●陰謀の進行
関東地方北西部。強大な支配者アバドンの側近たるその悪魔は、本拠地である三十三階建てのビルを離れ、かつてO市と呼ばれていた地に来ていた。あくの強い悪魔が多い中、この地を任せた部下は側近に対して従順だ。
「栃木のA市とやらへの侵攻準備は順調か?」
「もちろんでございます」
部下である、蝉の頭部に人の体格を持つ悪魔は恭しくも自信満々に応じる。
「市内に放った蝉型ディアボロはすでに三百体。量産体制も整っております」
「それは頼もしい」
「視覚および聴覚で人間どもの『労働』を素早く察知、近くに位置して入念に監視し、県境を越えてそれがしの配下に情報を集約。その者どもが適切な『指摘』を送信すると、大音量でがなりたて、当の人間および周囲に絶大なストレスを与えます」
「ふむ、こちらの指示をことごとく満たしているな。なかなかよいディアボロを作る」
「もったいないお言葉!」
頭部が蝉ゆえ表情は定かでないが、声音と身振りからこの悪魔が舞い上がっているのは誰の目にも明らかだ。普段は自ら動かないアバドンの名代として、このエリアを実質的に差配している側近。この側近からの覚えがめでたくなれば、出世も見込める。
「撃退士は侮りがたい存在となりつつある。しかし、人間社会全体の中ではほんの一部。ならば残る大部分を動揺させ、いがみ合わせれば、生活の基盤など簡単に崩壊する。攻略も容易になるというものよ」
「仰せの通りでございます!」
「だが、いくつか気になる点が‥‥」
側近が口を開いたその時、蝉の悪魔の使い魔が、とある事態の報告にやって来た。
●風変わりな『仕事』
午前八時五十八分。夏の熱気はまだまだ強烈で、九十九 癒姫(
ja9119)は額ににじむ汗をぬぐう。
「初依頼‥‥足を引っ張らないようにしないと」
実戦初経験の少女は自分に言い聞かせるが、目の前の光景は、その意気込みをいささか裏切っていた。
蝉がとまるのにうってつけの木々が生い茂る林の中の、やや開けた一角。
その片隅に置かれた粗末な机には『土地調査』と書かれた札が立てかけられ、鬼(
ja4371)が栃木県の観光カタログ各種をのんべんだらりと読んでいる。
「栃木と言えばトチオトメ、温泉饅頭、黒ビール、後はかんぴょうか」
別の一角では、澤口 凪(
ja3398)がカメラを弄り、御守 陸(
ja6074)が木に登ってレフ板を構え、御国・雪村(
ja4672)が適当にポーズを取っている。その近くには『グラビア撮影』と書かれた看板。
A市全域で労働者に嫌がらせをする蝉型ディアボロの群れ。それを一ヶ所におびき寄せるため、この土曜日、市内のすべての仕事を休業してもらい、ここでのみ『仕事』を開始、彼ら囮役に惹かれて集まったところで殲滅という段取りはもちろん理解しているが‥‥。
「九十九さん、初めてでしたっけ?」
青いバンダナが印象的な御伽 燦華(
ja9773)が癒姫に明るく声をかけてきた。
「緊張するとは思いますけど、簡単な依頼のはずですし、練習の延長くらいに考えてリラックスした方がいいですよ」
私もまだ二度目なんですけどね、と笑いながら、自身の体にスプレーをかける。
「それは?」
「虫除けスプレーです。九十九さんもどうぞ」
かけてもらうと、独特の匂いが癒姫を包んだ。
「便利なものがあるのですね。家では蚊取り線香と蚊帳が基本でしたので」
「それはそれで風情がありますね」
燦華はごく普通の家庭の出だが、撃退士には古風な家庭で育つ者も多い。
「それにしても‥‥」
癒姫は『グラビア撮影』の看板を見て、眉をひそめる。
「架空の仕事とは言え、あのようなことをしてしまってよいのでしょうか?」
「え?」
燦華は癒姫の視線とさっき垣間見た彼女の育ちから、推測を働かせてつっこんだ。
「グラビア撮影って、別にいかがわしいものじゃないですよ?」
「‥‥え、違うんですか?」
うろたえる癒姫の姿は可愛らしく、燦華は思わず微笑んだ。
「そろそろ来ますよ」
周りをよく見渡せる木に陣取った陸は、地上で楽しげにしている癒姫と燦華に声をかけた。緊張でガチガチになってるよりはいいが、たるんでいても当然よくない。
「そういう意味では、やっぱりサボりはよくないですけど‥‥ディアボロとあっては放っておけないですしね」
小さく呟き、囮を務める三人にも声をかける。
「準備できたらすぐ連絡するから‥‥それまで、何とか堪えてね」
打ち合わせ通り耳栓をはめた時、蝉の第一陣が飛来してきた。
「シャッターチャンスヲノガシテル」
「アングルガワルイ」
耳栓をしても大音声をシャットアウトするには至らない。凪の耳にさっそく蝉の指摘が刺さる。しばらくしたら適当にサボってみるつもりでいたが、そんな必要はなさそうだ。
「‥‥これは、うるさいねえ」
間違ってはいない。確かにこれまで十数分間の撮影中に犯したミスではある。
けれど横でいつまでも蒸し返されると、それだけで集中力ややる気が削がれていく。蝉の、非人間的で騒音じみた大声で言われるとなおさらだ。囮として仮初めの仕事をしてる自分でもこれなのだから、まじめに本業に取り組んでいる時にこんなことを言われた人たちはどう感じたことか。
そんなことを考える傍らで、モデルを申し出た雪村と自分の体形を比較する余裕もある。
「‥‥御国さんって学年同じだったっけ」
なのにこの格差は果たして何なのか。世の不条理に悩みつつシャッターを切り、凪はまた蝉にミスを指摘された。
「チャントポーズヲトッテナイ」
「何とも傍迷惑なディアボロですね。さっさと駆除しましょうか」
レンズに向ける笑顔はまったく崩さず、雪村はぼそりと呟く。
だが、樹上の陸からの合図はまだない。蝉はなおも集まり続けているらしい。
「着替えます」
事前に決めておいたハンドサインを示し、手近な木の裏側へ。
私服をいくつか持って来たが、暑さが不快すぎて水着に着替えることにした。
雪村は洋服と下着を脱ぎ捨て、水着を手に取る。
「御国さん!! 大事なところは隠してください!!」
隠れていた燦華が慌てたようにやって来て、耳栓を突き抜ける声量で叫ぶ。雪村は首を傾げた。
「どうしました?」
「どうしましたじゃなくて! 男子もいるんですから!!」
「でも鬼さんは気にしてないようですし、御守さんは目を逸らしてくれてますが」
「そういう話じゃなくて!!!」
「楽しそうだな‥‥」
胸をさらけ出して平然としている雪村と、彼女を隠そうとする燦華、呆れたように眺めている癒姫と、カメラを手にこちらも呆然としている凪を見ながら、鬼は言う。
土地調査と称してこんな林の中でカタログを読む鬼には蝉が寄って来ない。どこからつっこむべきか迷っているのか。悪口叱責の類には慣れているので、むしろ自分の方へ来ればという気持ちもあったのだが。
「温泉饅頭こんなにあるのか‥‥帰りに土産買わないとな」
●蝉取りの時間
「ヒカリノアテカタガマズイ」
「ヨソミシテバカリ」
レフ板を構えつつディアボロを観察していた陸も、蝉の指摘の犠牲になっていた。最初は徹底的に無視していたが、瞬きした直後に「メヲツブッタ」と言われ、目が据わる。
「前言撤回‥‥こんなの、例え天魔じゃなくても滅ぼさなくちゃ駄目だ」
空を見る。もう、この林に向かってくるものはない。
マナーモードにした各人の携帯に、メールを一斉送信。それが駆除の始まりとなった。
「これだけ大きいと‥‥ものすごく気持ち悪いですね」
隣にいた癒姫に燦華が話しかける。
木の幹にとまっている蝉は体長三十センチ。大きすぎて、遠近感が狂わされる。
「とにかく倒しましょう」
スリングショットを準備していた癒姫がスムーズに戦闘を開始する。蝉の騒音と先ほどの水着騒動で、緊張はすっかり消えていた。
「注意のし過ぎは迷惑行為と同じですよ」
目につく蝉に片っ端からアウルの光弾を叩き込んでいく。蝉は簡単に打ち砕かれる。
「兄さんの見よう見まねだけど‥‥当たるかな?」
P37で遠距離攻撃を仕掛ける燦華も次々蝉を落としていく。
と、一発外してしまい、よけられてしまった。
「ヘタクソ」
「ヘタクソ」
「ヘタクソナ、バンダナオンナ」
身を潜めている間は遊んでいるとでも判断されたのか口撃を受けなかった燦華だが、ここでいきなり集中砲火。討伐は確かに『仕事』だ。
「今‥‥なんて言いましたか?」
怒りで燦華のバンダナが赤く染まる。火炎放射器を出して焼き払おうとして、部屋に忘れてしまっていたと気づいた。
「悔しいっ!」
それまで以上の速さと正確さで蝉を立て続けに仕留める。ひとしきり落ち着いたところで、バンダナの色は青に戻る。
「マタハズシタ、ヘタクソ」
「うぐぐ‥‥」
でも最後の一発を外し、また指摘を受けるのだった。
そろそろいいか、と鬼も立ち上がる。
「蝉取りか、懐かしいなぁ‥‥ガキん時よくやったわ‥‥」
斧を構え、木に近寄る。長身の鬼にとっては大半の蝉が射程内だ。
「よっ、と」
木を傷つけないように倒せる最低限度の力で、蝉を潰す。時には一ヶ所に群がるのを十数匹まとめて。
「鬼様、お上手ですね」
いつの間にか近くにいた癒姫が、感嘆したように言う。彼女もハルパーを構えて近場にまとまる蝉を刈ろうとしていたが、微妙にうまくいってなかった。逃げようとするものは木の上から陸が正確に撃ち落とすので問題はないが。
「蝉ってのはな、鳴いてる時が一番取りやすいんだ。取りにくいならそれを試してみろ」
「こ、こうでしょうか?」
それまで鳴かない蝉を狙っていた癒姫が標的を変える。喚いていた蝉たちが、一太刀で根こそぎにされた。
コツを掴んだのか、蝉をどんどんハルパーで薙ぎ払っていく癒姫がぽつりと言う。
「これ、意外と楽しいかもです」
鬼は少しだけ震えた。
「うわ、いっぱいいると流石に気持ち悪いや」
カメラとともに片手に銃を持ち、殲滅の手伝いに入ろうとした凪は、改めて見た周囲の有り様に若干うろたえる。
山遊びはしょっちゅうだったため虫は苦手ではないものの、この数の多さは尋常ではない。
もっとも、それで腕が鈍るわけもない。地上近くは癒姫と鬼に任せ、高いところにとまっている蝉をひたすらに撃つ。少しばかり外しても隣の蝉に当たりそうなくらい、その数はまだまだ多い。
「それにしても暑いですね」
五人が蝉を倒している間に、雪村はハイレグ水着に着替えていた。囮役としての任務を全うするためであり、合間合間には巻物を使って撃墜にも参加している。
しかしその行為は、周囲の微妙な感情を喚起するもので。
「どうしてかな、何だかアウルの威力が上がっていくような」
凪はカメラを地面に置くと、何かから逃避するように蝉への攻撃に意識を集中し。
「ムネノウスイバンダナオンナハマタミスシタ」
「やかましいっ!!」
雪村を羨望のまなざしで見つめていた燦華は、八つ当たりのようにアウルの銃弾を蝉どもへ撒き散らした。
「九十九先輩、右後ろに二匹います」
「はい!」
騒音の中、無限にも思える蝉の群れをひたすら倒し続ける。困難ではないが苦痛を伴う単調作業も、ついに終わりが見えてきた。陸の指示が地上へ普通に通るくらいには蝉の数は減っている。
「すみません外しちゃいました!」
「大丈夫です」
燦華が捉え損ねた蝉を、素早く撃ち抜く。
機械的にディアボロを処理しつつ、色々な人がいるものだと陸は心の片隅で考えた。
討伐の最中に弁当を食べようとして討伐対象の蝉に咎められたりと、にぎやかな燦華。
周囲との関係も戦闘も、マイペースにこなす鬼。
小さくて元気で真面目な凪。
時折こちらの想像を絶する行動に出る雪村。
そんなてんでばらばらな撃退士たちが、天魔討伐という一点では気持ちを一つにして働き続け。
ついに蝉は最後の一匹となった。
「やり過ぎでした。せいぜい反省してください」
初陣の癒姫が、すでに手慣れた手つきでスリングショットを構え、発射。
周囲を沈黙が満たした。
●陰謀の頓挫
O市のとある一室では、報告を聞いた直後から重い沈黙が支配していた。
「三百体が全滅というのは、なかなか気前のいい話だな。しかも撃退士は初陣も含めてわずか六人。ここはおまえを責めるべきなのか、撃退士に恐れおののくべきか、どちらであろうな?」
「‥‥‥‥前者でございましょう」
ついに口を開いた側近に、蝉の悪魔はガクガク震えながら蚊の鳴くような声で答えた。
「生産性を高めた状態で、感覚器官、通信機能、発声器官にほぼすべてをつぎ込みました代わり、機動性、防御力、生命力は限りなく低くなっており‥‥撃退士に本気で狙われてはどうしようもなく‥‥」
「戦闘力は? あるいは一ヶ所に集められることを危ぶむ思考力や、周囲の蝉が倒されて逃げるような自立性は?」
「そのような能力は、最初から‥‥」
「ふむ、私の過大な要求に応じるために、あれこれ犠牲にしていたというわけか」
「恐れながら‥‥」
蝉の悪魔は床にひれ伏した。
「ならば、現状の有用な能力を維持したまま、撃退士どもを圧倒できる能力を付与する場合、何体ほど作れる?」
「あの蝉三万体ほどの原料があれば、一体ほどは作れますかと‥‥」
「話にならんな。安請け合いする無能は、無能を弁える無能に劣る」
側近は、蝉の悪魔を踏みにじり冷酷に告げた。
「降格の上、前線への出撃を申し渡す。撃退士どもを屠れれば、地位を戻せるかもしれんぞ」
●西の空には
念のために周囲を調べたが、蝉が隠れている様子はない。一同は安堵の息をついた。
「こういうやり方って、下手に武力で来られるよりも厄介かもね」
雪村が独りごちると、燦華が応じた。
「確かに、なかなか高度な情報戦でしたが‥‥何がしたかったのでしょう」
それは凪も同感だった。
「やろうとしたことはともかく、こんな弱いディアボロじゃ意味がないよね? 私たちがすぐやっつけちゃうし」
「もっともっと大量に送り込むつもりなのか、このデータを元に改良するつもりなのか‥‥よくわからないね」
陸は西の空を眺める。栃木県の西、そこはいつも暗雲が垂れ込めている。
‥‥あそこは以前、何と呼ばれていただろう?
不意に陸は疑問を覚えた。有史以前から悪魔が支配していたわけでもない限り、そこにもかつて人は住んでいて土地の名前があったはず。
だがその疑問は、疑問そのものが、目覚めた直後の夢の記憶のようにはかなく消え失せていった。
「まだ日も高いですし、せっかくなので自然の風景を楽しく見ていきませんか?」
癒姫の提案に逆らうものはない。
「仕事して、蝉とって、少し観光‥‥栃木は良いところだな」
鬼の台詞に一同は笑う。
「帰りには旭興も買うか」
「旭興は県北の銘酒ですから、県南ではなかなか手に入らないですよ?」
「なんでそんなこと知ってんだ?!」
癒姫の言葉に鬼が珍しく驚きを見せ、一同はまた笑う。
夏の空は、青く晴れ上がっていた。