● Humanity
雨が降っていた。
まだ冬の寒さが残る、三月の夜の雨。
いまにも雪に変わりそうな、ひどく冷たい雨だ。
その下を、八人の撃退士たちが走っている。
先頭を行くのは、袋井雅人(
jb1469)
八人の中では、最も足が早い。
バシャバシャとアスファルトの上に足音を刻みながら、彼は声を張り上げる。
「最後に、もういちど確認します! 全員一致団結して、少女を助ける! 基本的に、こちらからは一切攻撃を加えない! これで良いですね!?」
異論は返ってこなかった。
その事実に、雅人は胸を撫で下ろす。
この依頼を受けたとき、彼が一番に考えたのは少女を救いたいということだった。しかし、依頼の達成条件は少女を無力化すること。生死は不問だった。撃退士の中には、依頼を成功させるためなら躊躇なく人命を奪う者も少なくない。
無論、それが正しいこともある。人を殺すことが一概に『悪』だなどと、雅人は考えない。ただ素直に、今回はメンバーに恵まれた──と、そう思う。
意見の一致を見た以上、あとは全力を尽くして少女を救うだけだ。たとえ、それが間違った選択だとしても。取りかえしのつかない失敗だったとしてもだ。
一介の人間に過ぎぬ雅人には、未来のできごとなどわかりはしない。
ゆえに、未来の報告書を知ってからこれを読む者がいたとしても、彼らを責めることはできない。それは、訪れるべくして訪れたできごとなのだから。
だれもが知っているとおり、人は過ちを犯す。
その人間性ゆえに。
● Insanity
雨の中。水族館に向かって走りながら、天宮佳槻(
jb1989)は不思議な既視感に襲われていた。
この依頼を受けてから、ずっとだ。
体をたたく、雨の温度。
アスファルトに跳ね返る水の音。
それらすべて──吐く息の白ささえ、どこかで見たように思える。
なにより強い既視感を覚えるのは、雨の匂いだ。
そして、その匂いが一つの記憶を蘇らせる。まるで、埃を被っていた真っ白な陶器が、雨に洗われるように──
それは、ひとりの使徒と、ひとりの天使にまつわる記憶だった。
使徒も天使も、まったく同じ名前で──セラムと呼ばれている。
その理由は、少々複雑だ。実際のところ、佳槻以外だれひとり事情を知らない。すべてを知っているのは、彼だけだ。きっと、これから先も同じだろう。
その事実に対して、佳槻は特に何の感傷もない。ただ、あまり愉快な記憶ではないと感じるだけだ。
雨の冷たさは、さらに深い記憶をも洗い出す。
それは、彼自身が覚醒したときの記憶だ。
『人間牧場』から医療機関に売り飛ばされ、処分される寸前でアウルに目覚めたとき。
あのとき感じたのは、とまどいや恐れではなく、むしろ暗い解放感だった。自分を監禁していた強力な支配者を、まるきり無価値な自分が一方的に破壊してゆくのは、頭が空っぽになるほどの快感で──そのまま、空っぽの人間として捕縛されたあとも……現在に至るまで静かに続いているように感じられる。
とてもクリアで、心地良い記憶だ。
その記憶をたどることも、たどることに対する思いも、この雨の中では全てが既視感として感じられる。
もしかすると、少女が自ら命を断つ瞬間さえ、そう見えるのかもしれない。
どこか狂った、冷たい既視感。
● Junk
「アウルに目覚めたとき、か……」
Sadik Adnan(
jb4005)もまた、佳槻と同じように過去の記憶を思い出そうとしていた。
が、いくら記憶を掘り返しても、さがしものは見つからない。Sadikにとって、それは大したできごとではなかったのだ。気がつけばいつのまにかアウルを使えるようになっていたし、いつのまにか久遠ヶ原にいた。
放任主義のはぐれ悪魔に育てられたSadikの幼少期は毎日がサバイバルであり、生き抜くだけで精一杯だった。生きるためなら何でも利用したし、死を避けるためなら自らの命をも賭けた。一見矛盾した行為だが、とにかく生ぬるいことを言ってられるような生活環境ではなかったのだ。覚醒者になったのも、そんな環境が導いた当然の結果かもしれない。
おかげで、Sadikは全身傷だらけだ。
それらの傷のひとつひとつが、彼女の肉体と精神を磨き上げた。傷痕こそ、Sadikの生きてきた証だ。
不器用きわまる生きかただが、それでもこうして生きている。
Sadikにとって、なにより恐ろしいのは『死』だ。
無論だれもが本能的に死を恐れるものだが、彼女の場合リアルな『死』に多く直面しているためか、人一倍『死』を恐れているところがある。
思い出されるのは、幼いころの記憶だ。
食料とされるために狩られた獣
病や寿命で死んだ獣
餓えと病に沈んだ村の、そこかしこに転がった人間
それらにたかる、ハエやウジ……
あんな風にはなりたくない、とSadikは強く思う。
そのために──生きるために、彼女は今日も戦う。
死んでゴミクズみたいになってしまわないように。
● Kickoff
暗い雨の下で、水族館は煌々と照明を放っていた。
警備態勢を敷く警官の間を抜けて、撃退士たちは館内へと踏み込む。
「やけに静かねェ……」
水槽の前を早足気味に歩きながら、シグネ=リンドベリ(
jb8023)は周囲を見回した。
薄暗い館内に客の姿はなく、壁一面を使った巨大水槽には無数の魚が泳いでいる。
「このフロアには被害がないみたいだね。例の子は地下から動いてないのかな」
友人の瀬戸入亜(
jb8232)が、問い返すように応じた。
「うぅん……このぶんですと、思ったより被害は小さいようですねぇ……」
いつになく真剣な顔で言うのは、月乃宮恋音(
jb1221)
戦闘より事務作業が好きな彼女は、こういうとき誰よりも先に被害状況を確認してしまう。非戦闘員たる恋音の、職業病のようなものだ。
「ともあれ急ぎましょう。できるだけ被害をおさえないと……」
恋音と同じく戦闘が苦手な間下慈(
jb2391)だが、彼もまたひどく真剣だった。
依頼書に記されていた陶子の事情を見て、ほうってはおけないと強く感じたのである。なんとしても説得し、自殺など許しはしない。そう心に決めている。
「止まってるエスカレーターを駆け下りるのって、なんだか違和感ありますよねー」
ドスドスと巨体を揺らして走るミーノ・T・ロース(
jb6191)は、いつもどおり緊張感ゼロだった。
一見おちゃらけているようにも見えるが、無論そんなことはない。依頼書はしっかり読み込み、陶子の状況も把握している。説得の手段も、いくつか考えてはある。通じるか否かは別として。
● Longing
地下二階に辿りついたとき、彼らを迎えたのはムッとする海水の匂いだった。
いくつかの水槽が割れて、床は水浸しになっている。水没を心配するほどではない。このフロアに展示されている水槽はいずれも小さく、すべてが割られたところで足首ぐらいまでの水位にしかならないだろう。
そのフロアの片隅で、血まみれの少女がうつむいていた。
──否、血ではない。赤い液状のアウルが、全身を染め上げているのだ。
目をそむけたくなる姿だが、無論その程度で怯む者はいない。
「あなたたち、撃退士……? 私を殺しに来たの……?」
血走った目を向けながら、陶子はボソリと問いかけた。
「なにバカなこと言ってんだ? こんなところで何やってんだよ、おまえ」
大声で応えたのは、Sadikだ。
その姿を見たとたん、陶子の表情が一変した。
「あなた、あのときの……?」
「おぼえてたのか。そりゃよかった。さぁ、こっちに来い。自殺なんかさせねぇぞ」
「よけいなお世話……。私はここで死ぬって決めたの。でも、あなたが来たなら……」
陶子の声が震えた。
同時に、血のようなアウルがドス黒く変色する。
「待て。まさか、あの男の仇討ちなど考えているわけではなかろうな?」
ただごとでない空気を読み取って、佳槻が前に出た。
『あの男』とは、九ヶ月前に佳槻とSadikが討ち取った使徒のことだ。
「仇討ち……? 私はそんなに馬鹿じゃない。セラムでも勝てなかったのに、私が勝てるわけないでしょ。それぐらいわかる」
「ならば、おとなしく投降してくれるな?」
「冗談じゃない……私はもう死ぬって決めたの」
「おまえは動転してるんだ。冷静になって、考えなおせ」
「うるさい……うるさい! 考えて考えて考え抜いた結論が、これなの! さぁいますぐ私を殺して! それが撃退士の仕事でしょ!? もう、一秒だってこんな世界にいたくない! さっさと私の心臓を止めて!」
言うや否や、陶子は真っ赤なアウルを投げつけた。
かわせば水槽に当たる。佳槻は防御も何もせず、そのままアウルを受けた。
ビシャッという音がして、血のような液体が胸板に広がる。ダメージは大したものでもないが、見た目はひどい。
「こんなことをしても無駄だ。いまのおまえには、殺すほどの価値もない」
あえて煽るような言葉を、佳槻は投げかけた。攻撃を自分に集中させれば周囲の被害が減るだろうという狙いだ。何度か攻撃させれば、すぐにアウルも尽きるはず。
しかし、佳槻の考えには誤算があった。
無理もない。依頼書には書かれてなかったことなのだから。
「私には生きてる価値がないの! この体は、もう腐りきってるんだから!」
陶子は上着の内ポケットからピルケースを取り出すと、錠剤をまとめて飲みこんだ。
強烈な覚醒作用を持つケミカルドラッグだ。一般人なら確実に致死量を超えている。当然、死ぬつもりで飲んだのだ。
「いま、なにを飲んだ……?」
佳槻の顔色が変わった。
撃退士は薬物に対して強力な耐性を持つが、覚醒したばかりの素人が大量の薬物を口にした場合どうなるかはわからない。
「なんだっていいでしょ! 死にたいって言ってるんだから、さっさと殺してよ! それがあなたたちの仕事でしょ! 人殺しは人殺しらしく、仕事してよ!」
陶子の手から赤黒い塊が投げ飛ばされて、佳槻の頭に命中した。
まるで致命傷でも受けたように、血液状のものがドロリと佳槻の顔を染める。まったく損な役回りを引き受けたものだが、すくなくとも施設に被害を与えないという目的は達している。
● Menophobia
「目覚めたばっかりのアウルで混乱してるのよねェ? まずは落ち着いてェ……?」
小難しい問答は無用とばかりに、シグネが陶子に抱きついた。
ともかく密着して、人肌の感触で安心させようという狙いだ。
「あァああああッ! 離して! 離してよぉぉっ!」
シグネの狙いと正反対に、陶子は獣じみた勢いで暴れだした。
無論、シグネは離さない。暴れる陶子を強引に抱きすくめながら、背中を軽く叩いて言う。
「撃退士は嫌いなんだっけェ? さわられるのもイヤかしらァ……? ごめんねェ……? でも、撃退士ってだけでひとくくりにされるのは、ちょっと悲しいわァ……」
「離して! 気色悪い! 私にさわらないでよ! 撃退士とか関係ないから! 離してってば!」
陶子は手当たり次第にシグネの背中や脇腹を殴りつけたが、どれだけ殴ったところでダメージにはならなかった。
「ダメダメ、離さないわよォ。あなた……陶子だっけ? その力をちゃんと使えるようになるまで、アタシがあなたの居場所になって守ってあげるわァ。一人前になるまで、勝手にアタシのお友達認定よォ……?」
シグネは優しく語りかけた。
彼女の推理では、陶子は本気で死にたがってなどいない。自殺未遂を二回も起こしているなら、確実に死ねる手段を選ばなかったということだ。つまり、自殺をほのめかして周囲の誰かに構ってほしいのだろう。甘やかしてくれる居場所がほしいだけの構ってちゃんに違いない。シグネは、そう考えていた。
が、これも誤算だった。陶子は本気で『死』を望んでいる。死ねなかったのは、悪運が強かっただけだ。恋音が即座にシンパシーを使って情報を伝達しておけば、こういう勘違いは起きなかったのだが──
過ぎてしまったことは仕方ない。選ばれなかった選択肢によって、未来は作られる。
「友達なんていらない! しかも撃退士の友達なんて! いいから私を殺してよ! それが無理なら、あなたたち全員死んでよぉぉ!」
シグネに抱きしめられたまま、陶子は狂ったように泣き叫んだ。
実際、彼女は狂っているのだ。毎月毎月、血を見るごとに少しずつ狂気を蓄積させて、家族を失ったことで蓄積は速度を増し──セラムを目の前で殺された瞬間、陶子の心は砕けていたのだ。アウルの覚醒は、とっくに壊れていた陶子の精神をもういちど念入りに破壊しただけに過ぎない。だれもが納得できる幸せな結末など、最初から用意されてなかったのだ。
● Navigator
それでも、撃退士たちは諦めない。
陶子を救うことが『正解』なのだと信じて、説得を続ける。
「聞いてください、陶子さん」
どうにかシグネを突き放そうとする陶子の後ろから、慈が話しかけた。
「話なんて聞きたくない! 早く殺してよ! できないなら、この女を殺して! そのあと、あなたも死んで!」
「それはできません。命は大切にしてください。見たところあなたは撃退士になってしまった自分を受け入れられないようですが、よく知られているとおりアウルの適正を持つ者は決して多くありません。今日ここであなたが覚醒したのも、なんらかの理由や意味があると思いませんか?」
「そんなこと、どうでもいい! なんで殺してくれないの!?」
「死ぬことは、いつでもできます。いまは少しだけ、僕の話に付き合ってください。……いいですか? アウルは自力で目覚めるのが大半ですが、だれかの遺志を受け継ぐことで目覚める場合もあるんです。実際、僕はそうでした。僕の姉さんは撃退士として悪魔と戦ったすえ相討ちになって死んじゃったんですけど、僕がアウルを自覚したのと姉さんが死んだ時刻がほぼ同じだったんです。偶然と言えばそれまでですが、僕のアウルには姉さんの遺志が含まれている……そう思うんです。同じように、あなたのアウルにもご両親や……あるいはあなたにとって大切な方の遺志が受け継がれているかもしれませんよ?」
「そ、そんなことって……!?」
だれの説得にも耳を貸さなかった陶子が、この話にだけは食いついた。
手ごたえアリと見て、慈は続ける。
「ええ。もっとも、その遺志が『仇をとってくれ』なのか、『幸せに生きろ』なのかは、わかりません。でも、その力で自分の命を絶つなんて、遺志を残して死んだ方たちに対する冒涜に他なりませんよ。アウルの力は、そんな使いかたをするモノじゃありません。ただしい使い方を学んで強くなれば、たいせつな人の仇を討つことも、名声を得て幸せになることもできます。どうですか、死ぬ前に一度でも久遠ヶ原に来てみませんか? 学費も無料ですし、まわりは全部海ですから眺めは抜群ですよ。僕たちと一緒に、撃退士として研鑽を積みませんか?」
● Obsession
慈の言葉は、ゆっくりと陶子の心に染み込んでいった。
自殺を思いとどまらせることが『正解』なのだとすれば、これ以上ない説得だ。
「あなたの言うことが本当なら……私はセラムの遺志を継ぐために、この力を手に入れたんだね」
陶子は疑いもせず、慈の説を信じきった。
無論、アウルが故人の遺志を受け継ぐなどというのは妄想に過ぎない。が、そういう思い込みによって発揮される力もある。陶子の場合、それが顕著だった。というより、その妄想だけが彼女を生につなぎとめることに成功した。
実際のところ、陶子にとって慈は命の恩人だろう。日ごろは自分自身を凡人と卑下している慈だが、今日この瞬間だけは英雄そのものと言って良かった。
その状況を見た雅人が、ここぞとばかりに後押しする。
「そうですよ! あなたが本当に使徒を愛していたのなら、彼の遺志を継いで人間を憎んだっていいんです! 無理をして人間の味方になる必要などありません! いっそ撃退士になって撃退士と戦っちゃうのもアリ! 私は恋人を守るためなら人間だって駆逐しますよ!」
「本当に……?」
狂気の光を帯びていた陶子の瞳から、スゥッと輝きが失せていった。
まるで正気を取りもどしたように見えるが、そうではない。新たに芽生えた狂気が、古い狂気を塗りつぶしただけのことだ。彼女が正気を取りもどすことは、もはやない。その機会は永遠に失われたのだ。
そうと知らないまま、撃退士たちは自分たちの思い描く理想的な『正解』に向かって、陶子を突き動かす。
「もちろん、本当です! 私は西に困っている天使がいれば助けに行きますし、東に寂しがっている悪魔がいれば友達になりに行きますよ! あなたも、自分の思うとおりに行動すればいいんです! ただし、望みをかなえるためにはもっともっと強くならなくちゃいけません! というわけで、もし良かったら私たちと一緒に久遠ヶ原で学びませんか?」
「私が強くなったら、あなたたちを殺すよ? いいの?」
「ええ! いつでもどこでも、受けて立ちますよ!」
気楽に受けて立つ雅人。
この瞬間、彼の名は陶子の殺害予定リストに載せられた。
言うまでもないことだが、佳槻とSadikの名前は一番に書き込まれている。
● Purpose
陶子がおとなしくなったのを見て、佳槻は光纏を解いた。
「そういう結論を出したのなら、もう僕から言うことは何もない。憎悪は時として、生きる力になる。復讐は、生きる目的になる。生きてさえいれば、未来に希望をつなぐことができる……」
当然、自分が真っ先に復讐の対象になるであろうことは承知済みだ。それはそれで、ある種の高揚感さえ覚える。復讐のターゲットにされるということは、すなわち自分が必要とされていることを意味するのだから。──そう、佳槻もまた心の一部に狂気を抱えているのだ。
「そうそう。どうしたって、撃退士への恨みは消えないんでしょォ? だったら、本当に撃退士を殺せば気が済むのか、アタシの命で試せばいいわよォ……そのときはおとなしく殺されてあげるからァ。陶子の大嫌いな撃退士を、ひとり殺せるんだしィ……悪い話じゃないでしょォ……?」
シグネもまた、自らを復讐の対象とさせることをためらわなかった。
口先だけでなく、本当に殺しに来たら殺されてあげてもいいとさえ思っている。
もっとも、殺すことができるほど強くなれればの話だが。
いずれにせよ、この場の八人はもちろんのこと、世界中すべての撃退士が陶子の標的だ。復讐を遂げるためなら、彼女は何でもするだろう。余命が数日だと知ってなお撃退士を殺すことに明け暮れた使徒セラムと同じように。
● Question
「ちょっと待って」
と、入亜が口を出した。
「なによォ、せっかく話がまとまりかけてるのにィ……」
シグネが不満そうな顔になる。
それには取りあわず、入亜は陶子に問いかけた。
「これから先、あなたは死んだシュトラッサーの遺志を継いで、撃退士を殺すために生きていくの?」
「そうだよ。安心して。あなたも殺すリストに入ってるから」
「そんな生きかたは、とても誉められたもんじゃないね。……アウルに目覚めて撃退士になろうと、ただ使える力が増えただけ。あなたという存在の本質は、なにも変わってない。変わったのは、アウルの力を使う意思がどうあるかだけ。撃退士を殺すとか軽く言うけど、それって殺人犯になるっていう意味だからね? ちゃんとわかってるの?」
「わかってるし、セラムを殺したのは撃退士だよ? そっちこそ殺人鬼だよね?」
「そもそもシュトラッサーは人間じゃないけれど……まぁそれは置いといて。あなたにとっての撃退士がそういうものだとしても、あなたが同じような存在になる必要はないでしょ? セラムにせよ、殺された家族にせよ、あなたの想う大切な人たちはあなたの記憶の中にしか存在しない。あなたが死ねば、その存在は綺麗さっぱり消えてしまう。やみくもに力をふるったところで、さほど強くもない私にさえ勝てはしないっていうのに。……あなたは、たいせつな人たちが残した最後の欠片をむざむざ捨て去るつもりなの?」
「セラムが言ってた。『あらゆる生命は、死に向かって生きることしかできない』って。私は、いつ死んでも構わない。そのかわりに私は、あらゆる手を使って、死ぬ瞬間まで、徹底的に、撃退士を殺し続ける。それがセラムの遺志だから」
迷いなく断言する陶子は、もはや完全に狂信者と化していた。
これを生かしておくことが正解なのかと疑問に思いながら、入亜は最後の問いを投げかける。
「……その選択をするのが今のあなたで、本当にいいの? もう一度しっかり立って、正面から私たちを見て、きっちり振り返って、思い出をたしかめて……それから改めて、殴りあうか手を取りあうか、よく考えてから決めて?」
「ちゃんと考えて決めたよ?」
「……駄目か……」
苦い表情を浮かべて溜め息をつく以外、入亜にできることはなかった。
この依頼は、撃退士ではなく精神科医が担当すべき事案だったのかもしれない。
● Realization
「あの……私からも、ひとつだけ」
ずっと聞き役に徹していたミーノが、笑顔で語りだした。
「ご存知かもしれませんが、『盲目と象』という話があります。象を知らない数人の盲人に象をさわらせる話なんですが……。このとき、鼻に触れた人は蛇のような生き物をイメージしました。そして、牙に触れた人は槍のような武器を。耳に触れた人は団扇のようなものを。腹に触れた人は壺のようなものを。脚に触れた人は柱、尻尾に触れた人は縄と、それぞれまったく異なるものをイメージしたそうです」
だれもが黙って、その話を聞いていた。
教え子に諭す教師のような口ぶりで、ミーノは続ける。
「たしかに、あなたの知る撃退士の姿は真実です。けれど、それは象の耳や鼻と同じで全体のごく一部分に過ぎないんですよ。たった一部を見て全体を知った気にならず、しっかりと目を開けて全体を知ってから、どうするべきか決めませんか?」
「どう見たって、人殺しの集団でしょ? そのくせ、私を殺すこともできないなんて……」
「本当に撃退士があなたの考えるような集団なら、こうまでしてあなたを助けようとするはずがないではありませんか」
「仲間がほしいんでしょ? ようするに私を利用したいだけ」
「だれもそんなことは考えてません! 久遠ヶ原に来て、ひとりひとりの学生を見てください。良い人ばかりですから。あなたは、悪い思い込みに囚われすぎています」
「思い込みに囚われてるのは、そっちだよね。……もういいよ、こんな話。どうせあなたたちの目的は、私を殺すか捕まえることでしょ? さっさと捕まえてよ」
ひらきなおった口ぶりで言い放つと、陶子は両手を前に出した。
同時に全身を覆っていた真っ赤なアウルも霧消して、陶子はただ棒きれのように立っていた。
● Secretary
「……ともあれ、一件落着……ですねぇ……」
ほっとしたように、恋音が言った。
説得が失敗したときに備えて裏工作や下準備を整えていた彼女だが、ほぼ全てが空振りに終わってしまった形だ。
もっとも、それらの準備は『いざというとき』の対策であって、そんなものは出番がないほうが良いに決まっている。説得がうまくいって施設への被害も最小限で済んだのだから、なにも言うことはない。
「恋音さんが裏方に徹してくれたおかげで、私たちは思いどおりに動けましたよ。いつもありがとうございます! 感謝していますよ!」
雅人が恋音の手を両手で握り、頭を下げた。
いつも同じ依頼に参加している二人だが、改めてこんなことを言われるのは珍しい。思わず赤面して、恋音は首を横に振った。
「いえいえいえ……! 私は説得や戦闘が苦手ですのでぇ……裏方に回るほうがラクなんですよぉ……。けっして、お礼を言われるようなことではありませんん……!」
「そんな謙虚な恋音さんを、私は心の底から愛してますよ! フォーエバーラブ! とどけ、この愛!」
シリアスな空気をぶち壊すように雅人が言い、暗い水族館に笑い声が湧いた。
あまりのセリフに、陶子さえ苦笑したほどだ。
こうして、今回の依頼は滞りなく終了した。
未来に禍根を残しながら。
† Touko
撃退士に囲まれて水族館を出ると、雨は雪に変わっていた。
道理で寒いはずだ。私は全身びしょぬれで、風が吹くたび体が震える。
「よければ、これをどうぞ」
頭に寝癖のついた撃退士が、黒いコートを私の肩にかけた。
セラムの遺志が私を覚醒させたのだと気付かせてくれた男だ。
「ありがとう。あなたに『だけ』は、感謝してる」
「そう言われると、ちょっと照れますねぇ」
男は恥ずかしそうに頭を掻いた。
寝癖がよけいにひどくなる。
見たところ、私と同じぐらいの歳だ。
「ねぇ、名前を教えて」
「僕は間下慈。マーシーと呼んでください」
「マーシーね。覚えたよ」
この名前は忘れないようにしよう。ほかの名前は、どうでもいい。
それにしても、寒さのせいか頭が痛い。……いや、クスリのせいだろうか。死ぬつもりで飲んだのだから、無理もないけれど。
「ねぇ。私はこれから、どうなるの? 刑務所行き?」
頭痛をこらえながら、私は問いかけた。
マーシーと名乗った男は、答えを知らないのか「うーん」などと首をひねっている。あまり頼りにならないタイプかもしれない。
「……おそらくですけれどぉ……久遠ヶ原に引き取られて、検査入院という形になるのではないかと思いますよぉ……」
やたらと胸の大きい女が、自信なさげに言った。
もっとも、いくら大きいと言ったところで、牛の角みたいなのを生やした天魔の女には及ばない。
「久遠ヶ原に……? それで私は、無理やり撃退士にさせられるんだね」
「あのぉ……そこは勘違いされている部分だと思うのですけれどぉ……アウルに目覚めたからといって、必ずしも撃退士にならなければいけないわけではないのですよぉ……」
「え。そうなの?」
「はい……。アウルが使えても天魔と戦わない道を選ぶ人は、少なからず存在しますし……。私自身も、戦闘は極力避けたいほうですぅ……」
「じゃあ、私は撃退士にならなくてもいいの?」
「そうですねぇ……。こういう事件を起こした以上、いったんは久遠ヶ原に入れられることになるでしょうけれどぉ……本人が拒否すれば、久遠ヶ原を去って普通の生活を送ることは可能ですよぉ……」
「知らなかった……。私は、あなたたちと同じ撃退士になったわけじゃなかったってこと?」
「ええ、はい……。陶子さんは単に『アウルを使えるようになった』だけの状態ですねぇ……。そもそも、資格を取らなければ撃退士とは名乗れませんし……」
「そうか……そうだったんだ……」
全身から力が抜けるほど、私はほっとした。
私は撃退士になどなってなかった。
この力はセラムと同じもので……つまり、天界の力だ。冥魔と人類を滅ぼすための力だ。
助かった。私はまだ、すこしだけ生きていける。
「でも、アウルを使うなら久遠ヶ原にいたほうがいいと思うよ?」
ひょろりとした黒髪の女が、当然のように言いだした。
「どうして?」
「だって、久遠ヶ原以上の施設なんて存在しないから。私もアウルに目覚めて何となく誘われるまま入学しちゃったけど、毎日たのしいし、後悔してないよ」
「でも私は、撃退士になんかなりたくないの」
「わかってる。だれも強制はしないよ。どうせ今日はこのまま久遠ヶ原に連れていくことになるし、実際に学園を見てから考えれば?」
「……」
たしかに、言うとおりだ。
久遠ヶ原といえば、撃退士の本拠地。敵のことを知っておいて、損はない。
「そうよォ。久遠ヶ原いいとこ、一度はおいでってね♪ そしたら、アタシが友達になってあげるしィ」
さっき抱きついてきた女が、そう言って笑った。
妙に馴れ馴れしい。そもそも私は、女という生物が大嫌いなのに。
ああ、思い出しただけでも鳥肌が立つ。
よし、決めた。この女は真っ先に殺そう。
「よければ、私も友達になりますよー」
無駄に大きい天魔の女が、胡散臭い笑顔を浮かべた。
理由がわからないけれど、どうやら友達になることが親切だとでも思ってるらしい。
私に、そんなものは必要ない。そもそも人間は嫌いだし、女は更に嫌いだ。この牛みたいな女は、たぶん冥魔だろう。人間より、もっと悪い。この女も、早めに殺す必要がありそうだ。
「そうそう。久遠ヶ原はいいぜ。すべてが恵まれてる。おまえも来いよ」
召喚士の少女が、臆面もなく言った。
どうせ忘れてるのだろうけれど、私は覚えている。セラムが嬲り殺しにされた原因のひとつは、この女が操っていた召喚獣だということを。きっと撃退士にとっては、殺した天魔のことなんてどうでもいいのだろう。
当然、この女も殺害予定リスト入りだ。
「僕は、みんなのように強くは誘わない。ただ、もしも海が好きなら……久遠ヶ原は落ち着く場所として悪くない」
セラムを嬲り殺しにした撃退士の一人が、気取った声で言った。
たしかに、まわりを海で囲まれているというのは良い。
ただ……私は生まれて一度も海を見たことがない。水族館という、作りものの海しか知らない。はじめて目にする海は、どういうものだろう。私の思い描くとおりなのか、それとも──
「……さぁ、行きましょう」
寝癖頭の男──マーシーが、私の肩に触れた。わずかに温度を感じる。
見れば、暗い夜の中。濡れた街並みのところどころに、雪が積もり始めていた。
このまま降れば、朝には一面の銀世界が広がることだろう。
その景色を思い浮かべると、すこしだけ心が澄んだような気分になれる。
歩きだす前に、私は一度だけ振り返った。
雪の向こうで、水族館は静かな光を放っている。
今日、あの中で、私は生まれた。
ガラス一枚を隔てた羊水の中で。