○午前10時 芙紗子宅
「皆さん、よろしくお願いします」
芙紗子は撃退士達を家にあげると、居間へと案内した。
「円城寺 空(
jc0082)です。よろしくお願いします」
挨拶と共に座布団に座った円城寺は、自分達を出迎えた芙紗子の背丈に圧倒されていた。
(背……高いのです)
自分が上の兄に肩車されたら、ちょうど同じくらいかもと円城寺は思った。
「そう言えば、悪源太さんは今どちらに?」
期待に目を輝かせる円城寺の言葉を聴いて、芙紗子は申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。
「ベッドの下に潜って、出てこないんです。ああ見えて、人見知りする子だから。……今、写真持って来ますね」
芙紗子はそう言うと、壁の額縁に入った写真を持ってきた。
「これが、アクです。これがパパで、こっちがママ」
そう言って芙紗子が見せたのは、彼女の家族写真だった。そこに写っているのは、黒猫の悪源太、芙紗子と彼女の両親、そして――
「このお子さんは? 妹さんですか?」
写真を見たユウ(
jb5639)が、芙紗子の母親が膝に抱えた子供を指差した。芙紗子はそれを聞いて、おかしそうに笑う。
「いいえ、私です。5歳の時だから、ちょうど10年前の写真ですね。アクの写ってる写真って、これくらいしかなくて」
「ということは、この方は……」
ユウは芙紗子そっくりの少女に視線を移した。
「姉です。ちょっと色々あって、今は家にいないんですけど」
そう言うと、芙紗子は目を伏せた。
(10年前、ね)
ユウの隣に座るラファル A ユーティライネン(
jb4620)は、写真に写った悪源太を見て、片眉を吊り上げた。
(10年前でこれなら、今は相当な歳のはずなんだけどな)
写真に写った悪源太の体格は、どうみても成猫のそれだ。今も生きているとなると、人間で言えば100歳近い歳のはずである。そんな歳の猫が元気に家を抜け出して、外で何かをしているというのは、怪しいとしか言いようがない。
「悪源太のことで、何か印象に残ってることはねーか?」
「印象に残っていること……ですか?」
芙紗子の言葉に、ラファルが頷く。
「そうそう。すぐに思いつかないなら、体に付いてたっていう種の話とかでもいーぜ」
「ああ、それなら」
芙紗子は思い出したように立ち上がると、隣の部屋から何かを持ってきた。
「これです。一応、取っておいたんですけど」
芙紗子が見せた棘の生えた茶色い小粒の実を見て、円城寺が珍しそうに言う。
「巻耳(おなもみ)の実ですね。たまに公園とかに生えているのを見ます」
「ほー。公園ねえ」
種を眺めるラファルと円城寺の隣で、ユウが芙紗子に尋ねた。
「芙紗子さん。この家には、猫用の出入り口のようなものは……」
「いえ。ありません」
「そうですか。芙紗子さん、悪源太さんは……」
それを聞いたユウは、何かを確信したような表情を一瞬だけ浮かべると、
「いえ、若しかしたら彼しか知らない出入り口があるのかもしれませんね」
すぐに思い直したように、笑顔を浮かべた。
「ええ。……そうだといいんですけど」
そう言って笑顔をつくる芙紗子の顔には、微かな苦悩の色があった。目の前の撃退士達に伝えたい事が山ほどあるのに、整理がつかずうまく伝えられない、そんな苦悩の色が。
(彼女は、悪源太が普通の猫ではないことを薄々察している。だからこそ、私達に依頼を出した……)
ユウは、芙紗子に向き合って言った。
「芙紗子さん。この依頼、確かに引き受けました」
「はい。どうかよろしくお願いします」
○午前11時45分 住宅街
芙紗子と撃退士達が家を出てから、およそ30分後。
「どこに行くやら黒猫さん、てね☆」
追跡の準備を整え、配置についたジェラルド&ブラックパレード(
ja9284)は、誰に言うともなく呟いた。
彼は今、こざっぱりとしたスーツに身を包んで、車の中で地図に目を通していた。知らない者が見れば、外回りの営業に来た会社員にしか見えないだろう。
彼の担当するエリアは、芙紗子の家の東に立ち並ぶ住宅街だった。芙紗子の話では、彼女が最初に悪源太を見つけたのも、この界隈らしい。仲間達から送られてきた悪源太の情報には、ジェラルドは既に目を通していた。実年齢より遥かに若く、戸締りをした家に自由に出入りでき、恐らくは人語を解する……情報を集めれば集めるほど、彼がただの猫ではない事が分かってくる。
(ふむ、何だろう……ファンタジックでワクワクするね☆)
そう思いながら、カバンの底に仕掛けたカメラの動作確認を行っていると、ふいにジェラルドの携帯が着信を告げた。
「はい、ジェラルド」
受話器の向こうから、のんびりとした少女の声が聞こえてきた。
「今、悪源太さんが家を出ました。玄関側からです」
華子=マーヴェリック(
jc0898)からだった。彼女は今、マンションの屋上で、ジェラルドが設置したカメラの映像を確認していたのだ。
「今、非常階段の方に向かって、周りを見回し……あっ」
「ん、どうしたのかな?」
「悪源太さんが……ドアをすり抜けました」
華子の報告を受けて、ジェラルドの目がきらりと光った。やはり予感は的中したようだ。
「透過能力、かな」
「はい。多分……」
「ふむ、やっぱり? となるとかなり慎重にいかないとね☆」
ジェラルドは円城寺に行動開始のメールを送ると、エンジンにキーを差し込んだ。
(アクさん、公園の方に向かっているみたいですね)
追跡を開始した円城寺は、悪源太の足取りを見てそう判断した。双眼鏡を片手に、物陰から猫を追いかける円城寺の姿は、平日昼間の住宅街ではかなり目立つ存在だ。しかし、彼女が用いている隠密の効果もあって、周囲の人は誰も彼女に注意を払っていなかった。
(周りから注目されるのは、避けたいですし)
悪源太は、東の方角へ進んでいた。このまま進むと、その先には大きな公園がある。
(一度、仲間に連絡をしておいた方が良さそうです)
悪源太の注意が向いていないのを確認すると、円城寺は華子にメールを送信した。
『アクさんは公園の方角へ移動中。このまま追跡を続行します』
(今のところは順調ですね。尾行に気づいてる感じは、なさそうですけど……)
住宅街のアパートの屋上で円城寺のメールに目を通しながら、華子は東の方角を眺めた。彼女の目に映る悪源太の姿は、すでにケシ粒のように小さくなっている。
「うーん、どこに行っちゃうんでしょうか?」
華子はそう呟いて首を捻ると、ジェラルドにメールを送った。
『円城寺さんより報告。悪源太は公園の方角に移動中』
程なくして、華子の携帯に返信が届く。
『了解。華子さんは?』
『芙紗子さんと一緒に、合流先の喫茶店へ向かいます』
『オッケー☆』
それから数分後。
ジェラルドのメールが、悪源太が公園へと入った事を告げた。
○午後12時30分 公園内
『今、公園に入ったよ』
『分かった。そっちはどうするんだ?』
『車で先回りかな。黒猫くんが公園を抜けたら教えてね☆』
『了解だ』
ジェラルドに返信を打った赭々 燈戴(
jc0703)は、用意した掃除用具を手に取り、持ち場の公園東へと向かった。作業着を着込み帽子を被った赭々の姿は、どう見ても公園掃除の作業員のそれだ。赭々がホウキで落ち葉を掃いていると、通りがかった男性の老人が声をかけてきた。
「掃除の人かい? ずいぶん若いねえ」
「いや、バイトッスよ。ガッコはサボっても社会勉強は欠かさず、ってな感じっす」
赭々は老人と世間話をしながら、悪源太のことについて、それとなく探りを入れた。
「そういえば、たまーにここで黒猫見るんですが、知ってるスか? 俺、猫大好きなんスけど気になってんだー」
「ああ、ひょっとしてクロのことかね」
赭々の目がキラリと光る。
「そうそう、その猫ッス。いつの間にか見えなくなるし、いつもどこにいるんだか……」
「たまに見かけるのは、東の外れの方だね。あの辺りは草が生い茂ってて、春になると種が服について大変なんだよ……時間があったら、草も抜いておいてくれんかね」
(そういや、悪源太の体にも巻耳がくっついてたって話だったか。どうやら間違いなさそうだな)
思いがけず有力な情報を手に入れた赭々は、
「ええ、もちろんッス」
老人に礼を言って、公園の東へと向かった。
赭々が目的地に着いて間もなく、ラファルからメールが届いた。
『悪源太は東に進んでる。もうすぐ公園と外を仕切る柵に着きそうだ』
『了解だぜ』
その時、鋭敏聴覚で研ぎ澄まされた赭々の耳に、落葉を踏む音が聞こえた。人間とは明らかに違う、四つ足の動物の足音である。悪源太の接近を察知した赭々が、帽子を目深に被って視線を隠し、足音のする方角から十分に距離を取ると、程なくして一匹の黒猫が現われた。間違いない、悪源太である。
「ヘイ、見ぃつけた」
悪戯っぽい笑みを浮かべる赭々に気付く事無く、悪源太は柵を潜り抜けて市街地の方角へと向かった。
赭々が外の仲間達に連絡を済ませると、程なくしてラファルがやって来た。
「透過能力で芙紗子の家から出たらしーぜ。やっぱただの猫じゃなかったな、あいつ」
腕組みして頷くラファルに、赭々が応じる。
「ってことは、ディアボロかヴァニタスか。悪魔ってセンは……さすがにないだろうしな」
「たぶんヴァニタスだろーな」
「どうしてそう思うんだ?」
「寿命だよ。あいつは天魔として、十年以上は生きてるはずだ」
ラファルは赭々に、芙紗子の家族写真の話をした。写真が十年前のものであること、悪源太がその頃から全く歳をとっていないということも。
「ディアボロは戦闘特化の生物だからな。言ってみれば使い捨てだ。そんなに長く生きられるやつなんて、そういない。その点ヴァニタスなら、主である悪魔が死なない限り、寿命で死ぬ事は絶対ないしな」
悪源太の正体を分析したラファルの言葉に、赭々は頷いて同意する。
「となると、悪源太の主人は誰なんだ、って話だな」
「ま、それもすぐに分かるだろーぜ。……大体想像はつくけど」
そう言ってラファルは、悪源太の消えた方角を見つめた。
○午後1時 街中
公園と街中の境目付近のコンビニで買い物客を装いながら、ユウは悪源太のことに思いを巡らせていた。
(どうやら、悪源太の目指す場所がこの界隈にあるのは間違いなさそうですね。問題は彼が、何のためにこんな場所まで来るのか、ですが……)
その時、ユウの携帯に連絡が入った。赭々からだった。
「悪源太がそっちへ行った。いまジェラルドが円城寺を拾って、車で追いかけてる」
「分かりました」
程なくして、悪源太がコンビニの前を通り過ぎ、街の通りへと入るのを確認すると、ユウは店を出て後を追った。幸い、昼もピークを過ぎたおかげで、街中の人通りはそこまで多くない。追跡スキルを使用すれば、追うのは容易だ。ユウが追跡を開始して間もなく、悪源太は歩行者天国の通りへと入っていった。
(足取りに迷いが全くない。通い慣れているようですね)
ユウは視界に悪源太を捉えつつ、携帯でジェラルドにメールを送信した。
『悪源太が歩行者天国の中に入っていきます』
すぐさま返信が送られてくる。
『了解。今そっちに円城寺さんが向かうよ☆』
数分後、合流した円城寺とユウが追跡を続けていると、悪源太は通りに面したカフェテラスで歩みを止めた。
すると、そこへ――
「おお、悪源太。探したぞ」
スーツ姿の割鐘のような声の男が現われ、ひょいと悪源太を抱きかかえた。男がそのままテラスの席に座るのを見たユウと円城寺は、カフェの隣にある書店の軒先へと移動。立ち読みの客を装いながら、横目でテラスのふたりを見た。
「ユウさん、あの人って……」
円城寺は、男の顔に見覚えがあった。芙紗子の家の写真に写っていた男だ。
「ええ。芙紗子さんのお父さんです」
「会話の内容は分かりますか?」
円城寺に問いかけられ、ユウはかぶりを振った。
「いいえ。どうやら意思疎通を使っているようです」
芙紗子の父橘之助は、悪源太を膝に抱えながら、注文したコーヒーを飲んでいた。中空を睨んで誰ともなく軽く頷いたりしているが、その口元は全く動いていない。それを見たユウと円城寺は、これ以上の長居は無用と判断。デジタルカメラを取り出すと、テラスでくつろぐふたりの姿を動画と写真に収めた。
○午後2時30分 依頼人宅近辺の喫茶店
「そんな。アクとパパが……」
合流先の店で写真と動画を見た芙紗子は、小声でそう呟いた。撃退士の報告を、まだ完全には受け入れることが出来ずにいるようだ。
「芙紗子さん。あまり思いつめないで下さいね」
うつむいた芙紗子を励ますように、円城寺がそっと芙紗子の肩に手をかける。
「ありがとう、円城寺さん。皆さんも、本当にありがとうございました。この件は、家に帰ってパパから直接聞かせてもらうことにします」
芙紗子はお辞儀をして、周りの撃退士達に礼を述べた。
「あまり思いつめないようにね。何かあったら、また依頼をくれればいいさ☆」
「そうですよ。きっと、お父さんも考えがあってやった事だと思います」
「はい。……はい。ありがとうございます」
それに応じるジェラルドとユウの言葉に、芙紗子は何度も頷いた。
○午後8時 橘之助宅
その日の夜。
帰宅した橘之助の書斎の電話に、一件の録音が残っていた。
「旦那。悪源太です」
再生と同時に再生機の向こうから聞こえてきたのは、三十歳くらいの男の声だった。
「芙紗子お嬢様の件でひとつ、伝え忘れたことがありましてね。電話させてもらいました」
そこまで言うと悪源太は黙りこみ、なかなか話を切り出そうとしなかった。慎重に言葉を選んでいる気配を感じた橘之助の心に、言いようのない嫌な予感が走る。
「お嬢様は……『撃退士になりたい』そうです。アレはもう、止められねぇですね」
(撃退士に!?)
橘之助の顔に、衝撃と驚愕が走った。
「申し訳ねぇ。言おうかどうか迷ってたんですが」
少し間を置いてから、悪源太は話を続けた。
「きょう家に戻られてから、お嬢様の様子がおかしいんです。俺のことを怯えるような目で見たり、旦那の写真を眺めて涙ぐんだり……間違いねぇ、あれは気づいてますよ。俺の事も旦那の事も、全て……」
決心したように切り出した悪源太の話を聞いて、橘之助の顔が次第に強張ってゆく。
「さっきお嬢様が、俺に一言だけ仰いました。年の暮れに家に帰って、全てを聞くと――そろそろ旦那も観念して、『あのこと』を話すときが来たんじゃねぇですか? 上の……芙久子お嬢様が家を出ていかれた、本当の理由を」
打ちのめされた表情で椅子に座る橘之助に、悪源太の声はぽつりと言った。
「どうか芙紗子お嬢様のお気持ちを汲んでやって下せぇ……それじゃあ、失礼します」
(ついにこの日が来てしまったか。芙紗子……芙久子……)
岩のような両手で顔を覆う橘之助の目の前で、合成音声が録音再生の終了を告げた。