ちょいエロコミックも置いてあるネットカフェ。
年齢制限有りなこの店の入り口で小さな騒ぎが起きていた。
「困ります」
三つ編み眼鏡の店長さんが必死の形相で通せんぼ。
かばちぃかばちぃと呟くちっこいはぐれ悪魔数名が、彼女の隙をうかがって小刻みに左右に動いている。
「店員殿、この羽生えた幼女達は年齢3桁〜4桁であるので会員登録は問題ない」
雪風 時雨(
jb1445)の堂々とした言葉に思わず頷いてしまった店長(23歳)は、数秒後高速で左右に頭を振って魅了(天然)から回復する。
「実年齢はともかく見た目的に駄目です! そちらの方なら問題ありませんけど」
時雨の背後にいる、私服姿の堕天使に身分証の提示を求める。
漆原(堕天使。外見年齢18歳)は財布からカード状の何かを取り出しかけたところで動きが止まってしまう。
時雨はその動きだけでだいたいの事情を察した。
「ほれこの価格で施設が使い放題! シャワーやアメニティも完備で女性も安心である」
人界に来て日が浅く、天界に未練を残した堕天使が稼げているはずがない。
級友のむごい仕打ち(金のない相手に物欲を植え付ける)に内心思うところのある時雨ではあるが、彼の容赦のなさはある意味それ以上だ。
嘘泣きしながら去っていく級友を見送り会員登録をすませ店内に入る漆原。
そこに待っていたのは、1つ1つはリーズナブルだが真綿で首を絞めるが如く財布を圧迫するサイドサービス群。
30分後、空の財布を手に立ち尽くす堕天使の前で重役風椅子が半回転する。
猫を撫でていそうな態度で椅子に座っていたのは源平四郎藤橘(
jb5241)。
小気味良い音を立てて開いた扇子には、OTAKU入門と達筆で墨書されていた。
「先達として多少なりと参考となればよかろうと思うで御座るよ」
空の財布を手に立ち尽くす漆原に、一見慈愛に満ちた表情を向ける。
「OK御嬢さん。全てはまず極東のベレー帽メガネの漫画の神様からで御座る」
数日籠もりきることが決定した瞬間であった。
「古きを侮ることなかれで御座る。今でも尚そのネタは使われるで御座る故に知っておらねば何のことであるか解らぬ、となってしまうで御座るからな」
保存状態の良い、数十年前に刊行されたコミックが並べられていく。
1日経過。
「いいで御座るかレディ。そして次はこちらの世界で誰もが知っている名作に続くで御座る」
今度はここ10年で完結したシリーズを数十。もう、床が見えない。
3日経過。店長のおねーさんが一度漆原をシャワー室に放り込んでいた。
「次は現代に御座るな。群雄割拠にして数多のジャンル。その中で自分の好みを探り当てるのは至難の業に御座るが。考えるな感じろで御座る。表紙買いでも絵柄でもシナリオでも、ピンと来るものに手を伸ばすで御座る。そうして当たり外れを繰り返す中で己を鍛え上げていくで御座るよ」
「ふむ。それならこれがお勧めだぞ」
時雨が、青年誌に掲載中の数作品を用意する。
媚びは極小で色気は添え物、血と臓腑と登場人物の情念がぶつかりあう作品ばかりだ。
「わっ……あなた酷い格好よ」
様子を見に来た池田(堕天使。外見年齢22歳)が眉をひそめる。
入店前は典型的天使な外見だった漆原は、今では少し汗臭い残念系に変わってしまっていた。
「ほう」
「丁度良いところに」
艶のある肩に男達の手が置かれ、池田の逃げ場が失われる。
「ほうらこれが四国の名物で…」
うどんを食べる場面が延々とディスプレイで再生され。
「これが青森の……後は判るであろう?」
次は林檎のシーンが何度も再生される。
いずれも実に美味そうだ。けれどいずれも天魔の支配下や脅威にさらされた土地の名産で、守ったり奪還するためには天魔と戦うしかない。
誠、容赦の一欠片もない『教育』だった。
「みんな〜……根を詰めすぎ〜……だよ〜……?」
低い位置から声が聞こえる。
艶々した男2人と文化に酔っぱらった美女2人が振り向いても誰もいない。
ただ、香しい香りが漂い4人の食欲を強烈に刺激した。
「さしいれ〜……」
視線を下に彷徨に向けると、清潔なエプロンを装着した逆月十音(
jb8665)が、自分がその中に入れそうな鍋を抱えていた。
細身でも鍛え抜かれた十音にとって、己の数倍程度の重さは空気入りの風船も同様だ。
ただ、体格が小学生未満なので背が届かず机に鍋を置けない。
「ありがとうございます! 皆さん、そちらの方達からの差し入れですよ!」
店長が笑顔で机の上を拭き鍋敷きを置き、十音から鍋を受け取ってふらつきながらなんとか着地させる。
よく見てみると、鍋は特大サイズが3つ重なっていた。
十音は礼儀正しく頭を下げ、今度はご飯の入ったお櫃に焼きたてのナン、さらに大阪風と広島風のお好み焼きを運び込む。
「食べれるものであればつくるよ〜……。でも、お勧めはカレーだよ〜……」
男2人や普通の客達は楽しげに微笑むだけ。しかし堕天使とはぐれ悪魔は同時に生唾を飲み込んだ。
「これが」
「色々な漫画やアニメに登場したあのっ」
彼女達が触れたのは基本的に日本産の作品であり、日本人の多くにとってのソウルフードであるカレーの登場頻度も高かった。
つまり、彼女達の頭の中ではカレー即ち美味という情報が刻み込まれている。
「お勧めはカレーだよ〜……。天国から地獄まで希望を言ってね〜……」
「では自分は地獄を」
あおい悪魔が大阪風お好み焼き(タレ無し)を丸めてカレーを注いで貰い、囓る。
辛い。額に大量の汗が浮かぶ。
「我は天国か……ぬっ」
小皿にご飯と別の鍋のカレーをよそって銀の匙で一口。芳醇な香りと常識外れの甘さが、時雨の動きを凍らせた。
怯える堕天使とはぐれ悪魔に、第3の鍋のカレーが差し出される。
「ああ、食べ物粗末にしたら天界か冥界におくりかえすからね〜」
十音の天使の微笑みは、悪魔にしか見えなかった。
なお、第3のカレーとはあえて市販のルーを使ったものだ。
恐怖から解放された2人の舌に一生消えない形で刻印され、2人にカレー好きをこの世に誕生させることになる。
●人界の買い物
「まだ歩くのか」
はぐれ悪魔の少年が吐き捨てるように言った。
「あなたにとっては授業だろう?」
仲間から渡されたメモから顔を上げ、どこまでも冷静な口調でカッツ・バルゲル(
jb5166)が注意する。
「ふん」
久遠ヶ原以外に居場所がない自覚があるのだろう。少年は苛立ちを顔に出しはしてもそれ以上の反抗はしない。
「失礼します」
天井が低い店に入り、仲間から頼まれた買い物を済ます。
店主は気のよさそうな中年女性で、しかしはぐれ悪魔の翼に気付き露骨に怯えていた。
最初に久遠ヶ原から来たことを伝えなければ、逃げ出すか警察に通報されていたかもしれない。
「ふん」
少年の声から張りが消えている。
ここは久遠ヶ原ではない。剥き出しの恐れと敵意は、見た目相応の心を持つ彼を深く傷つけていた。
「気にしすぎないことだ」
カッツははぐれ悪魔をなぐさめない。
彼も悪魔に大事なものを奪われた。言いたいことも憎悪も尽きぬほどある。
それでも、一応であれ久遠ヶ原に下った者に刃を向ける気はない。
「ふん」
声は湿っていた。
2人は無言で商店街を歩く。
限られたスペースで知恵を凝らしてディスプレイする玩具屋に、少し古いが賑わっているゲームセンター。
翼を消した少年は、騒がしく暖かな人の営みを眩しげに呆然と眺めている。
「興味があるなら知ることだ。全てはそれからだ」
買い物袋に入った野菜が、小さな音を立てた。
●舌への攻勢
羽子板が羽を打つ音は、銃声に似ていた。
「これほどの強者が展開で無名だったなんて」
キリッ、という効果音がつきそうな表情で羽根を迎え撃つ堕天使漆原さん。
数日の調教……もとい不摂生は心身を蝕み、控えめに表現して動きが鈍く力も弱かった。
辛うじて跳ね返された羽が低速で逆廻耀(
jb8641)に向かう。
「これが羽子板だ、恐れずぶつかれ!」
ひょっとしたら音速を突破していたかもしれない。
パステルカラーの羽が堕天使の秀でた額に命中し、ピコンと間抜けな音が発生した。
「う〜」
純白の翼を力無く垂らし、涙目で見上げてくる。
無論、それで容赦する廻耀ではない。
まじめくさった顔で筆をとり、白い肌に可愛らしい猫ひげを書くのだった。
数分後。
「カレー以上の料理はありません」
「元商売敵の肩を持つのは癪だけれど同感ね」
家庭科室の近く。羽子板で腹を空かせているはずの漆原と池田が明確に拒絶する。
が、拒絶された葛葉アキラ(
jb7705)は不敵な笑みを浮かべたままだ。
「これを見ても同じことを言えるかな?」
家庭科室の隣の部屋に2人を導く。
まず出迎えたのはホテルのラウンジ風くつろぎ空間。しかも絵に描いたような、アニメの一場面でもおかしくないアフタヌーンティーの準備が整っている。
「嘘」
漆原は震える両手で口を隠す。
「現実に存在するの?」
「舌でも味わってね」
アキラは自然な自然な動作で椅子を引いて漆原を座らせる。
おそらく漆原には全く理解できなかっただろうが、事前準備や現場での持て成しや意識の誘導まで、極めて高度な技術と知識がなければ実現不可能なサービスだ。
実にあっさり陥落した堕天使に複雑な視線を向けるはぐれ悪魔。
振り返ったアキラに優しく微笑まれ、はぐれ悪魔は何もいたいけな少女のように体を震わせる。
「カレー以外の日本食もどう?」
蜘蛛の巣に誘い込まれる蝶に似た動きでアキラを追ってしまう。
優雅な洋風空間から仕切りひとつ隔てた場所には畳が敷き詰められていた。
「あの」
靴を脱いで上がろうとして足が止まる。まだ正座は苦手なのだ。
「掘り炬燵を用意しました」
容姿は一流どころの舞妓。立ち居振る舞いは料亭の主にしか見えないアキラである。
炬燵の上に置かれているのは蜜柑ではなく可愛らしくも美しいお膳。
旬の野菜と魚を中心とした、アキラ自身の手による一品だ。
はしたなく生唾を飲み込み炬燵へ潜り込み、箸を探そうとして先割れスプーンを用意される池田さん。
おそるおそる酢の物を掬って口に含むと、カレーのときとは別の味で舌から脳を刺激された。
「如何でしょう?」
蕩けた顔が、答えだった。
●ご馳走への遠い道のり
家庭科室は地獄と化していた。
きっかけは料理で完堕ちした2人が作るのにも興味を持ったことだった。
雫(
ja1894)の指導のもと切る焼く煮るの形だけは出来るようなってしまった2人は、雫の注意が途切れた隙にあるものを作ってしまった。
「先生、少し死食をお願いできますか?」
2人にとっては渾身の作品、客観的にはほぼ産廃を皿に載せて差し出す。
大文字 豪(jz0164)は深く考えずに受け取り箸で摘む。
厳つい顔と体からは想像し辛い、アキラ達ほどではないが礼法にのっとった動きだった。
「マナーと言うのは、食べる姿を綺麗に見せるのではなく作った人への礼儀だと思って下さい」
優しく2人に注意を促す雫の後ろで、白目を剥いた大文字が静かに倒れていく。
「苦労して作った料理を心無く食されたくはないでしょう?」
皿が床に転がる前につかみ取る。
「料理を失敗する殆どが勝手にアレンジして色々足して行くことです。……次はもう少し頑張りましょう」
皿を机に置き静かに言うと、2人は高速でうなずきいていた。
「うーん。調味料を正確に計るところから……」
或瀬院 由真(
ja1687)が詳しく説明しようとする。
が、蓋が蒸気で押し上げられる音が後ろから聞こえ、少しだけ慌てながら振り返る。
ガスを弱めて蓋を開け、お玉を使っていくつか中身を取り出す。
大根には味が染み、ゆで卵は最適の弾力で、牛スジは一噛みでちぎれるほど柔らかい。
「食べます?」
2人に試食を勧める。
「材料が同じなのにコンビニエンスストアのおでんとは全然違う」
「美味しい。止まらない」
味見のつもりが止まらない2人に、雫が淡々と注意を繰り返す。
「食べられる物を追加して行くと食べてはいけない産廃が生まれる事も多々あるので注意して下さい」
2人は一瞬硬直し、後ろ手に持っていたチョコレートと饅頭をそっと元の場所に戻した。
「おこたに運びますので手伝ってください。ええ、その食器も」
由真は2人を引き連れて家庭科室から出て行った。
「えっと……」
雫は、手際よく片付けつつ余った食材で雑炊風を作る。
「口直しではありませんが、私の料理を食べます?」
「頂こう」
ようやく気絶から回復した教師が重い息を吐く。
雫は依頼をうけた撃退士である以前に学園生だ。悪意で行動しているならともかく、善意での行動を叱るわけにはいかない。
「順調だな」
「はい」
雑炊をすする。疲れた舌と心に染み入る味だった。
●おでん
既に夕刻だ。
外では冷たい風が吹き、校庭では乾いた土埃が舞ってる。
対照的に和風の室内は暖かで、炬燵の上でおでんの鍋が煮えていた。
それを、お玉を持ったファンシーペンギン(人間大)がお皿によそっていく。どうやってお玉を掴めているのかは、多分誰にも分からない。
「この大根とか、味が染みてて美味しいんですよ」
着ぐるみペンギンの目がきらりと光る。
はくれ悪魔の少年が気の進まない様子で箸を使い口に運ぶ。
他の2人と比べると堕落の程度が低い彼だが、大根の味が芳醇過ぎて圧倒された。
「美味しいでしょう?」
円らな瞳で見上げるペンギン。
改めて視線を向けると、小首をかしげる様が愛らしい。
徐々に箸の動きが早くなり、最初から早い2人と撃退士達と共に短時間で具のほとんどを食べ尽くす。
「悦楽の時はまだ終わりませんよ? むしろ、ここからが本番なのです――」
ペンギンが艶やかなうどんと肉を投入して蓋を閉じ一煮立ち。
改めて蓋を開けネギを加えると、肉や野菜の旨味を余すところなく吸い込んだ肉ネギ煮込みうどんが姿を現した。
「これぞ、人を堕落させる魔性の味」
口を閉じ、じゅるりと湧き出した唾液を押さえ込むペンギンの中のひと(由真)。
うどん争奪戦に出遅れた彼女は、とても雄々しいアウルを纏って最期の戦いに参加した。
●おこた
「こたつの魔力は凄まじいからな」
大きな掘りごたつは全員が入っても問題なかった。
遊んで料理して片付けた後は、こたつの柔らかな暖かさに負けて寝てしまう者がほとんどだ。
廻耀は意識を保ったままミカンの外側の皮を向き内側の処理を進める。
ヘタではない方から4等分。
ヘタの方から外側に筋を剥き。
食べやすい大きさにしておねむ寸前の今回の犠牲者……もとい教育対象に差し出す。
3人は何度か裏返してから囓り、甘酸っぱさに目を細めた。
「かなりきれいにとれる、試してみろよ」
少し前まで鍋があった場所にミカン山盛りの籠を置く。
皆無言で皮を剥き強い風が硝子窓を揺らす。
穏やかで、優しい時間だった。