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恐怖に凍りつく身体とは別に、西飯の呼吸は緊張に急かしく熱くなっていた。
その背は体育倉庫の背に張り付いている。ただ、ひたすら眼前の生物二体から距離を取ろうとした結果だ。
一方、閉じられた扉を歪めんとするように拳を振り上げていた酒谷は今醜悪なる生物を前に鉄パイプを構えていた。その据わった眼は強い怒りに支配されている。
じょりっ
均衡を崩すにはその小さな音だけで十分だった。
「あぁあああああ!!!」
叫びをあげ、掲げたパイプと共に酒谷は一歩を踏み出す――。
だが、酒谷は所詮一般人。その一歩は人外から見ればとても、とても遅い。
般若はその時、笑っている様に西飯には見えた。
――ビュンッ!
一本の矢が、般若と酒谷の足を止めた。
「今の内だ!」
天風 静流(
ja0373)は放ったばかりの弓から片手を離し、阻霊符を取り出すと周囲に透過のできない空間を作り出した。
声に頷き、ソフィア・ヴァレッティ(
ja1133)は巨大蜘蛛の一体に向けて手を突きだす。
「La Spirale di Petali!」
無数の花弁が渦を形成しながら鬼蜘蛛に向かう。視界を覆われ、蜘蛛は止む終えず立ち止まる。
もう一体の鬼蜘蛛に黒い霧を纏った銃弾が撃ち込まれた。蜘蛛の背に向かって森田良助(
ja9460)は挑発の言葉を投げかける。
「痛かったかい? ならこっちだ! 憎い敵はここにいるぞっ」
すぐには反応がなかった。だが、微動後にぐるりと体が旋回した。見えたのは、般若顔。
それを見て、ユウ(
jb5639)は気づく。
「――鬼蜘蛛、ですね。不可視の糸を吐いて攻撃を仕掛けてくる可能性があります、警戒を怠らないでください」
仲間へと注意を喚起するとユウは良助と並ぶようにしながら銃撃を注ぎこむ。
これでこの蜘蛛の意識はユウと良助の方へと完全に向かった。
「ドアから離れて待ってるじゃん! 絶対助けるさー!」
ガート・シュトラウス(
jb2508)は体育倉庫の内部に向かって一声かけた。
扉は閉まっているが、外の声や音は聞こえているはずだ。中にいる者たちは戦闘音で怯えているだろうから。
「なんだよ、あんたら――」
機先を制されて鼻白んでいた酒谷がようやく、といった態で口にした。
「撃退士さ。中にいる子がね、依頼したんだよ」
友達を助けてくれ、てね。
ちゃめっぽく言うアサニエル(
jb5431)にハッと息を飲んだのは西飯だ。酒谷が驚く西飯を見て、それから顔を伏せた。
「さ、行くよ。落ちたくなかったら暴れないことだね」
唐突、と言っていいほど素早い動きでアサニエルは酒谷をがっしりと抱え込んだ。そのアサニエルの足が地面から離れた。それに二人とも目を白黒させる。
抗議する酒谷をアサニエルが言葉で押さえるのを横目に、ガートはへらっとした笑顔で西飯に手を差し出した。
「だいじょーぶだいじょーぶ。強いやつばっかだカラ安心するじゃん」
後ろを気にする素振りを見せる西飯に言えば、その手が取られた。
その、避難しようとする二人と撃退士二人に殺気が送られた。咄嗟、ガートは掌に発生させた靄を投げつけた。
その手足で邪魔な桃色を散らした蜘蛛は再び、その視界に靄を被った。
「悠長にしているな、さっさと行け」
黒い翼をその背に出現させた谷崎結唯(
jb5786)が蜘蛛とガート達の間に入りながら言った。その手に抱えるのは短機関銃に似た、銃器PDW。そこから鋭い銃弾が般若の眼を目がけ、放たれる。それ幸いと、ガートは駆ける。
ガラッ!
職員室の扉が唐突に開かれた。
息を荒くさせる、一人の生徒と、明らかに生徒ではないとわかる赤髪の女性。
「君、ここは……」
「撃退士です。校庭に天魔が出現しました、すぐに避難をお願いします」
エルネスタ・ミルドレッド(
jb6035)はそこにいた教師たちに訴えかけた。
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「と、ここでいいか」
アサニエルが酒谷を解放し、自分も足を落ちつけながら翼を消す。
ガートも抱えていた西飯を降ろす。
「オレっちたちはこれからやることあるから行くケド、問題起こさないよーにね」
その言葉に、西飯が視線を横に流した。
酒谷は眉をしかめ、表情を硬くさせたまま返事もしない。
「んー、オレっちは事情とか聞いたわけじゃねーけどさ、見ればわかんじゃん?」
酒谷の握ったままでいる鉄パイプに視線を向けながらガートが言う。その言葉の端々にトゲがあるのは酒谷もわかっていた。
「なんにせよ、あたしたちの優先順位は変わらないからね。まずは害虫駆除さ」
後で、と言いながらアサニエルは酒谷の頭に手をやった。そして、西飯にも。撫でる様にしながら、その実アウルを流して一時的にその心に抱える動揺や恐怖心を緩和させる。
「事件の詳細も後で聞くからね、大人しくしてるんだよ」
言うと、アサニエルはその背に翼を出した。
「じゃさ、聞きたいんだけど、放送室ってドコ?」
「すぐに行動できるように一階に集まって。万が一の衝撃に備えて机の下に隠れておくこと、いいわね」
教室に残っていたらしき女生徒二名を保護し、言い聞かせたエルネスタは息をついた。
職員室にいた教師たちに事情を説明し、避難場所を決めたエルネスタが生徒たちに声をかけはじめた頃、放送がかかった。
天魔が校舎に出現したものの、既に撃退士が動いている。教師の指示に従い、避難してほしい、その旨。
既に撃退士が動いている、という状況から比較的混乱は少ない。だが、放課後ということもあって生徒たちは散り散りで、残っている生徒がどれだけいるのかも正確にはわからない。それでもある程度避難が終了した。
「――悪い子のところには怖いお化けが来るとは言うけれど……。悪い子でもいたのかしら?」
黄昏時に呟き、エルネスタは二階の窓から身を投げた。
柔らかな動きで衝撃を地面に逃すと、すぐさま走り出す。その足元にはアウルが磁場を形成し、移動を補佐していた。
(あの二人の内、一方が不自然に傷ついていたな……)
静流は後者から退いた二人を見送り、内心で呟く。
一方は鉄パイプを握り、もう一方は動くたびに顔をしかめていた。どこかを痛めているようだったが、見える所にはない。
その不自然に眉を潜めつつも、今考えるべきことではないと首を振った。
避難するガートたちを狙うよう、校舎に顔を蜘蛛は必然、静流に尻を向けている。それを逃すはずもなく、弓から変えた薙刀で接近戦を仕掛ける。
素早く距離を詰めると、十字を切る様に斬りこむ。そのまま流れる様にもう一撃。
「二式――黄泉風」
蒼白い光を纏う刃が神速の速さで撃ち込まれる。
衝撃を伝播させ、内部から破壊する攻撃だ。本来なら体中に広がるその衝撃で一時的に体が硬直する、はずなのだが蜘蛛はその例に倣わなかった。
蜘蛛はその顔を巡らせ、静流に向け何かを放ってきた。軽く後ろへ跳躍しながら薙刀でガードする。
粘性のあるそれが静流の手に絡んだ。先ほどユウが言った、不可視の糸だ。それを剥ぎ取りながら蜘蛛を見やって、静流は眉をしかめる。
「――浅かった、か」
見た目に相応しかなりのタフらしい、と結論付ける静流。そんな時、変化は起きた。
「……なんか、攻撃力あがってない?」
般若顔がさらに険しくなっているような気がしてソフィアは一瞬、攻撃の手が止んだ。そのことを素早く悟った蜘蛛は突如、ソフィアに向け突進を開始する。ハッとして後退するも、先ほどの倍ほどの速度で蜘蛛は迫ってきていた。
ソフィアは巨大な魔導ライフル、アハト・アハトの88mmともなる銃口に素早くアウルを溜めると、放った。
「Il Tuono di Sole!」
高密度に高められた金のアウルはまるで太陽のような輝きとともに刺々しく銃弾に絡み、蜘蛛を貫いた。
「――ふぅ、粘り強かったわね……」
高速で放たれたその弾は般若顔に大きな穴を開けていた。
ドォン――ッ!
巨体が、地に伏す。
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避難の完了したことを見届けたユウはすぐさまその身に翼を宿した。いくら校庭とはいえ、蜘蛛の巨体が幾つもあっては戦場が狭いのだ。
地上から銃弾を打ち続ける良助とは対照的に、上空から銃弾を撃つユウ。
そこに、光玉が撃ち込まれた。
「ちょいと遅くなったかい?」
アサニエルが符を掲げながらちゃめっぽく言った。
低空にいるアサニエルに向かって、蜘蛛は足を上げた。その先についた鋭い爪がアサニエルの体を引き裂こうと迫る。だが、アサニエルは至極簡単に、上へと向かい避けた。
ドスン、と体重の掛けた踏みつけが的を外しながらも地面を揺らした。
もうもうと、煙が沸き立つ。その中で蜘蛛の巨体だけがやけに目立つ。般若が餌を見つけようとぐるりと視線を動かし、小さな影が見えた。
「的が大きいね。全部当ててくれってことかな」
軽口を叩きながら、良助は蜘蛛に銃撃を撃ち込めば蜘蛛は早々、良助をターゲットに決めて動き出す。
良助は銃撃しながら、少しずつ後退する。対して、蜘蛛の一歩は大きい。徐々に距離は詰められていくが、良助の狙いは別にあった。
ふと、蜘蛛の上に翼が羽ばたく。
「脚甲――烈風突!」
銃器から脚に装備する武器へと変更させながら、ユウは眼にも止まらぬ速さで巨体に突撃、蹴りつける。
ガッと重い音を立てながら、蜘蛛に不意打ちを浴びせたユウは攻撃の反動で上に跳ばす。翼で再び攻撃の姿勢を取りながら、今度は槍へと武器を変更する。そうして弾き飛ばすような勢いで槍を振るった。
「おもい、ですね……っ」
さすがに巨体を弾き飛ばすには足りず、だが蜘蛛は片側を跳ね上げさせるようにして体勢を崩した。それは大きな隙だ。
良助は三度続けて銃弾を撃ち込んだ。
「さて、これで二体とも倒したかい?」
脚を折りこみ、伏した蜘蛛から眼を離し、アサニエルがもう一匹へと視線をやった。派手な音を立てながら倒れ込んだのは少し離れた場所からでもわかった。
だが、それは甘い。蜘蛛はムクッと立ち上がった。
だが、誰かが攻撃をするよりも早く、蜘蛛が動作するよりも早く、何かが地面を擦り上げた。
ジャリジャリジャリジャリッ!
砂利音と砂を巻き上げながら、蜘蛛の巨体の下に滑り込む体。脚の間を器用に縫って、二振りの剣が蜘蛛の腹を裂いた。
「―――――ッ!!!!!」
絶叫。
甲高い、虫音が般若から漏れた。痛みに耐えかね、脚が蠢き、巨体が地面に落ちる。
それを、又も脚の間を抜け出した。
予測回避。事前に蜘蛛の動きを読んだエルネスタの流れる様な攻撃だった。
「それで、いったいどういうことなの?」
エルネスタが腕を組みながら言った。
仁王立ちする彼女の前にいるのは、体育倉庫から出て来た者たち。
「そう、隠し立てするものか? 苛めというのは人間界においてよくある現象だと聞くが」
壁に背を預けた結唯が口にした。寡黙な彼女にしては珍しい口出しだった。
「なんなら、一人ひとり別で話すかい? みんながいるんじゃ、言い出しにくいこともあるんだろうさ」
アサニエルが提案すれば、やや躊躇ったように見合う彼ら。けれど、やはり誰もはっきりとした動きにならない。やや膠着した状況に大きく溜息が落ちる。
「オレっちは別にキミ達のやってるコトは何とも思わねぇんだケド……」
ガートは切り出すと、あくどい笑みを浮かべた。
「天魔になって復讐されねぇよう気を付けろよ? 天魔の眷属は死んだ人間から作られることがあるじゃん。中には人間時代の恨み辛みを覚えて動くやつもいるからなぁ……」
最後の方には呟くようにしながら、恐怖を煽るガート。生徒たちは真っ青になって、我先にと事件が起こるまでの経緯を口にし出す。
「皆さん、大きな怪我など無いようで良かったです」
ホッとしたように笑みを見せ、ユウは言った。
体育倉庫から出て来た者たちの体調を確認した後、保健室に来ていた。そこには西飯と酒谷、依頼人である田の沢、職員室から派遣された彼らのクラス担任がいる。
だが、そんなユウの言葉にも室内には沈黙が満ちていた。
良助は西飯の手当を終えて、顔を上げる。三人の学生たちは共に視線を合わさない。そこに、軽い足取りでやって来たガートはにっこり、笑みを酒谷に向けて言った。
「酒谷ってキミ? 正直者は救われるって言葉、知ってるさー?」
鉄パイプを持っていた生徒を酒谷と認識し、ガートは反応も返さない人物に声を掛け続ける。
「キミら、みんなで鉄パイプ持って追いかけっこいてたんさー? でも、逃げるのは一人で鬼は十数人ってないと思うさー?」
その言葉にサッと担任が顔を青くさせ、三人を見たが三人は相変わらず視線を外し沈黙したままだった。
ユウは困った顔をしたし、ガートはそれ以上何も言う気はないようだった。実質、全てが明かされた今、酒谷は罰を受けるであろうし、それ以上はこれから学園に帰還する彼らには関わりないことだ。
だから、良助が口にしたのはただのお節介、あるいは感情の押し付けでしかない。
「弱者をしいたげる者は、いつか必ずそのツケが回ってくる。――キミ達を襲った鬼蜘蛛が僕達に倒されたようにね。覚えおくんだね……」
睨みつけるよう酒谷を一瞥し、良助は扉を出た。
(はぁ……こういうの、合わないんだけどね……)
扉を閉めて直後、しゃがみこんだ良助の耳に、小さく酒谷の声が聞こえた。
そのことに、言って良かった、と思い良助は気合を入れて立ちあがった。向かう先は未だ蜘蛛の死骸の転がる、校庭である。
「鬼蜘蛛、か……処分するのに大変だな」
その巨体をそのまま運ぶのは大変だ。だが、鬼蜘蛛の外骨格は堅く、容易に断ち切ることはできない。後日、人手を借りながら回収するしかないだろう。
「とりあえず、もう帰りましょう。暗くなるわ」
鬼蜘蛛の死骸を検分する静流に、ソフィアが声を掛けた。陽は既に隠れ、月が空に輝き始めていた。