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夕暮れに染まる紅葉に囲まれ神楽坂 紫苑(
ja0526)は僅かに息を飲み、呟く。
「すごい場所の舞台だな? 紅葉に囲まれて、んじゃ始めるかな?」
しなやかな細い指先に映える黒の笛を手に、纏うのは単衣の着物姿。
シンプルながらも品の良い流水紋が描かれた藍の衣装は、立ち姿の整った彼によく似合う。
「…さて、趣味が良いのか悪いのか」
阻霊符を確かめて、狩衣の袂を揺らすのは夜来野 遥久(
ja6843)。色素の薄い彼に合わせて誂えた衣装は、白に僅か銀を混ぜた様な複雑な色合いだ。
襟元や袖、要にだけあしらわれた紅が目を惹きつける水際立った着こなしの青年は、静かに目を細める。
要求するのは、ただ――見事な演目をと。自ら要求しながら、壊しにかかる今回の敵は如何にも破綻している。
思案に暮れる彼の傍ら、対照的に身軽に袴姿で舞台の様子を確かめていた一条 朝陽(
jb0294)は軽やかに笑う。
髪の色と揃いの赤の袴は凛々しく、きりりと締めた襷が、彼女が舞うのはただ雅なだけのものではないと悟らせる。
その表情は何処か楽しげに。
「みんな、いい演舞にしようね!」
演舞と実践が噛み合う機会など、確かにそうは無い。
緊張が少し解けて、幾人かの口元に笑みが零れる。
「ええ、――最高の舞台を見せましょう」
巫女服姿のフィン・スターニス(
ja9308)は流れる白銀の髪を結いあげ、頷いて見せる。
僅かに震える呼吸を直ぐに呼吸ひとつで整えて。
夕暮れの舞台は血に染まったようにひたすら、紅い。
彼女の脳裏に浮かぶのは束の間の幻。
舞台衣装もセットも何もかも、人の血と悲鳴に塗れた昔のこと――。
「…あたしはもう…あのころとは、違うもの」
呟いて、彼女は用意された場へと歩み出る。
全てを、舞台へと織りなす為に。
中央には、既に神月 熾弦(
ja0358)が跪いている。
豪奢な刺繍で舞台用の衣装にアレンジされたそれは、戦うものの無事を祈る巫女の姿だ。
銀と金の縫い取りが精緻に袂まで刻まれており、胸の前で組み合わされる五指には指環が嵌り、鎖が繋がっている。
しゃら、と微かな音が静謐な空間に響き――。
演奏が、重なる。
片膝を立てて緋毛氈の上に座す紫苑が、乱れの無い笛の音を暮れゆく空へと響かせるのが始まりだった。
澄んだ高音は、最初は緩やかに。
静謐な表情の神月がゆるゆると身を起こしていく。
大気を撓ませて打つ、鞭の鈍い音が重く響いた。
振るっているのはクジョウ=Z=アルファルド(
ja4432)。
軽装ながらも飾り鎧を纏っていくさびとを演じるのは、精悍な長身の男性だ。
彼の役割はあやかしに挑み、そして勝利すること。
祈る姿勢の神月を自然に背に庇い、しなやかに伸ばした腕から繋がるように鞭を操る。
彼が積んでいるのは武術の研鑽、だが舞も様になっているのは面倒と言いながらも重ねた練習量の証だろう。
彼と向き合う位置を取り、今は剣を鞘に納めた侭で胸の前へと翳す一条。
すり足から緩慢にも見える仕草で、柔らかな風を服に孕み舞う。
フィンは神月の背後に控える形で、同じように祈る姿勢。遥久は彼等の傍ら、片膝をつき深く頭を垂れている。
神月が、舞い始める。最初は風そよぐに見紛う仕草で、指が動き、腕を差し伸べ空を抱き締めるような祈り舞。
甘やかな歌が黄昏の空を往く。フィンが己の喉を楽器に奏でているのだ。
控え目に舞う彼女の声が高まるにつれて、遥久もまた深い礼から剣を高く空へと捧げる。
彼等が体現するのは、祈りと勲。戦いに立つ武人と、彼等の無事を祈念する巫女。
全てはこの、紅葉に彩られた舞台にて。
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「じゃあ、始めようか――」
遠く、近く。不思議と楽の音を邪魔しない穏やかな響きの声が歌のように風に乗る。
「…前に会った、金髪の人だ」
舞台の端に影のよう控えた少女、地領院 夢(
jb0762)が小さく呟く。
姿は見えない、けれど声を聴けば確かに彼。思案を巡らせるのは、束の間。
がりがりと足元の岩を掻く音、上からの日差しを曇らせる影。
真っ先に飛び込んできたのは、足の速いデュアルだった。
四足の猫に似た獣が、舞台に向かって駆け出すのに、魔法書を素早く呼び出す。
巫女装束の少女は、しかしその姿が動くまで殆ど他者に気配を感じさせない。
「動きます」
影に身を潜めながら、夢は囁く。
「分かりました。…黄昏時の舞台、中断などという無粋なことは止めて頂きたいですね」
暗闇に隠れている八重咲堂 夕刻(
jb1033)も、ごく密やかに。。
先手を取った夢の、真っ直ぐ伸びる光がデュアルへと撃ち出される。
素早い軌道を完全には捕えることが出来ないが、首筋を掠める光の羽根は紅葉の枝を掠めて何枚かを舞台へと散らす。
その一枚が落ち切るよりも早く。
翻るのは、別の紅。
風を切る速度の抜刀から、一条の紅い袴姿がデュアルの正面へと踊り出す。
紫苑が奏でる笛の音は更に速度を増して、戦地に向かう勲の如く。
全てを芝居に引き込む為に、強くメロディを刻む。
紅葉の簪を赤い髪に揺らし、デュアルの肩口からを勢いを乗せて一気に切り払う。
させない、と微かに唇が動くが声には出さない。今は、全てが演技の如く目を惹きながらも、剣の軌道に迷いはない。
紅葉の舞台に、赤の華が咲く。
更に、もう一体。舞台袖に控える二人を完全に無視して、無防備に見える舞手の神月を狙いに行くデュアルた。
毒が塗られた牙がてらりと嫌な輝きを帯びて、神月の細い肩に埋まる刹那に、遮るのは強固な盾だ。
完全には受け流すことが出来ず、手首に牙は埋まる。それでも表情一つ変えずに涼しげな面持ちの青年は、朗々と口上を紡ぐ。
「美しき紅に潜みし穢れ、我が手にて討ち滅ぼさん」
地を擦る様に音も無く神月までの距離を詰め、差し伸べる手は指先までが風を孕むよう悠然と。
彼の声に応えるように、こちらは鮮やかな跳躍で一気にデュアルまで距離を詰めるのがクジョウだ。
着地から身体が打突の仕草に似て前へと踏み込み、遥久と挟撃の位置を取ると鞭を振るう。
風を切る音に遅れて、打擲音はデュアルの横腹から響いた。
「紅蓮の導がある限り、我が意志は潰えず。いざ、参られよ」
遥久の手にあるは紅の大剣。紅の色は彼にとって導きであり、矜持だった。ならば、恥じる真似が出来る筈がない。
真横からフェイクの一撃を重ねて、本命とばかり切っ先を深く敵の足に捻じ込めば醜い悲鳴が上がる。
息もつかせぬ開幕――だが、まだ終わりではない。
前衛達がデュアルの対応に手を取った瞬を突き、人狼が舞台中央へ向けて接近しながらの吠え声を上げる。
夕刻の柔和な表情が、その瞬間に鋭利な色を見せる。影から影に渡るような洗練された動作は、今は舞台の黒子として。
ほんの一呼吸の後には、人狼の首筋に細いチタン製のワイヤーが絡み付いている。
夕暮れの光を浴びて尚見えない、細い糸が絡み付く先は夕刻の指先だ。
「無粋に過ぎましょう。これ程に美しいものを、歪めることは許しません」
指の、ささやかな一振り。上げて、下げる、それだけの動作で分厚い毛皮に覆われた首筋に切れ込みが入る。
首を落とし損ねたとばかり、一度糸を解いたところで――頭上が黒く翳った。
空から飛来するのは、黒の巨大なエイ。
演者の頭上に浮かんだそれは、黒色の風と雷をこれも演者達に向かって降らせていく。
轟々と鳴る空から、身体を蝕む黒い雷撃に紫苑は僅かに肩を揺らしただけで耐える。
何しろ彼は、音楽の主を預かっている為に舞と違い身体を動かすことが難しい。普段なら軽傷で済むだろう攻撃が、今は彼の腹を裂き、肩を焦がす。
「…だが、譲る訳にはいかないな?」
細面の整った頬に赤色が滴るが笛に乱れはない。
剣戟の音を隠すのではなくむしろ取り込んで一つの調和した音楽を生む為に、神経を最大限に研ぎ澄ましていく。
支え、高め上げていくのは巫女にして歌姫たるフィンの歌声だ。
彼女も白の衣装には目立つ血化粧を、腹部の辺りに大きく見せている。
今のフィンに重要なのは、傷の痛みでも疲弊の大きさでもなく、自分が謳うに必要な器官の損傷があるか否かだった。
「…あたしは、謳える」
小さく、心の中だけで強く己へと呟く言葉。
このような襲撃を受けては、常人であればきっと一溜りも無かったろう。
晴れやかな舞台で、既に襲撃があったのだと彼女は聞いている。そこで志半ばに潰えた、舞台生命を絶望の淵に終えた者がどれだけいただろうか。
――かつての、自分のように。
今彼女が紡ぐ歌が、次の誰かの不幸を防げるのならフィンは歌うことを止める筈もない。
腹部に力を入れる度の鈍痛を受け流しながら、銀の杖から煌めく氷の欠片を紅葉に交えてマンタへと撃ち放つ。
「これだけは、なんとかしなきゃ!」
影に沈む二人は入れ替わるタイミングを窺いながらマンタを落とす為に力を重ねていく。
夢が編み出す光の羽根と、対照的に夕刻が影に潜む矢を纏め上げ――放つ! 魔力に身を抉られながらも、未だ健在な敵は空に。
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「皆様の無事を」
しゃら、しゃらり。指に纏わせた鎖が彼女の祈りを顕現させる。
神月の周囲には、半透明の雪の結晶が幾重にも浮かび上がって攻撃を幾分か凌いでいた。
故に、今の優先は他者の治癒だ。紫苑の側へと跪いて彼のアウルを補助していく。
指を、と笛を動かす動作すら阻害する重圧を示す紫苑に頷いて、その苦痛に立ち向かう力を手渡す。
彼女の仕草に沿う形で遥久が祈りを紡ぐと、脇腹を抉られたフィンの傷口が塞がっていく。
その一方白焔が目を惹く輝かしさで空を焼く。纏うのは、クジョウ。
デュアルが四足で身を低く跳びかかるのは神月に、だがそれを彼は許す気がない。長身の体躯が映える大振りの動作の舞で、鞭がデュアルの足を絡めて引き倒す。
毒の混じる牙を彼は、避けない。避けた先に神月がいると分かった瞬間、一瞬の迷いも無く彼は己が身を盾にする。
むしろ鞭で引き寄せるように自分から肩で牙を受け、じゅくりと毒に食われる侭で鞭を引き絞る。炎を撓めた打擲が、細長い首を圧し折る鈍い音は鞭の風切り音に隠される。
近くでの交錯に、真剣ながら楽しげにも眼差しが笑うのは一条。最初の突進以来、デュアルと一対一で向かい合っている少女は少しも引けを取っていない。
飛び掛かってくるデュアルを身を低くいなしてから、舞う動作でしなやかに伸ばした手には白刃がある。無為に襲いくる敵を舞いの動きに引き込んでしまえば、懐まで飛び込む一瞬の交叉。
次の瞬間には細身の彼女の身体が大きく全身でしなり、デュアルが後方へと吹き飛ばされる。着地を許さずに、軽やかな足運びで半身を翻す。
一条の剣が胸板を深々と貫き、崩れ落ちるのを見届けた遥久が夕刻と入れ替わりに、人狼のフォローへ入る。
紫苑とフィンは崩れ落ちるような演技を見せ、『遺志を託す』ことを強調した後に、衣装を脱ぎ捨てて、戦支度へと切り替える。
夕刻が笛を構えて緋毛氈へと片胡坐で腰を下ろし、音が途切れぬように早速演奏を始める。
艶やかさの滲む紫苑の演奏とはまた異なり、夕刻の奏でる音色は何処か雅に澄んで――哀切の響きを宿す。
愛しき人々に長久の幸を。
人の幸福を願う祈り歌に、夕刻の想いが重なっていく。
かつて天魔に恋人を奪われた男が、天魔に対峙し人の幸福を音に乗せる。
澄んだ音に導かれて、夢が舞い始める。
神月がちょうど中央で、祈る形に手を組み合わせた瞬――マンタが暴虐の黒い雷を降らせる。
それでも夕刻の指は揺るがず、剣舞の者達が身を重ねるようにして神月を守り通し。
彼女は、舞の一筋も揺らがない。
鎖を高く掲げて空を仰ぎ、緩やかながらも留まる事の無いステップで体を動かす。
豪奢な髪が風の流れに揺れて、抜ける程に白い頬に紅葉が舞い降りて紅を際立たせる。足運びは戦いに慣れた無駄の無いそれで、いつもの柔和な色は無く――神を下ろすかのような神々しい舞だった。
紫苑が星の光を宿した矢を番え、闇色のディアボロへと狙い撃つ。埋まる瞬間、フィンの光の矢が重ねて弾けた。
頭上を覆う暗雲をそれは、光で払うかの如く。
「…きれいなものは、ここにあるよ」
懸命に動きを追いながら、いつしか夢の身体は自然に舞いの動作を辿っていく。
体の隅々まで行き渡る力、描く踊りのうつくしさ。
軽やかに紅葉を掌に受け止めて舞いながら、皆で作り上げた舞台の力が在ることを彼女は知る。
夢の声が聞こえたのか、フィンは気づけば自然に歌を口ずさんでいた。何処かに、この歌が届くなら。
ただ、奇跡の如く愛しい舞台と声の届くすべてに向ける慈しみの気持ち。
遥久の剣が鎖に絡め取られた人狼の喉を切り裂いたのに重ねて、夕刻は笛の音と共に色とりどりの炎を咲かせる。
異なる色のけれど溶け合う花火。
それが、終焉の合図だった。
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「なんとか、演じ切ったか?やれやれ、ものすごく疲れたんだが、あ〜怪我人、見せて見ろよ」
己の傷も深い紫苑が手分けをして傷を癒していく。既に、時間は夜だ。暗闇の中、――不意に拍手が響いた。
「……お気に召しましたか? ならば約束は守って頂けますね」
驚きもせずに凛と声を張る神月に、勿論、と軽薄な返答。闇に、姿は見えない。
轟、と白焔が翻る。真っ先に迷いなく踏み込んだのはクジョウだ。振るう鞭は、闇を切り裂いて一瞬だけ金髪の端正な面差しの男を浮き上がらせる。
「どうせだ、観ているだけじゃつまらんだろ、どうせなら一手踊っていけ」
手応えは、浅い。舌打ちと共に言い放つ強さに、いっそ感心したように男は笑って。
「観客が、何より楽しいのさ! ――だが、今回は君達の勝ちだ。二役の手筈、演目や舞台の見事さ。良いものを見せて貰ったね!」
「舞台が好き…なの?」
思わず零してから、夢は暗闇に声を投げかける。指環の意図、姉の話、幾らも聞きたいことはあるのだ。
「【この件に関しては】の一文…この件以外で持ち主に危険が?」
気持ちは同じなのか、静かに遥久が問う。
「次は纏めて襲おうかと思って。あの子の死は、最高のショウになるからさ!」
「……どうして? 指環に拘るのは」
最後に問うた夢の頭に、ぽん、と撫でる手が乗せられた気がした。咄嗟に身を引く彼女を遥久が庇うが、――既に闇の中に気配はない。
「色々忙しくなりそうだから、暫く遊べないかもしれないけどさ! ねえ、舞台って素敵なものじゃあないか?
夢も希望も、素敵なものは全部詰っている。
――だからこそ、全てを壊す瞬間は楽しいね?」
囁くような、笑い声と二度目の拍手。
「本当に、本当に良い舞台だったよ?」
最後まで人を食ったような、――けれど、確かな賞賛ばかりが場には残る。
彼等の作り上げた紅葉の舞台は、今は既に闇の中。
全ては、夢の如く、幻の如く。
――ただ木魂のように拍手はいつまでも響いていた。