●午後二時五十分
少女は寮の自室に帰り着いた。
長い棒状の袋を玄関近くに立て掛ける。アウルに目覚める以前から習っていたマイナーな武術で、これも昔からの愛用品。
スポーツバッグの中には、いつも通り汗まみれのトレーニングウェアと、帰りに受け取った薬の小壜。
まあ、それらは少し後回しでいい。今はおやつのことだけ考えよう。
こちらも帰り道で買った、ケーキの小さい箱。開けてみれば、手ごろな大きさのケーキがちょこんと鎮座していて、実においしそう。
少女は手洗いやうがいを済ませると、おやつの準備を始めた。
●午後二時五十五分〜三時
「誰しもミスをしてしまうものですが、もし間に合わなかったことを考えると‥‥」
弓道部へ出発した会長から渡された、養護教諭の委任状のコピー。それを人数分再コピーして全員に配りつつ、苧環 志津乃(
ja7469)はしとやかな口調で言う。
「‥‥流石に、このミスは看過できないわね。彼女の髪を守る為にも、迅速に行動しましょう」
委任状を確認しながら月臣 朔羅(
ja0820)が応じる。
「乙女の一大事なんだよ! 女としては絶対に助けてあげないといけないんだよ! めっちゃ頑張るんだよ!」
ルーナ(
ja7989)が声を張り上げる。真剣ではあるが元気さや明るさが際立つその声は、悪い事態を想像して気が滅入りそうな一同の気持ちを和らげてくれた。
もっとも、留守番役の新人会員だけは、先ほどから女性陣の台詞を聞くたびに胃の穴がどんどん広がっていくような顔をしている。
「中和剤の予備はありませんか? 可能なら全員が持っていたいんですが」
御守 陸(
ja6074)が確かめると、新人は弾かれたように飛び上がり五本の小壜を持って来た。
「ど、どうぞ。どうか、よろしくお願いします‥‥!」
今にも土下座せんばかり。今はどんな慰めをしても無意味だろうと陸は考え、一番の慰め――少女の髪を救うこと――に役立つ情報を聞くことにした。
「その女の人なんですけど、特徴で言い忘れていることはありませんか?」
「いえ‥‥最初に話したように、長い黒髪で、少し地肌が見えていたという程度で‥‥養毛剤と聞いて、ああちょっと髪が薄いかもと思ったくらいでした」
「布包みとバッグの色や形、服装的な特徴なども改めて教えてもらえないかしら?」
朔羅が入念に聞き出しメモを取る。その横では若杉 英斗(
ja4230)が六人全員の携帯やスマホのアドレスや番号を交換していた。
「やっぱり細長い包みというだけじゃなあ‥‥剣道部、薙刀部、ホッケー部、ラクロス部、ビリヤード部‥‥ぱっと思いつくものでも弓道部以外にこれくらいはあるぞ」
指折り数える英斗に陸が言う。
「とりあえず僕、まず剣道部を探そうと思います」
「でも、包みが身長より長いくらいなら、剣道部とかは除外できないかな?」
ルーナの意見に朔羅が首を振る。
「うちの剣道部は、人の身長くらいある大太刀で練習する人がいたって全然不思議じゃないわ」
一行の空気が沈んだその時。
「私のダウジングの結果によると‥‥その子はここから南にいるわ。少なくとも北はありえない」
唯一議論に参加せず、魔術師らしく久遠ヶ原の地図とペンデュラムを使ってダウジングしていたエヴァ・グライナー(
ja0784)が口を開いた。もっとも、それは「フリ」。実際は推理だ。
「それはどうしてかな?」
ルーナが首を傾げる。
「もしここを出た後の目的地が北なら、薬を受け取ってからここより北のケーキ屋に行くはずでしょ? こんな夏の暑いさなかに、先にケーキを買って持ち歩く意味もあるわけないもの。ゆえに北だけはありえない!」
もはや、というか最初から、ダウジングは関係ない話だが、言ってることは妥当だ。
「この近くだと、東にホッケー部、西にビリヤード部、南に薙刀部があるようですね」
地図を確認して志津乃が告げる。
「あのね、ボク、この南西の演劇部に行こうかなって思うんだ」
「え、どうしてですか?」
陸の疑問にルーナが答える。
「もしかしたら文化部かもしれないよー。お芝居で使う槍とか」
「‥‥可能性は広いわね」
うんざりしたようにエヴァがため息をつく。
「思いつくことは何でもやってみるしかないわね。私は高等部へ行って、運動部系の顧問をしてる教師に当たってみるわ。少し遠いけど、壁走りや水上歩行ならショートカットもできるから」
「あー、俺もちょっと気になることがあるんで、まずはそっちへ」
朔羅と同様光纏状態になる英斗に陸が聞いた。
「気になるって、どこですか?」
「北の四つ角のケーキ屋」
●午後三時
少女はお茶を準備する。
と言っても熱い紅茶や緑茶ではなく、朝のうちに作っておいてキンキンに冷えてる麦茶だ。
麦茶には砂糖を入れるのが彼女の家での習わしで、甘いケーキに甘い麦茶を少女は幸せな気分で堪能する。
六人はそれぞれ当面の目的地に到着した。
●午後三時〜三時五分
「月臣が本気で急いでいることはわかったが‥‥」
朔羅に対し、体育教師は顔をしかめる。
「俺が主に把握してるのは武術系だが、長い武器という条件だと‥‥剣道部に剣術部、居合術部に抜刀術究理会、槍術部、薙刀部、棒術部、棍法術部、杖術部、長巻部、多節棍マニアの集い、蛇腹剣倶楽部、物干竿戦闘研究会、これくらいはあるし、月臣のところの道場みたいな顧問のない集まりだって色々ある」
「わかってはいます。それでも、どうにかしてその子を見つけないといけないんです」
余裕ある普段の朔羅とは違う、真剣な態度。
「‥‥それぞれの顧問に連絡を取ってみる。少し待っててくれ」
「ビリヤード部には、黒髪の女子はいませんでした」
「ホッケー部には、髪の長い高等部の人がいなかったです」
「演劇部には何人かいたけど、長いものを今日持ち歩いていた人はいないって」
「薙刀部は可能性のある人全員に会えたけど、『X113』って言ってもみんなキョトンとしてたわ」
連絡を取り合うが、当たりはまだ誰も引いていない。弓道部へ向かった会長も外れだったそうだ。
「ベイクドチーズケーキを一個下さい」
四つ角のケーキ屋はこぢんまりとしていて、通りに面したところは全面ガラス張りで開放的な雰囲気。ショーケースの中のケーキは適度に減っていて、繁盛している店だと窺わせる。
「ところで、ちょっとお訊ねしたいのですが‥‥」
英斗は少女の風体特徴を並べる。誤配が起きて、彼女の行方を知りたいのだと紳士的に述べると、おさげの店員はすぐ答えてくれた。
「今日はもうおうちに帰ったと思います」
「部活は終わってると?」
「あの人、いつも夜にあっちから来て、たまにケーキ買ってくれて、そっちへ行くんです。今日も方向は同じでした」
ガラスの向こうの通りを示し、あっちと言いつつケーキ屋よりさらに北を、そっちと言いながら南を示す。
「ほう」
「それにいつものように、ケーキ二個しか買ってませんし、保冷剤はいらないって言ってましたし」
ならば研究会に寄った後は自宅に直行ということか。そうなると薬を早々に使う危険性が高い。
次に部活を聞き出そうとした英斗に、店員は言った。
「住所までは知らないですけど、棍法術部でお聞きになればいいと思いますよ」
「‥‥はい?」
「あっちにある部活で長い包み持ち歩くのって、棍法術部しかないですから。ちょっと進んだ先のお堂で部活してます」
「ラッキーチャンス、スタートしました!」
「え?」
「いえ、失敬。ご協力ありがとうございます!」
ケーキの小さな箱を抱えて店を出ると、英斗は飛翔して北の目的地を確認しつつメールを打ち始めた。
●午後三時五分〜三時十分
「なるほど、棍法術部でしたか」
ルーナと合流した志津乃が一斉送信のメールを見て言う。
「知っているの、志津乃さん?」
「いえ、名前を聞いたことがあるだけです」
「僕たちは毛髪研究会に引き返せって指示は、どういう意味かな?」
帰路で合流した陸に、エヴァが尊大に答える。
「ケーキ屋から保冷剤がいらない距離ってことは、毛髪研究会からも近くにあると考えられるでしょ。下手にそこらをうろつくよりはここから出発した方が早いんじゃない?」
英斗は走りながら朔羅からの電話を受ける。
「帰ったってことは、今日は部活が早く終わったとかじゃない? あるいは部長だから、部活が休みでも施設の見回りがてら個人練習してたとか。だとしたらお堂に行っても誰もいないかも」
「‥‥その線も否定はできないな。朔羅さん、顧問の先生に会ってくれないか? こっちが駄目な場合に備えて」
「もう話はつけて、向かってる途中」
「さすがだね」
●午後三時十分
少女はケーキを食べ終えた。実においしかった。
「さて、と」
立ち上がり、トレーニングウェアを洗濯機にぶち込む。小壜はテーブルの上へ無造作に置く。
「さっさと始めちゃおうかな。あ、その前にトイレトイレ」
英斗はお堂の前に到着した。
エヴァ・陸・志津乃・ルーナは毛髪研究会へ戻った。
朔羅は中等部へ駆けつける。校門前には棍法術部の顧問の教師が待っていた。
「棍法術部に所属している髪の長い高等部女子について、情報を教えてください」
前置きも抜きに朔羅は切り出す。
「彼女にとっては、かなり重大な問題です。ご協力願います!」
●午後三時十分〜十五分
「急がなければならないのに待つしかないというのは、落ち着かないものですね」
研究会で椅子に腰かけた志津乃が言う。
「ルーナさん、そのかつらは?」
「演劇部で色々借りてきたんだよー。もしよくないことになっても、ウィッグとか使えば好きな髪形もできるよーって」
「そうならないのが一番ですけどね」
「‥‥ほら、ちょんまげとか」
「何を渡すつもりなのよ!」
横目でやり取りを見ていたエヴァがかつらを投げ捨てる。
「それにしても、顔を隠して受け取りに来るなら、使う時も慎重だと思うのですが‥‥最初は少量だけ試す慎重さがあるのではと思います」
希望を込めた志津乃の推測に、エヴァがかぶりを振った。
「顔を隠すことすなわち慎重とはならないでしょ。本当に慎重なら、受け取る時にラベルくらい確認するわよ」
「いえ、その、僕が見てたから、気になってできなかったのかも‥‥」
新人会員の意見もエヴァは一刀両断する。
「後で確認したなら、今ごろここへ引き返しているでしょ」
「そもそも、研究会の方には、今後このようなミスが起きない受け渡し手順の確立と使用する方への説明、注意喚起をお願いしたいですね」
「お、おっしゃる通りです。その、最近ちょっと惰性になってたところがあって‥‥これからは気をつけます」
「違うわよ。担当者個人が弛んでいようと具合が悪かろうと無知や無能だろうと、それでも間違いが極力起きないようなシステムにしろって話!」
志津乃の言葉にしどろもどろな新人を、エヴァが再び斬り捨てた。
お堂の敷地内では、十数人の少年少女が棍を振るっている。部長は筋骨隆々のスキンヘッドだった。
「こちらの部に、高等部で長い黒髪の女性が所属していると思うのですが」
「副部長のことか? 用があるとかで今日は早めに切り上げたが、どうした、拾い食いでもして病院に担ぎ込まれたか?」
すぐさま答えが返ってきた。それにしても、少女はどんなイメージを持たれているのか。
「病院とはちょっと違うのですが、彼女の健康上の問題で急いで連絡を取らなければならなくなりまして。電話番号を教えてもらえませんか?」
英斗が委任状を見せると、部長は簡単に副部長の番号を教えてくれた。
ただし固定電話はないそうで、携帯電話はかけてもつながらない。
「電池が切れたのに気づいてないのかもなあ」
部長が顔を曇らせた。
「住所をお願いできますか?」
「ああ。だが‥‥名簿をどこへやったものか‥‥」
お堂に上がり込んだ部長がガサゴソやっているが、埒が明かない。
英斗は朔羅へ電話し、彼女が副部長の住所を顧問から聞き出せたことを知った。
●午後三時十五分〜二十分
エヴァと陸と志津乃とルーナが研究会を飛び出して走る。確認した住所はここから歩いて五分強。走ればもっと早い。
朔羅も走る。中等部校門から、本日三度目の壁走り。
いかに速いとは言え、距離は遠いし疲労もある。きっと研究会からの四人の方が先に着くだろう。彼女たちを信頼してないわけでもない。
それでも、走る。
小天使の翼はすでに使い果たしている。英斗も走るしかない。
少女の携帯電話へ発信を繰り返しながら、ひたすら走る。
ここまで来たら最後まで見届けたいという気持ちは強い。ただそれ以上に、困っている人を助けたいという気持ちが、くたびれ果てた足をなおも動かす。
「乗るか!?」
バイクに乗ってこちらに向かってきた会長が、急停車して言った。
「ありがとうございます!」
最初に着いたのはエヴァたちだった。少女の部屋は一階。
「急いで急いで! 窓に私を投げてもいいわよ!」
「無茶言わないでください!」
「それは無理なんだなー」
「でも窓は開いてますね」
塀を乗り越え、庭に面したガラス戸を開け、四人は部屋へ上がり込んだ。
●午後三時二十分
副部長は小壜を手にした。どう使ったものか一瞬悩むが、頭に盛大に振り掛ければいいかと考える。
蓋を開けようとした時、正体不明の四人組が無造作に部屋へ侵入してきた。
「stell'hsna kn'aa Nyogtha!」
先頭の幼い少女が呪文を唱えると、副部長の周囲に無数の手が湧き拘束しようとする。
「はっ!!」
辛うじて回避し、副部長は魔具である棍を瞬時に取り出して身構えた。
「何だ?! 押し込みか、天魔の襲来か!?」
「あ、ええと、ですね」
陸は慌てて混乱気味に取り繕った。
「配達業者から依頼を受けた者ですが、手違いで違う荷物が渡ってしまいました」
「へ?」
「荷番はX113です。心当たりはありませんか?」
「‥‥な、ななななななんでそれ知ってるの?!」
たちまち顔を赤らめる副部長。
その時、壁を走って朔羅が現れ、バイクが寮の前に止まる音がした。
「危なかった〜、髪が濃くなるどころか部長みたいになるとこだったんだ!」
皆の説明を聞いて、副部長は一瞬ぞくりと身を震わせ、それから笑顔になった。
「本当にありがとね」
一人一人をぎゅっと抱きしめる。エヴァは頬を染めてそっぽを向き、朔羅は平然と抱かれ、英斗は紳士的に振る舞いつつも少し鼻の下を伸ばし、陸は真っ赤になってうつむき、志津乃は優しく受け入れ、ルーナは負けないくらい強く抱き返した。
最後に抱かれそうになった会長は、彼女を押しとどめる。
「私はミスをしただけですので。それよりもこちらをどうぞ」
X113の壜を手渡し、会長はその日初めて小さく笑みを浮かべた。
「冷たい麦茶飲んでく?」
副部長に誘われる。会長は固辞して去ったが、依頼を達成した六人は快く頂戴する。
冷たくも甘いその味に、驚きや悲鳴や賛嘆の声がひとしきり部屋をにぎわせるのだった。