、天は俺の望みをかなえてはくれないようだ。
それとも、今日こそかなえてくれるのだろうか──
じきに姿を見せたのは、小僧二人と小娘三人。
その人数で十分と判断されたわけだ。
なるほど、たしかにサーバントなしでこの人数を相手するのは骨が折れる。
駆け出しの若造ばかりならそれでも楽勝だが、見たところ二人ほど厄介なのがいるようだ。
「セラムですね? 任務により、あなたを討ちます」
厄介そうな黒髪の小娘が、馬鹿丁寧に口上を述べた。
まっすぐな目だ。まったく、反吐が出る。
「おまえで五人目だ。できもしないことを口にした愚か者は」
「五人もの命を……」
「五人? 馬鹿を言え。その十倍は殺したぞ」
「な……っ」
小娘の顔が険しくなった。
四肢を包むオーラが、ゆらりと揺れる。
おおかた、正義のヒーローを気取っているのだろう。目を見ればわかる。くだらん精神だ。
「どうして、そんなに撃退士ばかりを殺したの……?」
赤い瞳を向けてきたのは、恐ろしく目つきの悪い三白眼の小娘。
良い目をしている。きっかけさえあれば、簡単にこちら側へ転げそうな、危うい目だ。
だが無論、いまの俺にそんな暇はない。
「天魔が撃退士を殺すのに理由が必要か? ……まぁどうしてもというのなら聞かせてやらんこともないが」
「聞かせて」
「待った。時間稼ぎですよ、これは」
凡庸そうな小僧が割り込んできた。
雪の結晶に似た光が、全身をうっすらと覆っている。
おそらく、こいつは合理主義者だ。俺の話を聞く意味などないと、ただしく理解している。
実際、こいつの言うとおりだ。すこしでも話を引っ張ったほうが、俺の傷は回復する。
ならば、俺はこう言おう。
「そいつの言うとおりだ。おまえたちは一秒でも早く俺を殺したほうがいい。ただしその場合、俺が撃退士を殺しまわった理由も、入口に少女が立っていた理由も、なにひとつわからないままになるがな」
「僕はそんなことに興味がない」
「おまえはそうでも、そっちの目つきの悪い小娘はどうだ? このまま何も知らずに俺を殺せば、その胸には棘が刺さったままになるぞ?」
「私は聞きたい……。聞かなければ後悔するような気がするの……」
細い体から、怨念にも似た気魄が漏れた。
その気魄に圧倒されたか、他の四人は黙りこむ。
どうやら、少しは引き延ばせるようだ。
「では聞かせてやろう。……知ってのとおり、俺はもともとただの人間だ。二年ばかり前、この街は冥魔に襲われた。悪魔がゲートを作ったのさ。無論、当時の俺は奴らのことを何も知らなかった。結界ができたとき、俺の家族は運良く街を離れていて難を逃れたわけだが……」
ウイスキーを一口飲んで、話を続けた。
「その後、おまえら撃退士がゲートを破壊しようとやってきた。結果は惨敗。こんなもんかと失望したものだ。……が、それだけならまだよかった。……何回目かの戦いのあと、錯乱した撃退士が結界の外で暴れだす事件があってな。一般市民が三十人ほど死んだ。その中に俺の家族が含まれていた、というわけだ。これが、おまえら撃退士を殺すに至った一つめの理由」
「……ほかにも理由が……あるの?」
赤い瞳の小娘が、ごくっと唾を飲んだ。
その表情は、どこか陶然として見える。
「あるとも。……三十人を殺したその撃退士は、死刑にならなかった。死刑どころか、『完全な心神喪失状態』と判定されて、無罪判決だ。こんな無法があるか?」
「それで……その撃退士を、殺そうと……?」
「そうだ。……もっとも、その宿願はシュトラッサーになった日の内に果たしたが」
「だったら……もう撃退士を恨む理由はないんじゃない……?」
「理由はある。俺の天使を、おまえらが殺したからだ。家族を奪い、そしてまた唯一の支柱だった彼女を奪い去った、おまえら撃退士を……俺は殺し尽くさずにはおかない」
「そんな理由が……。でも待って……。まさかあなた、主がいないんじゃ……?」
「ああ。俺はあと一週間で死ぬ」
「そんな……。死ぬことがわかってて、なんでこんなことを……?」
「蒙昧な……。あらゆる生命は、死に向かって生きることしかできない。俺にとっては、百年後に死ぬのも一週間後に死ぬのも同じことだ」
「だからって……」
「もういいだろ。話はそこまでだ」
真っ黒な瞳の小僧が、話を遮った。
白目の部分が黒くなっているのだ。
全身を這いまわる黒い斑紋状のオーラもあいまって、およそ人間には見えない。
「でも……」
「理由はどうあれ、彼は殺した。ゆえに殺す。純粋なるギブ&テイクだよ」
「そうですよ。こんなのは、よくある話です。驚くにも当たらないし、同情にも値しない」
凡庸そうな男が同意した。
なるほど。小僧ふたりは徹底した理性派というわけだ。
「でも……あの見張りに立ってた子のことも気になる……」
「それは仕事を終えてからでいいでしょう」
「あ、ああ……そう……ね。やるしかないのね……?」
どうやら、引き延ばしはここまでらしい。
もともと、俺は話上手なほうではない。
もし彼女が生きていれば、もっとうまく取り入ることができただろう。──否、それ以前に一分で皆殺しだ。
「話は終わりか? もうやっちまっていいんだな?」
一番小さな小娘が、あくびでもしそうな顔で言った。
飼い主に似たのか、ティアマットも退屈そうだ。
ある意味、こいつこそ最大の合理主義者かもしれない。
つまり、最優先に叩くべきだ。
● 佐藤七佳(
ja0030)
聞かなければよかった、と思った。
もちろん、どんな天魔にだって事情があるのはわかってる。
でも、それにしたって、このシュトラッサーの話はひどい。
あたしたちが何もしなくても、彼はあと一週間で死ぬ。
けれど、その一週間さえ生きることは許されない。
生かしておけば、彼は宣言どおり死ぬ瞬間まで撃退士を殺し続けるだろう。
そんなことは認められない。
だから、あたしたちが止めるしかない。戦いは不可避だ。
ただ、これだけは言わずにいられなかった。
「貴方が悪だとは言えません。天魔も人も、力の差こそあれ命を糧に命をつなぐ、その本質は同じです。だから、貴方を倒すことが正義だとは言いません」
「ほう……。ならば、自分が『悪』だと認めるんだな?」
「……そうですね。人間以外の生物から見れば、私たち人間は『悪』です。私は現実から目を逸らしはしません。ただ……」
「ただ? なんだ?」
「…………っ」
言葉に詰まった。
なにか、言いたいことがあったはずだ。この愚直なシュトラッサーに対して。
でも、駄目だ。この胸に渦巻く何もかもが、まるで言葉にならなかった。
吐き出すことのできなかった苦々しい想いが、胸の奥でずっしりと重さを増す。
結局は、戦いの果てに答えを見つけるしかないのか。いつものように。
「……私たちは戦うしかない、ということです。……迅雷の如き一閃、叩き込みます!」
これが、開戦の号砲。
言い終えると同時に、アウルを両足に集中させた。
爆発。
光纏式戦闘術『光翼』──!
発動した瞬間。十メートル以上離れていたセラムを、一瞬で間合いに捕らえた。
ふだんならこのまま背後を取りに行くところだが、あいにく彼は壁を背にしている。
壁に激突しないよう、横へ跳びながらエヴァーグリーンを放った。
敵を細切れにする、残酷なワイヤー兵器だ。
セラムは反応することもできないまま命中──と思った瞬間。その姿は残像になって消えていた。
「え……っ!?」
無意識に声が出た。
それほどの回避速度だったのだ。
そしてセラムはあたしのほうには目もくれず、まったく違う方向へ稲妻の魔法を発射していた。
● Sadik Adnan(
jb4005)
「ぐが……っ!」
いたい。
いたくて、あつい。
なんだ!? なにをくらった!?
戦いがはじまったとたん、あの黒い髪の女がつっこんでいって……いきなり目の前に白い光が──
「げふっ!」
せなかから床におちて、ついさっきまで空中にいたんだってことがわかった。
バシャッ、と熱いモノが顔にふりかかる。
なんだコレ!?
まさか、あたしの血か!?
ヤバイ、ヤバイ!
なにがヤバイって、手足がうごかない。たちあがるどころか、指一本うごかせやしない。
背骨がビリビリして、心臓がふるえて、息もマトモにできないぐらいだ。
こんなところを攻撃されたら──!
「ゴ、ゴア! こい! ゴアッ!」
かけよってきたゴアが、カベみたいに立ちふさがった。
いまの感じからして、ゴアがあの攻撃をくらえばあたしはもう戦えないだろう。運が悪けりゃ死ぬかもしれない。でも、身動きできないあたしがくらうよりはマシなはずだ。
「だいじょうぶですか? いまなおします」
必死な顔で、男があたしの肩に手をおいた。
たしか、こいつの名前は…………わすれた。
いや、おもいだした。アマ……なんとかだ。
手がおかれたところから、あたたかいものが流れる。
それだけで、体がすこしラクになった。
つめたそうなツラしてるクセに、案外やさしいヤツなのか?
「しばらくじっとしていれば、うごけるようになるはずですから」
「あ、あり……」
くちびるがふるえて、ことばも出せない。
もしかして、あの天魔。めちゃくちゃ強いのか!?
● 天宮佳槻(
jb1989)
後衛から『蟲毒』を撃ちこむ予定だったが、そういうわけにもいかなくなった。
すぐ真横で、Sadikが電撃を浴びて吹っ飛んだからだ。
僕の『治癒膏』は気休め程度でしかないが、いまの彼女は少しでも回復させておかなければ命に関わりかねない。
「あ、あ、あり、り……が……」
Sadikの唇はブルブル痙攣し、歯はガチガチ鳴っていた。
電撃の魔法をまともに受けたせいだろう。
「礼を言う必要はありません。これは任務ですから。助けあうのは当然です」
「そ、そ、そうか……? で、でも、あ……ありがと、な」
つらいだろうに、無理してでも礼を言おうとするSadikは、不作法な見かけと違って純粋なのかもしれない。
「いえ……僕のスキルが役に立って、なによりです」
話しながらも、戦況の確認は忘れない。
攻撃しているのは、僕ら以外の四人。
しかし、セラムの素早い動きをとらえきれないようだ。
僕が加勢して、あの動きを少しでも封じる必要がある。
「い、いけ。あたしは、だ、だいじょうぶだ」
動けないまま、Sadikはそう言った。
二択だ。
可能なかぎり治癒膏を使ってから攻撃に参加するか、それとも今すぐ攻撃にまわるか──
「な、なにやってんだ? いけよ! いけ!」
「ですが……」
「いけ! はやく!」
Sadikが怒鳴ったことで、迷いはなくなった。
自然に走りだした足は、風のように軽い。
──そう。なにも迷うことなどない。なによりも優先されるのは依頼の達成だ。たとえ運悪くSadikが死んだとしても、依頼さえ成功させれば問題はない。そうだ。なにも問題ない。なによりも悪いのは、迷うこと。
僕は、もう迷わない。
一抹の迷いもなく、ただ天魔を倒す。
己の強さを信じて疑わない傲岸不遜な天魔を、より以上に傲岸不遜な人類が駆逐する。
それこそが人類の歩んできた歴史。
いや、生命の歴史だ。
● 小田切翠蓮(
jb2728)
まことに面倒な相手であった。
何しろ、こちら側の攻撃がまるでかすりもせぬのだ。
撃退士の職に就いてからというもの、これほどに素早い相手は見たことがない。
それに加えて、ひどく戦い慣れておる。
撃退士五十人以上を殺害せしめたというのも、あながち誇張ではなかろう。
下手を打てば、その記録を更新させてしまいかねぬ。
壁を背にしているのも、こちらにとっては悪条件であった。
四方を取り囲んでおれば、こうまで苦戦することもなかったであろうに。
恐らく、回避することに長けた天魔なのであろう。それが証拠に、攻撃力はさほどでもないように見える。
ともあれ、長引けばこちらが不利なのは事実。
一刻も早く勝負を決せねばなるまい。
使い慣れたクロスボウに矢をつがえ、狙い澄まして放つ。
が、射た直後に外れたと知れる。矢が放たれた瞬間には、もうその場に奴はおらんのだ。
そして訪れたのは、目を疑う光景であった。
なんと、安全な場所へ隔離しておいたはずの少女が、あろうことかホールに駆け込んでくるではないか。それも、放たれたばかりの矢の直線上に。濡れた髪を振り乱して。
「ぬぅ……っ!」
痛恨のミスであった。
やはりあの少女は、セラムに関わる者であったのだ。
少女の胸を矢が貫き、血煙とともに倒れる──
それが現実となるのに、一秒とかからぬであろう。
● 霧原沙希(
ja3448)
その子がホールに飛びこんできたとき、やっぱりと思った。
やっぱり、あの子はセラムの知り合いだったんだ。
知り合い? いや、それ以上かもしれない。
でも、とにかく止めなければ。
それぞれの位置を考えれば、私が一番近い。彼女がセラムに近付く前に、わけなく捕まえられるはずだ。
そのはずだった。
一本の矢が彼女を狙わなければ。
「く……っ!」
ほとんど無意識に、私は飛び出していた。
──無意識? いや、ちがう。私は、たしかにこう考えていた。
あの子を死なせたくない、と。
そのために私ができることは、ただひとつ。
ドスッという音がして、鋭い痛みが胸に跳ねた。
痛い。
当たり前だ。体の中心に矢が突き刺さってるんだから、痛いに決まってる。
心臓が打つごとに、ズキッ、ズキッ、と痛みが背中へ突き抜ける。
けれど、この程度の痛みは撃退士なら誰でも経験することだ。
耐えられる。笑って耐えられる痛みだ。
もしもこの痛みから逃げていたら、きっと耐えがたい痛みが私を襲っていただろう。
だから、これは必要な痛みだったんだ。
「すまぬ。まさかこのような事態になろうとは」
小田切先輩が言い、私は首を振った。
「大丈夫。……この程度、どうってことない」
左手で胸をおさえながら、私は目の前を駆け抜けようとした女の子の腕をつかんだ。
「はなして! はなしてよ!」
振りほどこうと暴れる少女。
その腕を、けっして放すわけにはいかなかった。
なにがあろうと。ぜったいに。
● 鷺谷明(
ja0776)
じつに厄介な相手だった。
離れれば稲妻の魔法、近付けば短剣術。
おまけに信じがたいほど素早く、私の攻撃は空を切るばかりだ。
「ふ……。あくびが出るぞ、撃退士ども」
セラムの短剣が一閃し、私の肩から血が噴き出した。
さして深い傷ではない。ほうっておけば治る程度のものだ。
しかし、切られた服は治らない。
「この弁済は、命で履行してもらうこととしよう」
『万力』を解放し、獣と化した腕で打ちかかった。
が、命中すると確信した一撃は、さらりとよけられてしまう。
「しょせんは人間だな」
もともとは人間だったくせに、そんなことをほざく。
「人間であることを諦めた者が、戯れ言を……」
「ふ。おまえらには人間を捨てる勇気がないだけだ」
セラムの腕が水平に動き、銀色の光が弧を描いた。
ぎりぎりのところで後ろへ跳びのき、右手のアルビオンを投げ放つ。
キュゥッという音を立てながら、真っ白なワイヤーがセラムの首筋めがけて走った。
──が、かすりもしない。
実際、驚くべき反応速度だ。さすがは使徒といったところか。
しかし、むしろそれが楽しい。
見ろ。攻撃を避ける彼の、まるで余裕のない表情を。
彼はわかっている。
一撃でも食らえば、それがそのまま死につながるのだと。
じつに賢い。賢くて、ゆえに臆病だ。
よって私は、慈悲も容赦もなく攻撃を重ねるのみ。
いかなる天魔も、百パーセント完璧に攻撃を避け続けることなどできはしない。
ましてや、弱点を抱えた天魔などには──
その少女が姿を見せた瞬間。セラムの動きが鈍った。
ほんの一瞬のことだ。凡人なら見過ごすぐらいの、針先ほどの隙。
だが、私にはわかった。
この一撃が入るのだということが。
秘技『宿樹』
素早い踏み込みから貫手を放ち、『種』を植え付ける。
冷徹に、かつ確実に命を奪う、寄生樹の種を──
「がぐ……ッ!」
その一撃は彼の脇腹をとらえ、無様な声を上げさせることに成功した。
いい気味だ。
さぁ、醜い屍の上に美しい花を咲かせるがいい。
● セラム
何を食らったのか、わからなかった。
恐らく、『毒手』の系統に属する技だ。
撃退士の中には、こういう未知の技を持つ連中もいる。
最初に睨んだとおり、やはりこいつは厄介な相手だった。
だが、それ以上に厄介かもしれない奴がいる。
「これが避けられますかっ!?」
わざわざ攻撃を予告してくる馬鹿丁寧な小娘が、紫色の刃を薙ぎ払ってきた。
これをもらうと、少々まずい。
「よけてー!」
陶子だった。
言われずとも、よけるに決まっている。
無論、軽々と回避──した直後、砂塵の竜巻が視界を覆った。
陰陽師の術だ。
あの、凡庸な小僧が仕掛けたものらしい。
たしかこの術には石化のおまけがあったはずだが、そんなもの俺には通用しない。
返礼として、右手に魔力を集中させ、突き出した指先から雷撃の魔法を──
その瞬間。まるで映画のシーンが切り替わるように、視界が明るくなった。
小僧の後ろに、陶子がいる。
この雷撃が小僧に当たればいい。
だが、もし回避されれば──?
躊躇した瞬間、悟った。
ようやく天は俺の望みをかなえてくれるのだと。
次の瞬間。放たれなかった雷撃の代わりに、ティアマットの放つサンダーボルトが俺の体を貫いた。
● 陶子
雷みたいな攻撃を受けたあと、セラムはその場からほとんど動かず狂ったように戦いつづけた。
彼が強いのは知っている。
だって、撃退士を何十人も殺してるぐらいだ。
でも、戦いを見るのは初めて。
血しぶきをあげて舞うように戦う彼は、ウイスキーを飲んでばかりの姿とは全然ちがう。
目のくらむ雷の魔法も、きらめく短剣も、夢の中のように美しい。
相手は六人だけれど、かならず勝つはずだ。
彼が負ける道理などない。
絶対に勝つはずだ。絶対に。
「ごめんね……。私たちは撃退士なの……。天魔は倒さなければならない」
赤い瞳の女が、そんなことを口にした。
カッと頭が熱くなる。なんなの? こいつさえいなければ、私は体を張ってでも盾になるのに。
「なに言ってるの……? 彼は強いんだから。あなたたちなんて、皆殺しよ」
「残念だけれど……夢を見る時間は終わりみたいね……」
「な……っ! 夢なんかじゃない! ただの人間が、天魔に勝てるはずないでしょ!?」
「私たちは、ただの人間じゃない……。撃退士だから……」
そのとき。
ゴガッという物凄い音がして、見ればセラムは壁に手をついていた。
全身血まみれで、真っ白だったはずのシャツは、もう白いところが見当たらないほどになっている。そこへ撃ちこまれる紫色の剣。
血しぶきが飛び、ざっくり割れた肩口には骨が見える。
めまいがするような光景だった。
その間にも、彼の胸には剣が突き刺され、矢が突き立つ。
さっきまでの舞うような動きは、もうどこにもない。
サンドバッグみたいに、ただただ攻撃を浴びつづけている。
肉の叩き斬られる音。
骨の折れる音。
ビシャッ、と壁に血が飛び散る。
ひどい。
あまりに、ひどすぎる。
こんなの、見たくない。
ねぇセラム。あなた、勝てるの?
勝てるんだよね!?
動悸が激しくなり、視界がグラグラしてきた。
ああ──。
私には、目の前で起きていることの、なにもかもがわからない。
なんで──?
なんで、そこまでして戦うの──?
死んでしまった人のために──?
● 霧原沙希
あばれていた少女も、じきにおとなしくなった。
凄惨な戦いを目の当たりにして、茫然自失といったところだろうか。
その戦いも、もう終わろうとしている。
最初の一撃が入るまでは苦戦したものの、鷺谷さんの毒撃が入ってからは一方的だった。サンダーボルトで麻痺させ、薙ぎ払いでスタンさせて──
セラムは防戦一方になりながらも戦いつづけていたが、その体から流れ出す血の一滴一滴が、確実に命を奪い去ろうとしている。
こちらも何人か負傷しているが、もう戦況が覆ることはないだろう。
私が手を貸す必要もない。
私の仕事は、この少女をおさえておくことだけだ。
でも、その仕事は案外難しいかもしれない。
セラムが死んだときに彼女がどういう行動に出るか、予想できないから。
その場で泣き崩れてくれるぐらいならいい。
けれど、後を追って自ら命を断とうなどとしたら……?
それを、いまの私が止められる?
止める権利があるの? この私に? こんな、ゴミみたいな私に……?
ズキッ、と胸に痛みが走った。
矢傷のせいじゃない。
これは、私自身の中から……私自身の過去から生まれてくる痛みだ。
終わりのない痛み。耐えがたい苦痛。
この苦痛を終わらせる方法は、ひとつしかない。
そう、ひとつしか──
もしも、この少女が。私と同じような傷を抱えていて、私と同じ結論に達したとしたなら……。
やはり、私には止められない。
だから、その瞬間。この子には泣いてほしい。泣きわめいて、私たちを人殺しとでも罵倒してくれればいい。そうやって、泣きわめきながら生きていけばいい。私がそうしているように。
● セラム
「これで終わりだ……!」
黒目の小僧が、太刀状のオーラを放ってきた。
『辻風』だ。
別段、どうということもない攻撃。
ごく平凡な、見飽きた攻撃だ。
だが、今の俺にはそれを避けることさえできそうになかった。
もう完全に足が動かない。
その一撃を受けた瞬間、足がもつれ、膝がガクンと折れた。
床は血の海で、肉や骨の欠片があちこちに転がっている。
ここまでされてまだ生きているのだから、使徒が死ぬのもラクではない。
「ふ……。足が滑っただけだ」
立ち上がろうとしたが、無理だった。足に力が入らない。それどころか、握っていた短剣を落としてしまう始末だ。
どうやら限界らしい。ようやく死ねるというわけだ。
が、最後にやり残したことがある。
「……残念ながら、遊びは終わりのようだ。ただ、最後にひとつだけ頼みを聞いてくれないか?」
「おことわりだ」
問答無用とばかりに、黒目の小僧が刀を振りかざした。
「待って。もう勝負はつきました。最後の言葉、聞いてあげませんか?」
馬鹿丁寧な小娘が口をはさんだ。
「そんなことをする必要があるのか? ……まぁどうしてもと言うのなら、佐藤君がとどめを刺すんだな」
「……わかりました。その責務、必ず果たします」
「ならば自由にすると良い。私は引き上げるとしよう。その男が語ることになど、まったく興味ないのでね」
言い残すと、黒目の小僧はホールを出ていった。
小気味良いほどに一貫した言動だ。
「それで、たのみとは何ですか? あの子を保護してほしいというのでしたら、もちろん責任を持って引き受けます」
小娘の視線の先には、陶子の姿があった。
床にひざをついて、声も上げずに泣いている。
一瞬、考えた。
どうにかして陶子を手元へ引きずり寄せ、人質にとって逃げるというのは、どうだろう。案外悪くない策のように思える。恐らく陶子は喜んで人質になるはずだ。彼女をつれてこの街を出たあと、適当な隠れ家を探す。この傷が癒えるまで、かなりの時間がかかるだろう。そういえば陶子は海を見たことがないと言っていた。ならば、海の近くで隠れ家を探すことにして……一度ぐらい、潰れていない水族館へ行ってもいいだろう……
──夢物語だ。俺はもう一歩も動けない。歩くどころか、立ち上がることさえできないのだ。
「ふ……。なにを見当外れなことを言っている。そんな小娘など、知ったことか」
「え……っ? じゃあ最後の頼みって……?」
「そいつを取ってくれ」
俺は五メートルほど先の床を視線で示した。
残りわずかになったウイスキーのボトルが、そこに置かれている。
「そ、そんなことですか……?」
「早くしろ。ついでに、蓋を開けてくれると助かる」
「は、はい」
黒髪の小娘がボトルを持ってくるまでの数秒が、果てしなく長いように思えた。
わかっている。そんなものを飲んだところで、酔えはしない。
ただ、酔ったような気分になることはできる。
そうして、一時的にでも思い描くことはできる。
彼女と──俺の天使と過ごす、幸せな未来を。
意識が途切れる瞬間。なぜか網膜に焼きついたのは、静かに涙を流し続ける陶子の姿だった。
ああ、そうか。瞳の色が彼女と似て────
● 陶子
撃退士からボトルを受け取ろうとしたセラムの手は、だらりと床に落ちた。
彼の最後の望みは、かなわなかった。
そんなもの、かなうほうが少ないのかもしれないけれど。
でも、それにしたって。あと十秒ぐらい、待ってくれればいいのに。
その十秒で、彼は少しでも酔っぱらうことができたかもしれないのに──
彼が死んだ瞬間、私はやけに冷静だった。
ついさっきまでの嵐みたいな感情が急激に消え失せて、なにか、どこか、知らない場所にストンと着地したみたいだった。
味わったことのない感覚。
味わったことのない感情。
家族が死んだときとは全然ちがう。
なにもかも、ちがう。
結局、セラムはどこまでも他人だったのだ。
他人として知り合い、他人として過ごし、他人として死んだ。
私は少しでも他人以上になろうとしたが、無理だった。
最後の最後まで、彼は私のことなど気にもとめなかった。
私よりも酒のほうを優先したぐらいだ。
きっと、彼にとって私は道端の石ころみたいなものだったんだろう。
いや、それより悪いかもしれない。だって、石ころはしゃべったりしないから。
もしかすると、私はまったく歓迎されてなかったのかもしれない。
最愛の人を失った彼を少しでも慰めている気でいた私は、ただの道化だったのかもしれない。
彼の悲しみを理解しているつもりでいたけれど、なにも理解できてなかったのかもしれない。
嗚呼、なんて間抜けな──
本当に、間抜けすぎる──
ともかく、私はまた居場所を失った。
この水族館には、二度と来ない──いや、来れないだろう。
この空間は、とても居心地が良かった。
割れた水槽、乾いた砂、砕けて散らばった骨……それに、かすかな海の匂い。
でも、私は海を見たことがない。だから、この匂いが海の匂いなのか、よくわからない。ただ、想像の中の海の匂いとよく似ている。
それは多分──涙の味と同じだ。