●おかあさん
「はーい、チョコが食べたい子、あたしのところに集まれ〜」
明るいおねーさんの声が教室いっぱいに響いた。
軽やかな足取りで入ってきたのは白衣姿の長身女性。
白衣を見て警戒した虫歯ちびっこ天魔達は、好奇心と慈愛にきらめく瞳に気付いて警戒のレベルを下げる。
「美味しくチョコが食べたい? それとも、一生チョコが食べれない体になりたい?」
ヴィオレタ=アステール(
jb7602)はおねーさんと母親の中間声で語りかける。
「食べたいけど歯医者やだもんっ」
「やだもーんっ」
じたばたと暴れるちびっこ天魔達。
でも、大文字 豪(jz0164)のときみたいに逃げようとはしない。
腰をかがめて視線をあわせてくれるヴィオレタを信頼しているのだ。
「虫歯って痛いよねぇ……」
別方向から聞こえた台詞には凄まじく実感がこもっていた。
「治せる内に、治しちゃおう?」
頬を押さえて儚く微笑むのは吹雪 彰刃(
jb8284)。
顔の上半分を隠す狐面と同じように肌が蒼白だ。
歯が本当に痛そうで、息をするたびに鋭い痛みが襲うのが見るだけで分かってしまい、ちびっこ達は心底震え上がる。
言うまでもないことだが、彰刃の歯は完全に健康で虫歯に見えるのは演技だ。
恐怖という鞭を見せた後は飴の出番。
「美味しくチョコが食べたい? それとも、一生チョコが食べれない体になりたい? 今直さないと二度とチョコレート食べれないのよ? それでも貴方達はいいのね?」
あなた達のことを第1に考えているのよと、ヴィオレタは目と態度で語る。
2児の母である彼女は学園生にあまりない母性という説得力があり、ちびっこの半数近くがふらふら〜と惹かれて飛んでいった。
「騙されませんよ!」
がたんと音を立てて堕天使が立ち上がり。
「いたっ」
頬を両手で押さえて涙目になる。
「歯医者が凄く痛いの、分かってるんですからっ」
仕方ない子ねぇと思うヴィオレタだが今は手を離せない。
「歯医者さんが怖いならおまじないかけてあげようか?」
金色の蝶にも見える光纏を展開し、外見だけなら天使のようなだだっこ全員の注意を己に引きつける。
「この蝶々にね、触れて自分は強い子って思ってごらん?」
同格の撃退士複数相手に逃げ回る速度は出ないけれども、子供をあやすのには慣れている。
視線と身振りでちびっこ達の意識を誘導し、頑張れば触れられる速度で蝶を近づけ、近づかせたことに気付かせずに触れさせてやる。
「わぁっ」
「わたしもっ、わたしもっ」
いつの間にかちびっ子全員がヴィオレタの周りに集まっていた。
母性に飢えていた、あるいは初めて母性に触れた彼女彼等にとって、ヴィオレタは禁断の果実に等しいのかもしれない。
流れに乗り損ねた堕天使が、羨ましそうな目で同級生達をながめていた。
●どりるとぱんだ
幼児も喜ぶ色彩豊かな待合室。
真新しい絵本や積み木が置かれた憩い空間に、ドアの向こうから凶悪なドリル音が響いた。
「やだ〜っ」
「おうちかえる」
「おかあさ〜ん!」
おこさま撃退士達が士気崩壊を起こして逃げ出した。
ある者は歯磨き教室準備中だった長田・E・勇太(
jb9116)に遮られ、天窓から抜け出そうとした堕天使はヴィオレタに抱きつかれて捕獲される。
大部分は真っ直ぐに出口へ向かう。
スリッパから自分の靴へ履き替え、歯科医院から飛び出そうとした瞬間、全く予想もしなかったものに進路を遮られた。
「ぱんだ」
「だと」
「ざわざわ」
お子様達は、衝撃のあまり顎が伸びている……気がする。
良い感じにデフォルメされたパンダ着ぐるみが、受付に必要書類を差し出し、柔らかそうな毛に包まれた手を伸ばしてスリッパを手に取る。
だいたい4等親のコミカルな外見なのに、動きが妙に繊細で清らかな雰囲気があった。
ぽふ、ぽふと平和な足音共にソファーへ向かう途中、驚き戸惑うお子様天魔達に気付いて立ち止まる。
「あれ、君達も虫歯になってるの?」
中の人である或瀬院 由真(
ja1687)が優しく話しかける。
「う、うん」
「ぱんだ……さんも虫歯?」
パンダ着ぐるみの右頬は少し膨らんでいて、大きな×印付き絆創膏が貼られている。
「僕も虫歯なんだ。このままだとチョコを美味しく食べる事ができなくなっちゃう」
お子様達が共感し、涙目になり、その場に座り込んでしまう。
「チョコは、美味しく食べてあげないと悲しんじゃうんだ。だから、今から歯医者さんに診てもらうんだよ」
パンダ着ぐるみが器用に握り拳をつくる。
「君達も虫歯なら、一緒に治しにいこう? でないと、チョコを悲しませちゃうよ」
「ぱんださんっ!」
感極まったお子様達がふわもこの足に抱きつく。
「ぱんださーん。2番にお願いします」
運命の呼び出しが聞こえた。
なお、書類にはきちんと本名が書かれている。
「じゃぁ、僕が先に行くね。怖いけど、勇気を出してくるよ!」
ぱんだの勇気に魅せられ、お子様達が立ち上がり気合の入った敬礼をするのであった。
●医者達のゆーうつ
「引率お疲れ様。あら、食いしばって砕いたのね」
老婦人が笑いじわを深くする。
着ぐるみの中身は口を開けたまま目だけでうなずいていた。
「任せてちょうだい」
熟練の技が披露され始めた場所から衝立を挟んだ所で、ぱんだの次に呼ばれたお子様達が歯磨きしていた。
数分歯磨きしているのに赤い歯がなかなか白くならない。
歯科衛生士も頑張っているのだが、好奇心旺盛注意散漫なお子様達は話の10分の1も聞いてくれない。
「これが資料になります」
長田・E・勇太(
jb9116)に歯の磨かれていなかった箇所の図が渡される。
虫歯再発阻止は、勇太達に任された。
●はみがき
「虫歯治ったよー。もう全然痛くない。これで、美味しくチョコを食べる事が出来るよ!」
パンダ着ぐるみを再装着した由真の後を、涙目天魔達がよろよろとついてきている。
「あ、そうそう。治ったからって油断しちゃ駄目だよ。歯の磨き方を教えてくれる人達がいるから、ちゃんと磨き方を教わろう? そうすれば、ずっとチョコを美味しく食べられるようになるよっ」
ドアの向こうからチュィィィンという甲高い音と直前まで味わっていた独特の香りが漂ってくる。
お子様達はいやいやと頭を振りながら逃げ出す……直前、教室で見かけた狐面に気付く。
「これなーんだ?」
手のひらから大量のチョコレート菓子があふれ出す。
魔法でもスキルでもなく、マジックだ。
「あーっ!」
「ぼくのっ」
「私の返してっ」
飛びつかれる前に彰刃が腕を振る。
腕に注意を引きつけた上で臨時助手の大文字にチョコレートを回収させる。
「チョコはどこに行ったかなぁ」
大げさに身をよじり、ポケットを探り、ひらりひらりとおこさまをかわしつつ注意を引き続け大文字を退場させる。
「おっと、ここにあった」
最初に出したチョコとは別のチョコを人数分取り出し、お子様達と涙目堕天使を他の患者の邪魔にならない場所に誘導した。
そこでは、勇太が正しいはみがきのしかたをホワイトボードに書き終えた所だった。
「歯磨きって教えてもらわないと間違った磨き方になっちゃうから、教えてもらっちゃおう。終わったらチョコ食べても良いから、ね」
ヴィオレタががんばってと言いながら入り口に鍵をかけ、パンダ着ぐるみが阻霊符を発動させ逃げ場を無くす。
諦めずに周囲を伺い、観葉植物の陰にある非常口を見つけ駆け出す虫歯(治療済み)が3名。
勇太は焦りを見せず歯磨きの封を開けた。
チョコ、オレンジ、イチゴの香りが部屋一杯に広がる。
非常口のドアノブに手をかけた3人だけでなく、この場のおこさま達+1が匂いに引き寄せられて勇太の至近距離に集合した。
「ハイ。チュウモク」
室内照明を暗くして天井に手を伸ばし、スクリーンを展開する。
プロジェクターが点灯し、平坦な画面に虫歯の行き着くところを映し出した。
「う」
「ぐろ」
溶け落ちた歯。
肉だか神経だかよくわからないものまで剥き出しになった穴。
どの画像も一目でトラウマを植え付けるに足る衝撃映像だ。
「虫歯ってのは最悪、虫歯菌が脳に達して手を付けられない状態まで行くんだぜ」
悲惨な映像と自分の言葉が理解されたタイミングで次の矢を放つ。
「あとは死ぬしかない。脳が虫歯菌にヤられちまう訳さ」
不気味な音楽を流しつつ画像を切り替える。
さらに症状が進んだ資料映像は、虫歯(治療済み)の反抗心を根こそぎ刈り取った。
「そうはなりたくないヨなあ?」
甘い声が耳から心に流し込まれる。
虫歯(治療済み)たちは地獄に仏に会ったように涙を流して何度もうなずく。
精神的な攻撃で心を弱くし甘い言葉で籠絡するという、悪魔もしくは詐欺師のやり口であった。
「オーライ、じゃア、ブラッシングと行こう」
スクリーンを収納され部屋が明るくなる。
勇太はそれまでとは打って変わって気の良いお兄さんとして皆に接する。
「ハミガキって気持ちいいんだって教えてやるのがいいな」
にこりと笑ってラシに適量の歯磨き粉をつけ、夜に使ったらいけない雰囲気になりそうな術を使いつつブラシを小さな口へ進入させる。
「んくっ」
ブラウンさんが純白の翼を苦しげに震わせる。
しかし勇太は抱きしめる格好で捕まえ、容赦なく口の中を蹂躙した。
まあ、図でも口頭での説明でも歯磨きの仕方を理解できない相手にはこうするしか無いわけだけれども。
「外から見える場所だけじゃ駄目だぞ」
はぐき、歯の裏、歯の隙間。
慣れた者でも完璧は難しい歯磨きを、勇太は丁寧かつ優しく実演する。
だんだんと堕天使が熱っぽい目になっていく気がするが、この程度の色香で惑わされる勇太ではない。
ちゅぽんと妙に色っぽい音を立ててブラシを引き抜く。
堕天使は真っ赤になって洗面所へ向かう。
数分後戻ってきたときには、赤い部分が残っていた歯がすっかり白くなっていた。
「おおー」
「すげー」
実に素直に驚き尊敬の視線を勇太に向けるお子様達は、歯の半分近くが赤い。
「良くも悪くも単純、か」
仮面の位置を直して彰刃が苦笑する。
人数分の歯ブラシを封切り素早く渡すと、すっかり人界に染まった天魔が熱心に歯を磨き始めるのだった。
彼等が歯磨きを過信してチョコレートを食べ過ぎ、ダイエットと再度の虫歯治療に苦しむことになるまで、後2ヶ月後。