●終章の矢
東京都江東区。巨大展示場を仰ぎ見る位置に、使徒ナターシャ(jz0091)が構築した精神吸収拠点がそびえる。
スター・サーカスのテントを隠れ蓑とする通称湾岸ゲートだ。一般人の立ち入りが禁じられた後、夏から秋にかけて完成したと見られる。
残された二頭の動物の救出が成し遂げられたのは十一月。
そして今、新人と熟練、総勢十三名の撃退士チームが向かう。
「……そろそろ勝たせてもらうよ、ナターシャ様」
つぶやきは北風に乗って消える。
周囲の空気よりさらに冷えた空気をまとうユウ(
ja0591)は、テントを見すえた後、凛とした瞳をナイトビジョンで覆った。
陽の光は弱く、気温は昼間も十度を超えない。ユウの季節が到来している。
「まずは光源確保でOK?」
学園からの発案により、卒業生撃退士も投入された。すぐに動ける学生九名では守りに不安のある編成となったため、アストラルヴァンガード、ディバインナイト、バハムートテイマーの先輩に支援を要請した。
とはいえ、作戦の主体は学生たちだ。
「はい、お願いします。戦闘時には回復を」
若杉 英斗(
ja4230)は動きの最終確認をし、真帆からレジストポイズンの加護を受け、結界内に侵入した。足取りに迷いはない。
フラッシュライトを腰にくくりつけた姫宮 うらら(
ja4932)は外界との差を感じ取る。風がない。音がしない。まるで時間が止まっている。聞こえるのは自分たちの足音と息遣いだけ。
不吉な影がよぎった。
「現れましたね、一匹目」
うららの前に蜘蛛型サーバント、ウィンドスパイダーが口を開けている。黄色と黒の縞模様だ。ぴんと張った純白の金属糸で先回りして蜘蛛の動きを封じる。糸の強度ならば負けない。
遊佐 篤(
ja0628)が叩きのめす。蠢く脚を鑑夜 翠月(
jb0681)がつぶす。
卒業生が盾になるまでもなく、火力を集中させた手始めの戦いは蹴りがついた。
「糸は魔法で劣化させてからだと排除しやすいみたい」
英斗の助言を受け、各自が工夫して蜘蛛の巣を払う。
篤は近距離と遠距離で武器を持ち替え、天井近くの巣も根こそぎにしてゆく。連なった巣は敵の経路だ。取り残せばこちらにとって脅威となる。
前回よりも早くテント中央へ近づいている。翠月は手応えを感じた。
同職であるナイトウォーカーの悪魔、饗(
jb2588)も味方にいる上、全員が感知や隠密のスキルを持っている。
バハムートテイマーがヒリュウを放った。
索敵と巣の除去を続けるリゼット・エトワール(
ja6638)は言葉少なだ。篤が気遣い、
「どうした?」
うつむいたリゼットの頭を軽くたたく。
「一緒にがんばろうぜ」
太陽と大地の恵みを充分に受けた麦穂のようなリゼットの髪が、闇と光の中で揺れた。
(ここが舞台裏か。動物たちがいたのはこのあたりだな)
霧崎 雅人(
ja3684)は一連の作戦に関する報告書をつぶさに読み、見取り図を頭に入れていた。
仲間が照らす光の輪の中、雅人の冷静な観察眼は小道具や舞台装置を一つ一つ確かめてゆく。
(マンホールのふたがある)
リゼットもまた同じものに目を止めていた。動物の檻が置かれていた場所。前回の脱出時にはナターシャの攻撃をかわして逃げるのが精一杯で詳しく調べていない。床下収納庫があるようだ。
一行は舞台裏を抜け、舞台に上がった。蜘蛛の罠がないことを確認し、中央の奈落入口に身を滑り込ませる。
奈落――地獄の意味を持つ名称で呼ばれる、舞台の床下に広がる空間は、高さ二メートルほどの光なき世界だ。
雅人と饗は猫背気味の姿勢を取る。
ユウはあたりを見回す。使徒は未だ姿を現さない。
リゼットは姫椿を小型のライトクロスボウに持ち替え、足を速める。
透明な壁で遮られた小さな部屋に道化師・乃木春香はいた。両手を腹の前でそろえ、横たわるその顔には何の感情も浮かんでいない。
先月見たままと同じ姿だ。
(私……春香さんが敵とグルだったら…と疑ってしまったことがありました)
ゲート内部では一般人は即死するのが定説だ。ゲート周囲の結界内での精神吸収を経て死に至る場合、数週間から数ヶ月かかると言われている。
ここがゲート内である以上、生きられるのは天魔か撃退士のはずである。
リゼットの疑いは理にかなったものだ。しかし、彼女は自らを責めた。
(実際、春香さんは囚われていたというのに……ごめんなさい、春香さん)
自責の念は強い決意に変わる。リゼットは透明な壁に向かって魔法を放った。
(……今度こそあなたを助けます)
●終章の引き金
「ああ、間違いない」
先輩撃退士はこの透明な部屋こそゲートコアであろうという見解を示した。
リゼットに続いて翠月が撃った魔法も、壁に吸収されて消える。
「しかしこんな硬いのは珍しいな」
(夢与えし舞台を虚無と静寂へと変えた元凶はいずこ――)
「姫宮うらら、獅子となりて、参ります……!」
リボンを解いたうららは白髪をなびかせ、コアに駆け寄る。
篤が呼び出した炎は壁を焦がすことも溶かすこともできない。
「……駄目か。コイツならどうだっ!!」
熱した壁の同じ箇所に水泡の忍術書を使う。温度差でヒビが入るのではと試す。
うららも加わり、カオスレートを変動させ、一点撃破を狙う。
純白の斬糸が爪となり牙となって壁に刺さる――も、弾き返されてしまう。
救出対象は目の前に見えている。うららは、たぎる激情を隠せない。
(壊せぬならば壊れるまで何度でも)
救い出さなければ、ここに来た意味がない。
「……全く無傷かな。これだけの強度を持ってるんだから、何か仕掛けがある気がする」
ユウの言葉に仲間たちがうなずく。
「入口や扉の開閉スイッチがないか探してみましょう」
英斗が提案する。中に囚われている人間がいる以上、どこかに入口があるはずだ。
ユウは透明な部屋の裏手へまわる。どうやらコアは奈落の端をふさぐように位置している。
身をかがめ、コアの上部を仰げば、天上に開口部が見える。
「……扉」
どこに通じているのだろうか。
「ここに来る途中、気になるものがあった」
雅人が口を開いた。
「私も…床に地下への入口に似たふたを見ました。舞台裏、北東です」
リゼットが位置を説明する。
奈落への入口は、舞台中央だけではない。
そもそも奈落がどういう用途で作られたか考えれば、表舞台と舞台裏の迅速な行き来を可能とする通路である以上、地下空間は舞台裏にもつながっているはずなのだ。
「上がってみましょう」
翠月の言葉に全員がうなずいたそのときだった。
「使徒出現」
バハムートテイマーが苦悶の表情を浮かべる。アストラルヴァンガードがテイマーを癒す。
一行はコアを離れ、もと来た入口に急いだ。
しかし状況は変わっていた。舞台中央の奈落入口は厚い金属板で覆われ、びくともしない。
「生き埋めにするってのか?」
篤はふさがれた天井部分を蹴った。足裏のスパイクが甲高い音を立てる。
英斗は体当たりを試みる。
柱と梁に囲まれた狭い奈落での戦闘は避けたい。ところがどうだ。戦闘どころか、敵は手を汚さず、撃退士たちを地下に閉じ込めた。認めたくないが、このままでは手も足も出ない。
「コアさえなければ……」
真帆がつぶやく。舞台裏に通じるはずの奈落のもう一つの出入口を、コアそのものが封じている皮肉。
すぐに酸素が尽きる事態にはならないだろうが、このままでは道化師救出もコア破壊も無理だ。
「……ナターシャ!」
複数の叫び声が上がった。透明な壁の向こうにナターシャが現れたのだ。
本来の風貌を隠そうともせず、黒いパンツスーツ姿のナターシャは無抵抗の乃木春香に手をかける。
迷っている暇はない。
ユウはテイマーに向かってうなずいた。第二段階への合図だ。
死闘に突入する前に、少しの余裕を持てたのは幸いだった。ここから先はストレイシオンによる防御効果を期待できる。
撃退士たちは息を合わせ、天井を打ち壊す。
ユウは魔法書を持ち、雅人は拳銃、リゼットは太刀で。
阻むならぶち破るまでだ。生き延び、救い、生かすために。
奈落の梁が砕ける。金属板がゆがみ、爆発したかのような派手な穴が舞台中央に開いた。
「釘が出てます。気をつけて」
もうもうと土煙が上がる中、英斗が破れた床板を指し示す。
篤は上着の内側に収めた阻霊符を押さえる。うららが咳き込む。
奈落を脱出した一行が目指すは舞台裏。
二頭の動物の檻があった場所に、ぼろ布が置かれている。
マンホールに似たふたを開ければ、きっと地下のコアに通じているはずだ。
英斗が手を伸ばす。ふたは見た目の重厚さに反し、たやすく外れた。
ほんの五段、下り階段が設けられている。
のぞき込めば案の定、透明な扉が見える。中にはナターシャと春香の姿がある。
敵は人質を取っている。
こちらの動きも読まれている。
一気に踏み込むか、おびき寄せるか。
撃退士たちは息をひそめ、円を描く形で「もう一つの」奈落入口を囲んだ。退いて待つ。
●終章の炎
「ずいぶん乱暴なお客様ね。道化師がどうなってもいいのかしら」
挑発的なナターシャの言葉に、翠月は淡々と応じる。
「この前はレオさんたちの救出班でしたから、ナターシャさんと直接会うのは初めてですね」
「此度で舞台の幕引きと致しましょう」
うららは品よく提案する。
「結末を決めるのは私であって、あなたたちじゃないわ」
ナターシャが春香を左腕に抱えたまま、地下から出てきた。
撃退士たちに見下される立ち位置は好まないだろうとの読みが当たった。
篤の影縛りと、ユウの凍手がナターシャの四肢を封じる。
翠月の魔法書から花火に似た鮮やかな炎が広がる。
炎はナターシャの金髪に到達し、弾け散る。春香に害は及んでいない。コグニショングラスで命中の精度が上がっているのだ。ディバインナイトが盾となってくれるおかげで、攻撃に集中できるのも大きい。
ナターシャが身じろぐ。震える右手のグローブの先、小さな稲妻がじじじ…とくすぶっている。
雅人の銃口から発せられた弾がナターシャの顔すれすれをかすめた。
「行くぜ!」
すかさずうららと篤が跳ぶ。
ナターシャの左腕から人質を奪い、離れる。
ほんの一秒か二秒のできごとだった。
束縛が効いたわずかなすきに、連携によって春香を保護できた。
リゼットの弓矢はまっすぐナターシャに向けられている。
――形勢逆転。
春香を抱えた篤をかばう形で、英斗と先輩ディバインナイトが前に出る。
「こんな場所にいていいんですか? ギメルの手伝いに行った方がいいと思いますけどね」
懐に飛び込んできた英斗の言葉に、ナターシャは眉をつり上げた。
「そんな心配をされる筋合いはないわ!」
非情で冷酷なナターシャが激するとは珍しい。ユウは憧れのひとを見つめる。
余裕のなさは、ギメル・ツァダイ(jz0090)が新しい使徒を得た件と関係しているのだろうか。
「たった十三人とは見くびられたものね。でも何人で囲もうとも同じ。私の仕事の邪魔はさせない」
白い手から生まれた紫雷の剣は大きく花開き、英斗の腕、うららの頬、篤の背中に次々突き刺さる。
「ぐ……」
金剛術が間に合わず、背をそらせた篤の喉奥からうめきが漏れる。衝撃で外れたヘッドライトが床に転がる。
春香をかばい、痛みに耐える篤にすかさずヒールが浴びせられる。
「やらせはせんよ!」
続く攻撃を雅人とリゼットが回避射撃でそらす。
当初の予定ではナターシャ対応班とコア破壊班に分かれる作戦だったが、想定外の流れになった。
(臨機応変に)
雅人は攻撃の機を狙い、シングルアクションで相手の胸と頭を狙う。
うるさい羽虫をはらう仕草で、ナターシャがその弾をよける。
なおもナターシャを狙う雅人を、青い双眸がとらえた。
「小賢しい真似を」
宙を鋭く裂く雷撃が雅人に迫る。
――かわしきれない。息を呑む。痛みは白い光となって雅人の視界を覆う。
篤は春香を抱え、カーテンの陰に逃げ込んだ。
春香の意識はない。飲み食いできる状態でないのは明らかだ。これ以上の精神崩壊が進まないよう、真帆が縛魂の詞を詠唱する。
うららと響が奈落に降りた。
透明な壁にひびが入る。コアの扉を開け放った状態であれば、物理と魔法両方のダメージを与えられる。
他班が使徒の相手を引き受けたのを確かめ、リゼットも地道な破壊作業に加わる。
誰もが自分にできる最大限の働きを果たす。
必ずコアを壊し、道化師を救出する、という熱い思いを胸に。
ユウはまるでダンスを踊るようにナターシャと対峙する。
前衛の陰に隠れ、隙を見て間合いをつめ、再び束縛を試みる。
寂しがりの凍手が使徒の孤独を知ろうと伸びる。青白い手からナターシャが逃れる。
ナターシャと翠月の魔法がせめぎ合う。
英斗と卒業生、二枚の銀の盾が雷剣の炸裂を防ぐ。
(ここでナターシャに手傷を負わせれば、他の戦線で有利になるか……)
英斗は渾身の力を込めて肘を振り下ろす。スネークバイトが輝きを放つ。
英斗ともみ合うナターシャに、ユウは破魔弓を向ける。白銀の矢が氷槍となってナターシャの足を突く。ナターシャの目が見開かれる。
相手に与えた痛みと、雷撃を受けた自分の痛みが、重なる。
うららの一撃が決め手となった。
コアが割れた。
ゲートを保っていた心臓部が、砕け散った。
乾いた音が弾けた。しんと冷えた空気がかき混ぜられ、あたりは雑音に包まれる。
使徒の圧力から解放され、アウルのほとばしりを感じながら、英斗は荒い息をついた。
「何とかなりましたね……」
翠月が微笑む。
首にべったり汗をかいていた。手の甲には血がにじみ、口の中も苦い鉄の味がする。ほっとした途端、めまいを覚えた。
「……コアは壊れちゃったみたいだけど、どうする?」
「次のゲートを作る準備はできているわ」
無数の欠片となって崩れ落ちる湾岸ゲートを背景に、ナターシャは答えた。
ならばまた出会うだろう。
ユウは表情を変えないまま、傷を負った使徒にしばしの別れの言葉を告げる。
「……サーカスはこれにて閉幕。また次の舞台で、ね」
「外についたぞ……安心しろよ?」
篤が春香に話しかける。
救急車のサイレンが近づいてくる。収容する医療施設は真帆が手配した。
閉ざされた春香のまぶたから涙がこぼれ落ちた。
人間の心の不思議を教える涙だ。体温が低下し、脈の弱い状態でも、かすかに残った感情がある。
リゼットがレースのハンカチを取り出して春香の頬をぬぐう。
作戦をやり遂げ、いつものリゼットに戻った様子を認め、篤は口元を緩めた。
かけがえのない命を救えた。
おそらく春香の治療は長く続く。でもいつか、失われた感情を取り戻す日が来ると信じたい。
悲劇に襲われたサーカスは再建を目指すだろう。
「公演手伝います、ってジャグラーさんにお返事していいかな?」
真帆の問いかけに仲間たちがうなずいた。