●
10人はそのマンションを前に立っていた。事前情報通り、七階建ての長方形型マンションだ。薄暗い壁の色合いは雰囲気ありげだが、比較的に新しい構造物のようだ。
「良いマンションじゃねぇか……いっそ此処に住みてぇな」
ぽつり、呟いたのは向坂 玲治(
ja6214)だ。
もともとこのマンションはファミリー層向けで、一人暮らし用がちょこちょこついているわけなので、他で一人暮らしをするのと比べると家賃の値上がりもあるがかなり豪華な部類だ。
しかも多少なりとも防音効果があり、管理人自体一人暮らしの大学生なのでいろいろな融通も効く。久遠ヶ原学園では寮暮らしか一人暮らしをするしかできない学生たちには手が届きそうで届かない地だ。何より、久遠ヶ原の生徒は久遠ヶ原で生活することを義務付けられているので悲しいかな、羨む以外何もできない。
「とはいえ、今度の幽霊騒ぎじゃ今後わけあり物件で安くなりそうだな」
羨むことしかできない。
「………………」
(飛び回る女の生首……。天魔で間違いなのいじゃろうが、ちと薄気味悪いのう………)
一方、同じくマンションを見上げるネピカ(
jb0614)。普段から口では喋らず、スケッチブックで言葉を伝える手法を好む彼女だが今はスケッチブックにも無言のまま、青ざめた顔を晒している。
「ゆ、幽霊だかなんだか騒がれてますけど、確実に天魔の仕業ですねっ! お、お化けなんているハズがないですからね! ……い、いるハズないんですからっっ!!」
強く否定しながら目に浮かぶ涙を必死にこらえようとしているのはセラフィ・トールマン(
jb2318)だ。幽霊なんて信じないと言い張っているが、その声は震えている。どうやらそれが彼女の精いっぱいの見栄であるらしい。
「わたくしも同意しますわ。幽霊や妖怪なんて居る訳御座いませんもの。天使か悪魔の仕業に決まってますの!」
朱利崎・A・聖華(
jb5058)は断固否定した。堕天使として天界から追われつつも誇り高さを忘れない彼女らしい。ただし、初めての依頼の為か若干の緊張は備えているようで語調が普段よりも強く、肩に力が入りすぎている様が明白だった。
幽霊を否定する彼女たちを横目に見ながら、エイルズレトラ マステリオ(
ja2224)はトランプを手に弄る。
「そうですねぇ……。今回のソレを幽霊としてあてはめるならばろくろ首――それも抜け首と言うようですよ」
ろくろ首には二種類あり、一方は首が長く伸びる人間。もう一方は長い首だけが自立して移動するもの。前者は他人を驚かすことに意味があり、後者は首が人を襲うということを目的とする。
「都市伝説、か。噂や怪談も調べる範囲ってことね」
ネットとかにも載ってそう、とさっそく携帯を弄りつつ瑞姫 イェーガー(
jb1529)は言った。
「ろくろ首と言えば日本の風物詩たる怪談の一つでしょう。現代建造物の象徴ともいえるマンションに現れるなんて」
変な話ね、とグレイシア・明守華=ピークス(
jb5092)は溜息をついた。
「詳しいことを聞きたくとも、生憎依頼人はこの時間不在らしいからな。もう一人の目撃者も不在、となると話を聞くなら管理人だろうな」
「目撃者がそれだけとは限らねぇだろ」
玲治の言葉に鬼灯(
ja5598)が反論する。
「俺は他に目撃者がいなかったか調べるぜ。先に室内の確認ができりゃ、儲けもんだが……ファミリーと一人部屋とじゃ内部構造が違うらしいしな」
それは後回しか、と続ける。役割分担、ということらしい。聖華は頷き、自分の行動を表明する。
「では、私はこの件に天魔の疑いがある事など事情を説明に回りますわ。夜には戦闘にもなりますし、避難や協力と言う流れに持ち込みたいですわね」
「(ふむ……。では私はマンション内を探索しておこうかの。気になることもあるのでな)」
ネピカがスケッチブックに書いて、行動を確認する。
「俺も探索に回るぞっと♪やっぱ、戦場の確認は必須かなっと〜♪」
はいは〜い、と挙手して鴉(
ja6331)も探索に加わる。
「俺は屋上を確認したい。ソレは上に登って消えたというから、上――屋上に何かあるのかもしれないからな」
それまで沈黙を保っていた青戸誠士郎(
ja0994)がそう言い、昼間の各々の行動が決まった。
自動ドアをくぐると、横手に郵便受けがある。そのさらに先には暗証番号を入力する端末とドア。予め依頼人から伺っていた暗証番号でエントランスの鍵を開け、ドアをくぐると、正面にエレベーターが見えた。
「(ほほう。吹き抜けとはまた……趣き深い)」
ネピカが蒼褪めた表情を回復させてスケッチブックに書き込む。
エレベーターの左右はガラス面であった。そこから透かして廊下が見える。どうやら、エレベーターを中心に廊下が左右に広がり、吹き抜けの向こう側で繋がっているようだ。
エレベーター前まで進み左を見ると106号室、右を見ると107号室と札がついている。構造からすると、管理人の部屋でもある101号室は左右の廊下が繋がる、吹き抜けの奥にあるようだ。
「綺麗なもんだねっと♪」
鴉が吹き抜けのガラス面に手を突きながら言った。
ガラス面には膝丈ほどまである草が生えている。覗き込んでみれば、101号室のある場所だと思われる吹き抜けの奥に扉があった。吹き抜けの手入れはそこから行うらしい。
「エレベーターの位置は5号室に近いのか。1号室側からは出入りがしにくいな」
とりあえず、選んだ右側の廊下――104号室・103号室・102号室を右に吹き抜けを左に歩きながら誠士郎は零した。
「(階段もエントランス横だしのぅ。普通の構造ならば入口に近い方から号室の数は少ないというのに面白い並びじゃ)」
しかも、一階はエントランス部分があるために他の階より一部屋少なく、故に105号室というのがないらしい。抜け番にするにも中途半端すぎる。ポストのネームで見るに、マンションの部屋自体に空室はないらしい。
そうして三人はマンションを探索しながら屋上まで登る。
「……」
(居らんのう。マンションを狙う以上、どこかに潜んでいると思ったんじゃが……ちと早計か)
顎に手を当て、マンションの構造を頭に再度思い浮かべながらネピカは考え込む。
潜む場所として目を付けたのはエレベーターシャフト、特にエレベーター頭上であったが何も見つからなかった。もう一つの場所としてはソレが目指していた場所と思われる、屋上にあった貯水タンク。そちらにも何の変化も見られなかった。
「(生首だけ、ということはないと睨んでいたが……胴体と思われる部分は見つからないようじゃのう)」
スケッチブックに書いて探索をする二人にも話題を振ってみる。
「うーん。見つからないけど、もう探すところもないぞっと♪」
困ったねぇ、と言いながら全く困ったように見えない鴉から誠士郎へと視線を移す。
「天魔だからな。必ずしも胴体まであるとは言えないが……警戒はするべきだろう」
そこで誠士郎の携帯に連絡が入った。依頼人が帰宅したらしい。
「……そろそろ、時間だな」
誠士郎が腕時計で確認しながら言った。
「配置に着こう」
事件が発生した時刻は日付の変わる頃合いであったが、次もそうであるとは限らない。警戒を始めるのが早い分にはよいだろう。
誠士郎の言葉を皮切りに、それぞれが移動を開始する。
●
タンタンタン、タン。
鉄板の敷かれた階段が甲高い音を立てて誠士郎の足音を彩り、後に鴉が続いた。屋上へと続く扉を開けば星空があった。
「明るい夜だね〜っと♪」
鴉は空を見上げながら屋上を進み、柵へ体重を預けた。そのままマンションを見下ろす。各階の部屋の明かりは消えていた。廊下の電灯だろう仄明るさが、壁のない廊下から光を放出している。
一方の誠士郎は5号室側の上部に当たる場所へと移動した鴉とは反対に向かう。柵から眼下を見やると明かりがついていた。すぐ下は701号室である。
誠士郎は携帯を取り出し、メールの機能を立ち上げた。敵を発見したらすぐ送信できるよう文面を作り上げる。
「これで済めばいいが……」
被害が拡大しなければいい、と思いながら携帯を仕舞い込んだ。
鬼灯は6階の廊下に背を預けていた。
等間隔に配置された電灯は届かせる光が短く、廊下の所々に影ができている。一方で、雲の少ない空から月の光が廊下へと差し込み鬼灯の視界は保たれていた。
「月が、隠れはじめたな……」
マンションの中央吹き抜けから入り込む月の光が陰るのを感じ、壁から背を放して武器を手に取った。闇の気配が強くなる廊下へ、強く視線を尖らせてゆく。
●
聖華は今一度背後を確認した。
「扉はきちんと開けてありますわね」
扉を開けるという動作に付随する時間の短縮。加えて、部屋を開けるということは音の通りも良くする。仲間に何らかの事象が起きたとしても、声が聞き取りやすくなる上、聖華も最悪、部屋に閉じ込められるという状態には陥らない。
「見ていてくださいませ……お父様、お母様……」
祈るように目を閉じた後、聖華は水周りの点検に入った。
まず、出口に近い所から台所、トイレ、そして――浴室。
「……まだ、何も変化はありませんわね」
浴室を見て、ハァと溜息をつきながら聖華は背を向けた。その瞬間、背筋に走る怖気。
瞬間的に振り返る。
ノズルの閉められた蛇口からは水滴の一粒さえこぼれない。シャワーの管は風がないために揺れていない。では何が。床へと視線を落とした時だった。
「……ッ」
黒。それは排水に溜まった、黒い髪の毛。目が引き付けられた。
黒いそれの影が膨らみ、固形化し――顔を形成するまで聖華は動けなかった。
「な、んなんですの――あなた……ッ」
思わず、後ずさっていた。
ソレは排水溝から、髪が固まってできたかのような出現だった。
うねる髪の毛に巻かれて、肌の色が見えない。けれど、その奥にある瞳がジッと聖華を見つめていた。暗く淀んだ黒眼に――引き寄せられる。
どれほどの長さだろうか。突如、ソレは笑みを作った。
「――ッ!」
凄まじい戦慄が体中を走り抜ける。
薄く開いた口から覗く、小さく白い歯。その端に犬歯が見えていた。一目でわかるほど鋭い、牙。下唇を少しだけ隠す、そんな長さだ。
それを認識した瞬間。ぐらり、と揺れの様なものを感じて聖華はハッとした。
いつのまにか、体が傾いていたらしい。眩暈の様な感覚に正気付いて、両手に握りしめていたケリュケイオンを向ける。
目の前にいるソレが今回の依頼にある討伐対象、ろくろ首なのだとはっきり自覚する。
けれど、攻撃を放つ前にソレは聖華を無視するように天井へと登ってゆく。
「っ! 敵を逃がしましたわ」
聖華はすぐさま踵を返した。
●
スッと、首が伸びている。
101号室に未だ首を残しながらも頭部だけを二階へと露出させたソレはエイルズレトラの眼の前にいた。いや、正確には長く続く首はほの白さを纏っていたが廊下の暗闇に溶け込み、どこまで繋がっているのかさえもわからない。
長く、黒い髪が顔と首に張り付いていた。顔面部が晒されている。口元にある、二重線。精巧な顔立ち。それは正しく、
「――人形……?」
エイルズレトラはつい唇に言葉を乗せていた。と同時、茫洋としていた眼がぎょろりと動いた。
「……っ!」
ぐるり、と首が回った。
首筋がぎゅっと絞られて細くなっている。人ではありえないほどの回転だ。気味が悪い。
見開かれた目は圧迫されすぎて破裂しそうなほどに目玉がむき出しになっている。人形の様な薄気味悪さから一転、それはあまりにも醜悪で、人間臭い表情だ。焦点がまるで合っていない。
目が合う、なんて事象は起きない。――しかし、そこには強い思いが詰まっているように感じられてならない。制作者の思惑が渦巻くようだ。
「……すべての事象に何らかの理由づけをする、というのは人間共通の根源真理ではありますが――」
それが理解できてしまうとは。ぎり、と歯を食いしばる。
奇術師は人を驚かせることを商売とする。それが、驚かされてはたまったものではない。
ペラり。顔の高さまで持ち上げた手、その指にはカードが挟みこまれている。
カシャ。
唐突に、口部分が力を失ったように下がり、開いた。甲高くも古臭い、錆付きを感じさせる低いモーター音が響いたかと思うと、ソレはぎょろつく視線をそのままに笑い始める。
「けらけらけらけらけらけらけらけらけら」
笑っているのにまるで抑揚のない声。それは音だ。義務的でさえもない、無意味で空虚な動作でしかない。
(なんて不気味な……)
そう思いながらもエイルズレトラはカードを投擲した。雷のような速度でソレへと迫る。
だが、ソレはいとも簡単に廊下の奥へと首を引っ込めた。
「逃がしは、しませんよ――ッ!」
手を伸ばした。だが何も掴むことはできなかった。
ただ首のあたりのほの白い部分は冷たい空気があるだけだった。
「物理攻撃が、効かない……?」
●
「そろそろ風呂入ろうと思うんだけど、大丈夫なのか?」
高帆の問いかけに瑞姫は頷き、風呂場からリビングのソファへと移った。
時刻は事件発生時刻に近似している。ソレが何を目的として動いているかわからない以上、事件発生時とできるだけ状況を近づけた方が良いと思い高帆には普段通りに過ごしてもらっていた。
若干眠そうな目をして浴室に入ってゆく高帆を見送り、瑞姫は携帯を取り出した。未だ、誰からも連絡は来ていないようだ。もしかしたら、今日は何も起こらないのかもしれない。
(噂話も規則の理由も特に何の情報もなかったし、心霊系じゃないのかな)
昼間に行った聞き込みのうち、瑞姫の担当部分はほぼ何の収穫がなかった。心霊スポットになっているわけでもないし、噂が立っているわけでも事件当日の目撃証言もない。そして、深夜の入浴禁止は住民の騒音被害と説明されているようだ。実際に、騒音についてのアンケート用紙など定期的に配られているようで、その信憑性も高い。
ならば今回の事件は何なのだろうか。突如天魔が現れた、それに完結してしまってよいのか。
その時、携帯が受信を知らせる。
送信者の名前だけを確認し敵の発見を知った瑞姫が腰を浮かせた時だ。浴室から悲鳴が聞こえた。
「高帆さ――ッ!」
濁りのない黒が浴室の床を浸食していた。
「……っ」
咄嗟に、瑞姫は高帆の腕を引っ張り背に隠した。
揺らめき、漂いながら黒の領域を広げてゆくそれに警戒しながらこの場をどうするべきか考える。
人的被害の拡大を防ぐことが最優先だ、今は高帆を避難させることを第一に動くべきだ。しかし、高帆は震えて自ら動けない。
敵の攻撃手段や能力が分からない以上、藪を自らつつくわけにはいかない。
(ミスったなぁ。携帯、あっちに置きっぱだ)
立ち上がる直前まで弄っていた携帯はソファにある。すぐさま応援を呼ぶ、と言うわけにはいかなそうだ。
だがチームで動いているのだ、今場を持たせれば確実に救援は来る。
(なら、ここで頑張らなきゃね……)
瑞姫は息を詰めて、ソレの挙動を黙視した。
黒い浸食から塊が出てくる。
――目が合った。
「……ッ!」
髪だ。黒い塊は頭部の豊かな髪。そして、その奥から覗き見る、目。
「う、わぁ……」
高帆が瑞姫の背で呻くように声を出した。
(気味が悪い――)
半分出かかった塊――頭部に今すぐ蹴りを叩き込みたい心情を抑えながら、瑞姫は高帆を背に護る。
漸く、口まで出てきたと思うほどの時間はなかった。それまで悠長なほど時間をかけていた黒の浸食は唐突に終わりを告げ、白がスルッと動いた。
大きく開いた口でキシャァ、とばかりにそれが襲い掛かってくる。
その隙を、逃さなかった。
瑞姫は回し蹴りを放ちながら腰を抜かしている高帆を引き寄せ立ち上がらせる。
足は感触を掴むことなく、空を切ったが牽制にはなった。攻撃が継続されないことをいいことに、そのまま高帆を浴室から押し出す。
浴室に視線を戻した時にはソレは姿を消していた。
「上、かな?」
「ゴメンあそばせっ!」
突然の声と、大きく開け放たれた扉。咄嗟に警戒態勢を取った瑞姫だったが、それが聖華だと知ると構えを解く。
「天魔はここを通りまして?」
「うん、見事に通過された」
あっけらかんと答える瑞姫に聖華は一つ頷く。
「名誉挽回の機会は逃せませんわね」
高帆には浴室へ立ち入らないように、と釘を刺してから二人は部屋を出ようとし、
「フム、僕も便乗させていただきましょうか」
窓から侵入するエイルズレトラ。壁を走って登って来たらしい。改めて三人で、301号室を退出する。
●
エレベーター正面廊下、グレイシアは405号室を前にセラフィと合流していた。
4階の担当はグレイシアのみであるが、セラフィは事件現場にすぐさま駆け付けるようにとマンション内を巡回しているのである。
「ほ、ほんとにユウレイなんかじゃないんですからねっ! 怖くないですから……っ!」
涙目で、震える手を抑え込みながら訴えるセラフィ。だが、その手はグレイシアの服を掴んで放そうとしない。
「敵は吸血をしてくるのでしょう。それも管理人の様子からするに極少量ということよね」
回復をするほどの攻撃力はないのかしら、それでも全力で向かうべきよね。そう入念に作戦を考えるグレイシア。そんな二人の携帯がメールの受信を告げた。
「一階に現れたようね。逃げた、ということはかなり素早いのよね。もうこの階まで来てるかも知れないわよ」
腕まくりしつつ意気込むグレイシア。一方、携帯の文面を見ながら堅く手を握りしめるセラフィ。グッと、顔を一息にあげたかと思うと、
「ててて、天魔如きラクショーですよラクショー! スーパーイージーってやつです!」
本国の言葉でさえカタカナになるほどのテンパり様。かなり怖いらしく、長い睫毛が縁どる瞳からは大粒の雫がボタボタと落ちてくる。
「――楽勝、ならばいいわよね」
グレイシアは闇を、その中に仄明るい白を見つめて思わず語調を強めていた。
それは常より長く、長く続く首。
そこに終わりなどない。いつまで待ってもそこに体は現れなかった。白く、長い首が、顔の部分さえも見えなくなるほど長く、白い柱に見えるほど長く――続いている。
それは頭部、いや首だけで完結していた。
「ディアボロ……?」
異様さばかりが際立って目につき、本来なら感覚に近い部分で判明するはずの答えを、グレイシアは問うていた。白く、夜に怪しく浮かぶ首はともすれば神秘的に見えたが、その奇形はサーバントではないだろう。
絡まる髪がふわり、と風もないのに流れ、容貌が明かされる。虚ろな目。焦点の合わない目。
「ひ……っ」
短い悲鳴を上げて一歩下がったセラフィ。しかし、その頬をするりと指が撫ぜた。重みも、速ささえも感じさせない動きだった。
呻くように言葉をもらすセラフィに、漸くグレイシアはソレが自分を横切ってセラフィの下へ向かったのだと知る。首を背後へ向ければ、そっと、セラフィの頬から指を首筋へと滑らせるソレ。
セラフィは動けなかった。生暖かい、へばりつく様なねっとり感だけ鋭敏に知覚する。
「セラフィ!」
呼び声が聞こえると共に、風が通り抜ける。グレイシアの攻撃はソレを通り抜けた。けれど、ソレは素早くセラフィから離れるとそのままスッと姿を消した。
「……大丈夫なの?」
「――。ア、ハハハ、腰が抜けちゃいました……」
グレイシアの言葉に応える気力もなく、セラフィは座り込んだ。いや、腰を抜かして床に尻を突いた。呆然とし、それから漸く言葉に応答する。
首筋へと改めて触れればそこは汗に濡れていただけだった。
(体温なんて……ない……)
自分の考えに、一瞬ぶるりと体を震わせてから強く否定を思った。まるで息をしているかのような、人形だった。最初見た時は本当に人間の生首だと、そう思ってしまうほどにリアルな――人形。
「私は追うつもりなの」
セラフィはどうなのか、と手を差し伸べてくれるグレイシア。セラフィはその手を取って立ち上がった。
「もちろん、追いましょう!」
二人もまた、上へと向かった。
●
敵の出現を聖華からの連絡で知った誠士郎。鴉は階段を使って屋上から出て行った。誠士郎は万が一を思って屋上で待機した。
敵の動きは真っ直ぐ上に向かっている。ならば最終的に辿り着く場所はこの屋上だ。敵が物質をすり抜けることは解りきっているので、対策としては阻霊符を発動すること。
もし、天魔であるならばそれで物質透過能力は喪失する。しかし、足止めができていない現状でこの場を動けば、敵を取り逃がす可能性がある。
故に、一人が現場に向かい一人が留まる選択をした。
急に陰り始めた夜の視界に眉を寄せながら誠士郎は次なる連絡を待つ。
●
声を出そうとして、喉に引っかかった。言葉が喉の奥で張り付き、掠れていた。
喉がカラカラに乾いているのだ。緊張か。否、この程度の天魔に今更身構えるまでもない。
(雰囲気に呑まれたかのう……)
顔を蒼褪めさせながら、ネピカは蛇のように長くしなる首を対面していた。
手に持つ分厚い書の重さだけが現実感を伴っているようだった。
白く長い首が低い位置から見上げるようにしてネピカに視線を定めている。黒い髪が闇に溶けるようにして首にまとわりつきながら漂っていた。
チン――
音がするとともに、ネピカの背後から風が吹いた。
「え……」
振り返るのと同時、白色の光玉がソレに激突する。
エレベーターの中にいた鬼灯が五つの指輪がはまる手を前に突出していた。
「先手必勝、ってやつだな♪」
攻撃が当たったのを確認する間もなく、それはシュルリと床を這って、闇に潜り込むとそのまま頭上へと直角に消えて行った。
「おぬし……」
先ほどとは違う意味で顔色を悪くしながら、ネピカはそれだけ声を絞り出した。
攻撃のタイミングは絶妙だった。あれならば確実に当てられたと思う。だが、それは予めエレベーターで準備をしていたということだ。もし、エレベーターの前に敵がいなければその攻撃はどうするつもりだったのか。
「なんだ?」
ネピカへと振り返る鬼灯に、もう一つの事を問う。
「(今、エレベーターの中で変なものをみかけたのじゃが)」
スケッチブックに記す、変なもの。それに思い当たることがあるのか、鬼灯はあー、と言葉を伸ばしてエレベーターの開閉ボタンを押した。
「赤い手の型だな」
開いたエレベーター内部は赤に蹂躙されていた。物が這いずった痕、指の形。それらがエレベーター内に密集している。
「でもこれ血じゃないぜ」
「(そのようじゃな)」
シンナー臭い、エレベーター内部。昼間に調べた時にはこんなものはなかった。もちろん、血の跡もなかった。
(アレの能力か何かじゃろうか……)
胴体説が再び脳裏に過ったが、今はそんなことよりも首を追うことが重要だ。首と対峙していた時に何度も受信を告げていた携帯を確認し、5階も通過されたことを知らせる。
●
「そろそろか。――鬼が出るか、蛇が出るか」
出るのは首だったな、と一人ごちる。
玲治は部屋の主である反町京に許可を取って、浴室に待機していた。身動ぎするだけで音が反響する空間で手持無沙汰にボウッとするのもこれで終いだ。
カチカチ、カチ。
時計が日付を過ぎた。
カチカチカチ……携帯が受信を知らせた。内容を確認して、玲治は浴室を出る。
「何かあったんですか?」
リビングでテレビを見ていたらしき京が玲治を見て尋ねてきた。
「まぁな、下の方で――出たらしい」
ちょっと行ってくるわ、と玲治が言うよりも前に京は部屋を出る準備を始めた。
「おい?」
「貴方がいないのならこの部屋も安全ではないですし、別に移ります」
感情を務めて押し殺したような言い方に、三階の住人と京が知り合いだったことを思い出す。あちゃあ、と内心で反省しながら京の後を追って部屋を出た。
「おっと♪ 二人とも慌ててどこへ行くつもり、っと」
屋上から階段から降りてきたらしい、鴉と鉢合わせになって玲治は足を止めた。
「下の様子を……あ、おい!」
京がそのままエレベーターを操作して下を降りていくのを、二人して見送る。
「あの子なんか、怒ってた?」
「まぁ、そうだな……。階段で降りようぜ」
曖昧に誤魔化しながら、玲治は下を示した。
「ふぅん♪ でも、下には他にもいるし大丈夫でしょっと」
六階へと一歩先に降り立ちながら鴉が振り返り、言う。
「それよりも、敵が今どこにいるのか――」
階段を降り終えて視線を足元から戻しながらの玲治の言葉は途切れた。こちらを向く鴉の顔の横、ぬっと飛び出る白い顔。
「鴉!」
思わず玲治は叫んだが、鴉の首筋とソレとの間に符が入り込んだ。
「キィイイイイイ!」
甲高い、金属音の様な悲鳴がソレから叫ばれた。
「阻霊符は効くようだねっと♪」
周囲に漂う髪を顔に纏わせてビクンビクンと首だけでのたうちまわる。
「マジビビったけど、さっき玲治に一枚貸してもらっておいてよかったなっと♪」
冷や汗を拭いながら楽しげに言ってのける鴉に玲治は胸をなでおろした。
「――とりあえず、見つけることはできた。」
今度こそ、阻霊符を提示して玲治はタウントを使用する。
「胴体とのお別れは――済んでるよな?」
にやり、と笑い構えた。相手との距離を慎重に計り、踏み込む。
急速に距離を詰めた玲治の、アウルを纏った攻撃がソレへと突き刺さる。
「キィイイイ!!」
またしても金属音で攻撃の効果を表したソレはしかし、攻撃へと移った。フヨフヨと宙に漂うだけだった髪を硬質的に鋭くし、玲治と鴉へ向けて放射状に突き刺しにかかる。
「随分物騒で便利そうな攻撃だね〜っと♪」
髪の束が向かってくるのを銃弾で撃ち落そうとするが、その度に髪はバラけ、うねりを加えながら曲線的行動に移る。
直線的攻撃に見えて、不規則的な動きでしかけてくるソレの髪へ躱すことしかできない。ドスドスと廊下へと突き刺さる様を見るに、破壊力も抜群だ。
「場所が悪いな、もっと広い場所に……っ!」
玲治がそう言うのもつかの間、髪は消え失せた。
「は、」
ソレ、いや本体である首は玲治たちが髪の相手をする間に階段を上って行ったらしい。阻霊符で通り抜けができなくなったゆえの行動だ。
「チッ 七階、いや屋上へ向かったのか!」
「あ〜。今、屋上って誠士郎だけだよね〜っと♪」
●
月が雲に隠されていたのはそう長い時間ではなかった。
だが、そのうちに次々と誠士郎の携帯にはメールが送信されてくる。一階101号室に待機していた聖華からの連絡を皮切りに、連続して受信する。
「敵を逃がした、か。阻霊符を張る隙もなく逃げていく――かなり素早いな」
何が理由かは知らないが、一心不乱に屋上へと登る。しかし、昼間に調べた時、屋上には何の仕掛けも見当たらなかった。あるいは、屋上ではなく、空へともしくは高さ的な意味合いがそこには付随しているのかもしれない。
相手の能力も不明なままであるから、対策の立てようもない。
誠士郎が考え込む間にも雲は晴れ、明るい夜が戻ってくる。
しかし、誠士郎の上にかかる影だけは変わらなかった。
「交戦まで持っていくのが難しい――……?」
ふと、視界に写る周囲の景色が明るいのに気付き頭上を見上げた。
「……ッ!」
黒が誠士郎をジッと見つめていた。
長い髪と長い首。ろくろ首の登場だった。
屋上のコンクリートを蜂の巣とするかのごとく、怒涛の勢いで硬質化された髪が降り注ぐ。
誠士郎は斜め上に扇を翳して盾とする。重い振動が髪にぶち当たったのだと伝えたが、その直後に感触は変化した。
「こいつ……ッ!」
扇に当たった髪はすぐさま硬質を解き、誠士郎の手と扇を絡めて纏め、ギリギリと締めつけてくる。
「――ダイヤのJ」
疾風のような素早さで一枚のカードが投げつけられた。誠士郎の手を拘束していた髪がパラパラと切り裂かれ、解けてゆく。
「結局、屋上まで来てしまったのですね」
はぁ、と溜息を突きながら首を振ったのはエイルズレトラだった。
すぐさま標的を変えた髪の毛がエイルズレトラに向かうのを、今度は別の人物から放たれたカードによって消え去った。
「負けてらんないしね、暴れさせてもらうよ」
静かな動きでソレの背後に陣取っていた、瑞姫のトート・タロットによる魔法攻撃だ。
「怪我があるようなら私に言うようにするのよ。アスヴァンとして回復に徹させてもらうの」
「で、結局これはなんなんだ?」
眉をしかめながら鬼灯が言った。倒した残骸の処理中である。
「(わからんのう。意味不明、という奴じゃ)」
「どこかの悪魔が遊び半分で作った、ということなのかな〜っと」
「相変わらず、悪魔と言うのは意味のないことをするようですわね」
それぞれの感想があれど、ソレは幽霊を模したただのディアボロだった。
「かなり精巧に作られていましたね。あれだけの表情や動き、能力そのものや出現の仕方など幽霊をそっくり投射しているようでした」
変に見習ってしまっているエイルズレトラを横に、玲治はうんざりしたような顔をする。
「そんなの時間かける意味が解らねぇ……」
「ほ、本物はやっぱりいないんですね!」
「いないということは証明できないけどね」
喜び、先ほどとは違う意味で涙を溢れさせるセラフィに瑞姫が言葉を指す。
「何はともあれ、依頼は終了だな。撤収しよう」
「……深夜なの。どうやって帰るつもりなの?」