●命を運ぶ船
十名の撃退士を乗せた海上保安庁の巡視艇は、滑るような速さで夜の海を進んでいた。波を越える衝撃が艇に伝わる。
港への救急車手配を済ませた綿貫 由太郎(
ja3564)と高峰 彩香(
ja5000)は、重体者の搬送に関する注意点を乗員に聞き、背筋を伸ばした。
「生兵法にならないように気をつけないとだけど、それでも、ね」
「海に落ちたってことは体冷えてるよな。ヘリは呼べるのか?」
乗員は首を横に振った。
「小笠原方面での別件が完了次第と聞いております。今ならばヘリを待つより救難艇で陸に運ぶ方が速いです」
「そうか」
現場への到着時刻は18:15、二人はペンライトと救急箱を手に、真っ先に巡視艇の乗降口へ向かう。
「救助班のお二人ですね」
「はい」
「こちらへ」
救難艇の船長が二人を引っ張り、招き入れた。手渡されたのは救命胴衣だった。慣れない胴衣の着用は救難隊員が手伝ってくれる。身支度を整えながら、二人は状況を確かめる。
「重体者は?」
「CE号の二階個室にかくまわれています。海中に潜った当隊員が負傷者二名をこの救難艇に収容しようと試みたのですが、カニに狙われ、やむを得ない処置でした」
「CE号の二階からこの船に、二人を運び込めばいいの?」
彩香が尋ねると、船長がはい、とうなずいた。隊員たちが頭を下げた。
シャンテ・エスプリ号に横づけする位置へ救難艇が動く。近づくと、客船の姿は想像よりも大きい。
彩香はシャンテ・エスプリ号の外板に張られたワイヤーに手をかけた。外板に対して体を垂直に使って登攀する。ほんの数歩で二階デッキに身を滑り込ませることができた。
「物見遊山で怪我か」
そうつぶやきながらも、実は応急手当の講習を受けた由太郎が続く。ロングコートのすそが風にはためく。
仲間の御暁 零斗(
ja0548)が要請した船内のマップを受け取る猶予はなかったが、水と血で濡れた跡を辿れば、個室へたどり着くのは容易だった。
個室には負傷者二名の他、救難隊員一名の姿があった。花嫁の控え室だったと見え、部屋の隅にお色直し用らしき赤いドレスが用意されていた。そして床の上、負傷者をくるむシーツは、ドレスよりも濃い赤でにじんでいる。
「お待ちしていました」
低く抑えた声で隊員が言った。持参した救急箱を開け、隊員が施す応急処置を由太郎も手伝った。
彩香が負傷者の一人を背負う。背中からずり落ちないようタオルで縛った。
「容体を悪化させちゃわないように、慎重に、でも迅速に、か」
由太郎はもう一人の負傷者の呼吸と体温を確認し、出血のない部位にマッサージを施した後、その者を抱え上げた。生きている。肌の下にかすかな温かみがある。
振動を与えないよう注意深く、来たルートを戻る。シャンテ・エスプリ号の外壁を降り、負傷者二名を救難艇に収容したとき、二人の手のひらはすり切れていた。
救難艇が陸に向けて出発する。目指す灯りがまるで生の象徴であるかのように。
一度味わった血の匂いが薄れてゆくのを感じたのか、シャンテ・エスプリ号の舳先で戯れていたカニがゆらりと大きなはさみを掲げた。
●ご列席の皆様がお集まりの船
由太郎と彩香が救命胴衣を着けている頃、残り八名はシャンテ・エスプリ号へ移乗した。
「船内の乗客の一階への避難は全員確実?」
染 舘羽(
ja3692)は海上保安庁の職員に尋ねたものの、確答を得られなかった。キャプテン長久保の第一報によると「乗客は150名、乗員は45名」のはずだ。全員の確認が取れていないのだとしたら問題である。
ヘリが来ない今、甲板で照明を集められる場所は二階のオープンデッキに限られる。戦闘も主にそこで繰り広げることになるだろう。
護衛班の任務を受け持つ舘羽と黒百合(
ja0422)は階段を上らず、まっすぐパーティー会場へ向かう。分厚い扉を開くと、まばゆい光が満たす大広間が広がっていた。天井には数々のシャンデリアがきらめく。この光が外に届かないのが残念だ。
着飾った祝い客たちは披露宴が中断された状況をあやぶみ、噂に興じていた。酒が入った者は声も大きく、ざわめきは騒々しい。
人波の奥に新郎新婦が見えた。晴れの日の突然のアクシデントを嘆いているのか、気丈に振舞っているのか、ここからはわからない。
「クルーズ記念のチョコレートです」
給仕係らしき制服を着た男性がテーブルの間を回っている。
「たくさんご用意しておりますから、撃退士の方もどうぞ」
黒百合と舘羽は差し出された包みをそれぞれ受け取った。
「乗客の人数確認と名前の確認は済んでるのぉ?」
「いえ、それが……皿の枚数ならぱっと一目で数えられるんですが、お客様は動かれるので、増えたり減ったり……」
頼りない返答である。
「お皿にはないけど、人間にはある便利なものってわかるぅ…? 名前よ、名前…。乗員は船と乗客を守るのが役割でしょ? なら、こんなときこそ『プロ』として行動しなさいよぉ? 私たちも『プロ』として貴方たちを守ってあげるからさぁ…?」
「は、はい」
「それから毛布を用意して、乗客が休める場所を作った方がいいと思うわぁ」
礼服姿のまま、ハイヒールや窮屈な革靴で過ごすのは疲れるだろう。
乗員に指示を出し、二人は計算を繰り返す。
負傷した乗客は二名と聞いている。救助班が先に向かった。
パーティー会場にいる乗客は百四十七名。料理人や給仕係を含め、乗員は四十一名。
操舵室を離れない乗員が四名。
避難していない乗客がいないか、艦内放送で注意を促したにも関わらず、一名足りない。
「二度と陸地を踏めなかったらどうしよう……」
半泣きですがってくる乗客に、舘羽は明るく答える。大丈夫、天魔はちゃんと退治する。必ずパーティーを再開できるから。家の布団でまたゆっくり眠れるからね、と。
「こちらの方がいらっしゃらないそうです。乗船されたのは確かなのですが」
点呼を担当していた料理人が報告に来た。結婚式の受付名簿との照合により、行方不明の一名が判明したのである。
「黒百合さん、この場は任せるね。佐藤裕子さんってひとを探してくる。何かあればすぐ戻る」
「気をつけてねぇ」
お一人で大丈夫ですか、と皿カウント専門の給仕係が不安そうに尋ねる。
「もしカニに会ったら、カニみそでも取ってくるよ」
舘羽の軽口に給仕係が笑った。
乗客の捜索に出る舘羽を見送り、黒百合は言った。
「カニがこの会場を襲わない限り、積極的な攻勢は控えるわぁ…。ここは明るいけれど、念のため、カニを照らす追加の照明機材があれば用意をお願いねぇ…?」
「了解しました。上の者に伝えます」
「せっかくの素敵な時間を潰されて主催者側も色々と迷惑でしょうねぇ…」
舘羽はパーティー会場を出て、化粧室を確認した。無人だ。
階段を駆け上り、二階へ上がった。オープンデッキに駆除班の仲間の姿が見えた。
化粧室を確かめる。女性用化粧室の個室が一つ、ふさがっていた。
「佐藤裕子さん、いますか」
「……」
中で身じろぐ気配があった。
「あたしは撃退士です。出てこられる? 皆、一階に避難してるから」
舘羽は扉越しの返答を待つ。
出ます…と、か細い声が聞こえ、紫色のドレス姿の女性が扉の陰に見えた、その刹那。
黒く濡れた鋭利な何かが目の前に現れた。
光纏も武器の用意も一瞬遅れたが、舘羽はとっさに乗客をかばった。腕に痛みが走る。
戦いたい、この手で狩ってみたい、と願っていたカニのはさみがなぜ突然、室内に現れたのか。
(物質透過能力だ……! あたし、阻霊陣を持ってない!)
カニをオープンデッキに誘うしかない。舘羽は背後に乗客をかばい、はさみの攻撃を避けながら船内を進んだ。
(甲羅が約3メートル、足を含め約8メートル)
はさみは何メートルあるだろうか。大きすぎて全貌をとらえることはかなわなかった。
室内で戦うべき相手ではない。
●豪華食材を乗せた船
少し時間は戻り、舘羽と黒百合が広間の乗客を数えている頃、カニ駆除班の六名は巡視艇の隊員と連携し、ライトの調整を行っていた。甲板に光が集まる様子はパーティー演出のリハーサルに見えなくもない。
「ウェディングクルーズを襲うなんて……今回の天魔は確実に独り身だな」
零斗はシャンテ・エスプリ号の船内マップに視線を落とす。
「被害が広がらないうちに片づけないとな」
御影 蓮也(
ja0709)が答えた。
グラルス・ガリアクルーズ(
ja0505)は巡視艇に向かって声を上げた。
「カニが海に逃亡を図ろうとした際は、こちらへ光を当ててください。お願いします」
与那覇 アリサ(
ja0057)と或瀬院 由真(
ja1687)は手持ちライトを借りてきていた。
木ノ宮 幸穂(
ja4004)は風向きを読む。どちらの方角からカニに攻撃をしかけても問題なさそうだ。
いよいよ駆除作戦決行、と六名が目と目で合図を送ったそのとき。
船が揺れた。
錨を下ろし、停泊していた船が安定を失い、ゆっくり波にもまれ始める。
「左舷アンカーを切られました……」
シャンテ・エスプリ号乗員の声が、信じられないといった響きを帯びている。
すぐにもう片方、右の錨が下ろされる。
騒ぎに乗じてか、舳先にいたカニの姿が消えていた。
「どこ行った!?」
周囲の巡視艇からは、カニが海中に逃げたとの報告はない。船内に侵入したと考えるのが自然だろう。そう思い至った由真は、近くにあった消火用ホースに阻霊陣を当てた。阻霊陣の効果を船体に伝達するのだ。
室内入り口から舘羽が転がり出てきた。紫色のドレスを着た乗客を抱え込み、腕に傷を負っている。
パーティー会場で避難客の護衛に当たっていたはずの彼女がデッキに現れるということは――
「舘羽さん、まさか」
グラルスが駆け寄る。
「ううん。一階は大丈夫のはず。二階のトイレに出現したから、皆がいるこっちに連れてきた」
舘羽が言い終わらないうちに、それは現れた。
透過能力を阻まれたカニだ。
オープンデッキの横幅は12メートルあるが、その半分以上をふさぐ巨体である。
すかさずアリサと由真がライトを当て、カニは動きを緩めた。
「これだけ大きいとやっぱり……」
零斗が口ごもる。
「ゆでたら何人前になるだろう……と、あのはさみや大きさはそれだけで脅威だよ」
蓮也が言い、
「でっかいカニさー。食えればなー」
アリサが感嘆の声を上げる。
「しかし美味そうだな」
零斗の目にもそれが敵ではなく食材にしか見えないのだった。今は黒褐色の姿をしているが、ゆでれば赤くなるだろう。中まで熱を通すには、この船と同じくらいのサイズの大鍋が必要になるが。
「カニは好きだけどサーバントのカニは食べようと思わないな」
グラルスの言葉で、撃退士たちはカニの正体を思い起こす。倒さなければならない。
「みんなの夢が絶たれないように」
幸穂の手の甲に、羽模様が浮かび上がる。
アリサの周囲には七色のオーラ。
カニは鈍い動きで足を進めてくる。表情は読めないが、天使が作り出したサーバントだ。戦意はある。
舘羽が乗客を守りながら室内に身を隠したのが、開戦の合図となった。
「そう簡単に一般人を襲わせたりはしません!」
片手にトンファー、片手にライトを持った状態で由真はカニと向き合う。小さな目は由真を映しているのか、いないのか。
アリサはライトを手にしたまま、蹴り攻撃を開始する。カニが甲羅ごと覆いかぶさってくるが、真下からキックを決めて逃れる。まるで獣の動きだ。
「でっかいカニさー。食えればなー」
はさみへの攻撃は打ち返される。
「切れ味がよくても、届かなくては意味がないですよね?」
由真がはさみの根元を強打する。
「一点に集中しよう。腹あたりも柔らかそうだ」
蓮也が提案した。グラルスも同意する。
「硬そうなイメージだけど脆い部分は少なからず見つけられるはずだね。たとえば関節」
幸穂は着物の袖をまくり、カニの背後から片目を狙う。
蓮也はカニの足関節に打刀で斬りつける。硬い。だが手応えはある。
零斗は関節部を狙って蹴りを放つ。敵のはさみ攻撃を回避して手すりに飛び乗るが、
「……っ」
手すりが濡れていた。足が滑り、ライトで目がくらみ、体勢を崩した零斗は冷たい海に転落――
と思いきや、支えた手があった。
「あーっと…もう倒されちゃったりしてるとおっさん楽なんだがそんな旨い話はねえか?」
由太郎だ。
救難艇が再び戻ってきたのだ。最初に負傷者の救出に向かったときと同様、外壁を上り、由太郎はシャンテ・エスプリ号のデッキへ移ってきた。
「こういうときライフルとか欲しくなるよなあ……購買部の武器高すぎだっつうの」
彩香は救難艇に残ったまま、ライトによる援護に加わる。
「今から乗り込んでいくには遅そうだけど、こっちならね」
由太郎の助けで戦線に復帰した零斗は前髪をかき上げ、獣のような笑みを浮かべた。
「ひっくり返れぇぇぇ!」と、アリサが吠える。
片方の目と片側の足を潰されたカニは移動ができなくなった。
「動きは止まったか。後は中からダメージを与えれば……!」
グラルスはスクロールをカニの口にまっすぐ向ける。光弾が炸裂する。
「由太郎さんと幸穂さんも口を狙ってもらえますか」
ピストルの銃口、そして弓矢がカニの口をとらえる。
カニは泡を吹き、腹を空に向け、やがて動かなくなった。
(やっと終わった…重体者は大丈夫だったろうか……)
蓮也は時刻を確認する。
現場海域に到着してから三十分が経過していた。
その間、撃退士の戦闘を一目見るため、パーティー会場から出ようとする酔客をなだめるのに、黒百合と舘羽は苦心していた。
「あの程度の相手に後れを取るような連中じゃないから安心しなさいよぉ…。っていうか、安心しろ!」
ハイテンションな叱責を浴びた客たちの間で、「黒百合様ファンクラブ」が結成されたとか。
●日常へ帰る船
撃退士たちはシャンテ・エスプリ号を離れ、久遠ヶ原学園の高速艇に乗り込んだ。
素顔でのお喋りが始まる。あのカニを食材として味わえなかった不満をつのらせる者と、逆にもうカニを見るのも嫌だと主張する者に意見は分かれた。達成感と疲労が混ざり、一般人がいる場では言えなかった本音も出る。
たとえば救命胴衣。いざというときのために駆除班も装着しておくべきだったろう。
「船の錨に被害が出たのが残念だったな」
由太郎から手当を受けながら舘羽が言う。
「さんざんな結婚式だったろうけど、あの人たち、幸せになれるといいなぁ」
着物のすそを気にしながら、体育座りでひざに顔をうずめ、幸穂が言う。夢は守れた。由真が少し眠たげな表情でうなずく。
「しばらくカニは勘弁だな」
蓮也はレザーグローブを外した。
高速艇とはいえ、学び舎のある島に着くまではまだ時間がかかるようだ。
ディーゼルエンジンの音に負けないよう、やや大きめな声で会話は続く……。