●迷宮への挑戦
下水道の水は泥や汚れで濁り、腐臭すら放つ。
だが降り立つ瞬に躊躇する者は一人もいない。
「さてと…行きますか…迷子の妹と友人達を迎えに」
汚水に身を浸しながら、ファティナ・V・アイゼンブルク(
ja0454)の眼差しはひたりと前を見据えている。
「ええ、簡単になんか死なせません…」
カーディス=キャットフィールド(
ja7927)は手早く、ペンライトを灯す。
暗い足元がぼう、と光を湛えた。
予想通り、視界は暗い。
「じゃあ、いきますよー」
櫟 諏訪(
ja1215)が、ビニールで包んだ鞄を持ち直して、先陣を切って歩き始める。
夜を通す目で、先を睨んで。星杜 焔(
ja5378)は一歩後ろを。
先は、おそらくは迷宮の如く。
ならば、と彼等が取るのは偵察に先行班を作ることだった。
「嫌な気配は、ずっとしっぱなしですね」
ぴりぴりと首筋がちりつくような感覚は、全く止まない。首の裏側を軽く掻いて、分かれ道でカーディスが立ち止まる。
ヘッドライトで照らす道は、そう遠くまで見えない。
敵との遭遇、正しいルートの確定、必要なことは多い。
絶望的な程に。
「一寸先は闇とはよく言ったものだよね〜」
正しくの光景に焔が呟くも、彼の表情は穏やかで静かなもの。
必ず、辿り着く。
どんなに、細い糸を辿っても。
スプレーで正しい道を描き、ペンライトで先を照らす。
一つも、諦めない。
「ここまでのようです。一つ手前まで引き返しましょう」
予定のルートは大きな崩落で塞がれているとみれば即時にファティナは頭に叩き込んだ地図に従い誘導する。
後続で進んでいる筈の本隊に連絡を入れ、次の分かれ道へ。
櫟は、先陣を切り風の流れへと意識を澄まし持っていたボールを振り被り、目に見えぬ先へと大きく投擲。
反応を見極めに耳を澄ませ。
「落ち着いて素早く進むためにも、使える情報はどんどん使っていくのですよー?」
多少の今の手間と、将来的な時間コストを冷静に測って。
ぴん、と立ったあほ毛はしっかりと敵を見極めるレーダーとして稼働中。
戦闘を避ける為に、ファティナが時折トワイライトの灯りを投げ込んでは手鏡を使って先を確認する。
「前方、不明です。――気を付けて」
「はい、ちゃんと戻ってきますからご安心を」
にこりと何でもないよう笑うカーディスは、身の軽さを使って先行での斥候を行う。
スキルや工夫をしての成果か、幸いにして遭難はせずに情報を無事彼は持ち帰ってくる。
何より、足場の悪さを水上歩行で補えたのは大きいだろう。
皆が、慎重に、真剣に、心を一つにして。
お陰で、歩みは順調だった。敵との遭遇も防げている。
ただ、一つ気がかりがあるとすれば。
「時間、ですね」
ファティナは、胸に掌をそっと当てる。
心だけは今にでも駆けていきそうに胸がはやる。
この一瞬も、救出対象の命は流れているのだから。
●暗中模索
「うん、溺れちゃいそう…」
ある意味、予想通りではあったのだが。
清良 奈緒(
ja7916)の幼い体躯は、汚水から顔を出すのが精一杯、といったところ。
「大丈夫ですよ。俺が深い場所は手を貸しますから」
柔和に頷く森林(
ja2378)が、彼女の横にフォローの形で入る。完全に汚水に彼女が溺れてしまうなら、背負うことも辞さないつもりだ。
「ありがとう、森林のお兄さん!」
花咲くような明るい笑顔は、暗い陰鬱な景色の中で日常を覗かせる。
「みんなで、帰ろうね」
木ノ宮 幸穂(
ja4004)は自分に言い聞かせるように呟く。大事な世界、大事な人達。
「はい、必ず救助を成功させましょう」
凛と答えるヴィーヴィル V アイゼンブルク(
ja1097)の言い回しは、何処か固い。
意図して、普段の依頼と同じようにと引き締めた横顔の彼女は、僅かに縋るよう指先が何処かを当てもなく彷徨い、そして気丈に自身の手を握り締める。
胸に唱えるのは、大事な人の名、己の家名。殊更、奮い立たせる為の祈りに似ていた。
そして、彼らもまた歩き出す。先行班が残していった目印を辿って、ヴィーヴィルがマッピングを欠かさない。
幸穂の目は、今は夜を見通す程の視界を手に入れている。この場では、得難いアドバンテージだ。
「まだ、敵はいないみたい」
重ねて索敵を使用していけば、ある程度の不意打ちは防げる。
だが、彼女はふと足を止める。
今、――横道から暗い影が蠢かなかったろうか?
「急いで、今なにか」
折しも、水の深いところに差し掛かった辺り。幸穂は皆に警戒を促し、各人が隊列を整える。
「こちら、敵影を確認しました。戦う可能性があります」
森林が咄嗟に連絡を入れて、清良を連れて前に出る。
水の浅い、彼女だけでなく皆が動きやすい場所まで早足に動けたのは、先に敵を確認できた成果と言えるだろう。
ルートが先行隊により確立されていた分、彼等は移動に集中できたという要因もある。
「合流まで、凌ぎましょう」
故にヴィーヴィルは背筋を正し、敵へと向き合う。この侭背後を狙われながら進むことは到底できないなら、有利な形で戦うのみだ。
水音が、――跳ねる!
姿を現したのは、粘液に身体を光らせたワーム。水の中に姿を消したかと思うと、清良の脚に鈍い痛みが走る。
「…っ、水の中からきたよ!」
浅いとはいえ、彼等の足は未だ汚水に浸っている。ワームはその柔軟な身体を利用して、彼等の足元を擦り抜け狙い撃つつもりだ。
咄嗟に彼女もカーマインを水中に叩き込もうとするが、汚水で晴れない視界では当たるのかどうかも分からない。
「これは、当てにくいですね」
和弓を引き絞って狙いを定めに行く森林が、眉を少しだけ揺らす。射線が取りにくい上に、相手は自由に泳ぎ回っている。
それでも、逆に人数が少ないのが幸いして前衛の位置に立つ彼は、視界が広い。
引き絞っての、――一射目。
激しく、水の中で暴れる気配。派手な水しぶきが上がり、どろりと体液が汚水に混じる。
重ねて弓を射るのは、幸穂だ。速攻とばかり、思い切り狙い澄ました一撃を叩き込む!
だが、その剣戟に惹かれたのか小さな羽音が暗闇に混じる。
「……来ました。挟撃です」
背を向けて居た方から、ヴィーヴィルに接近するのは吸血蝙蝠。彼女は、魔力を編み上げ、防御の術を使って白い首筋に食いつこうとした一匹を弾き飛ばす。
傷は、僅か。
その隙を逃さずに彼女は距離を取り、魔力の光を投げ込んで皆の視界を確保する。
数は、二匹。
清良は扇へと武器を持ち替え、傷を負った一匹へと投擲する。
凛々しく睨むのは、ワームの方。水中から一部が覗いたかと思うと、不意に紫色の粘液が近くにいるものに向かって射出される。
酸に似た感触が大きく、その場にいた皆の肌を爛れさせる。
「まだ、耐えられるよ!」
幸穂は己の纏う羽のようなアウルの一枚を特に火傷の酷い肩へと舞わせる。
融けて、彼女の傷を癒すと僅かばかり息をつく間がある。
水中の敵、足場の悪さ、足りない時間。だが、彼等は少しも折れずにここにある。
ワームの相手が難しいとなれば先に蝙蝠を削りながら、応急手当で傷を癒して着実に体勢を整えていく。
焦りはなく、皆勝利だけを見据えて躊躇わない。
森林の方に蝙蝠の一匹が舞い降りて、腕へとかみつく瞬間、割り込むのは虹色の光――焔が、ダメージを軽減に動く。
光纏う翼は森林を包み、彼の身体に傷を入れない。
同時にごう、と炎が鳴ってヴィーヴィル近くの蝙蝠が、見事に焦がされ落ちる。
「お待たせしました――!」
妹と呼ぶ彼女に、皆に声を張るファティナの姿。
先行隊の、合流だ。
●糸を辿り
空気が嫌な音を立てて震える。
耳を押さえたい、不快感に自分達の力が、削がれていることを感じる。
「先にこっちから落としますよ」
カーディスが素早い動きで、前衛の壁へと加わる。
幸い、数は予想していたより少ない。両班の、敵を避ける動き方の成果だろう。
至近距離からリボルバーを蝙蝠の腹に宛がい、発砲。
「こっちはボク、がんばるね!」
清良も蝙蝠を抑え込む方に回る。当てさえすれば、落ちることはもう分かっていた。
速攻とばかり、アウルで生み出したナイフを続けざまに投擲して確実に削っていく。
援護に、両脇の位置取りから狙いを澄ますのは、ファティナとヴィーヴィルだ。
お互い、視線を交す必要も無かった。
狙いを十分につけて、他の誰も傷つけない形で。
銀の髪が靡く、その次の瞬には。
交差するよう二つの、魔力弾が行き交い蝙蝠の回避経路を防ぎながら見事に叩き落としていた。
その間も、足元を泳ぎ回るワームに何事かを見極めようと視線を落としていたのは、焔。
水の動き、揺れる波紋の形。
「ごめんね、ちょっとだけ止まって」
ワームに向き合う皆へと声を投げる彼に、絡み付こうとずるりと敵が彼の腰を這う。
水が凪いだ一瞬、そこで動く攻撃の瞬間は好機。
攻撃を甘んじて受け、両腕で構えたバルチザンを水面へと突き込む――!
切っ先に捉えられたワームは、身を悶えさせてのたうつも――、焔が腕に力を込めた瞬間水上へと引き上げられ。
「分かりました、いきますよー」
身を反らし、射線を確保する焔の動作にいち早く悟った櫟は、後ろに下がりながら照準を合わせる。
「狙えるよ、任せて」
幸穂が振り返り蝙蝠から狙いを同じに。横には弓を引き絞る森林の姿。
「皆で、迎えに行こう」
射手に身を晒す形になりながらも、迷いは無く焔は彼等へと向き直り笑う。
この場で、誰一人外す訳がなかった。
三人は、狙い撃つ為の力を持ち、研鑽してきた者達なのだから。
正確に、――強く。
アウルの放出は、一瞬。無数の攻撃が一気に弾けて、――攻撃がやんだ頃には、焔の剣の先のワームは完全に屍としてぶらさがっていた。
「怪我の手当ては、必要ですか?」
森林が皆に聞いて回る。怪我は、皆それなりに深いものの、食事をとる程でもないと全員が判断していた。
食べる為の時間より、先に向かう余裕を作るべきと手当だけで彼等は立ち上がる。清良は蝙蝠の死体をその間に手早く済ませていた。
また、班を分けての進軍をして、暫く。先行していたカーディスは、一つの扉を見つける。
足を止め、皆と合流してから開く、その先は――建物の中に続いていた。
●邂逅
階段を駆け上がる皆の足取りは自然と早い。
「こっち、いたよ! 牙2号たちの大事な人たちだ!」
清良の生命探知に反応がある。潜めた声を投げて、全員が更に足を速め貯水タンクの合間を抜けていく。
物影に蹲る影。
一番近くに見えるのは、腕。
投げ出された手は、女性の物。血の気も無く、氷で出来たつくりものの如く。
けれどその血に濡れた指は今、動いた、気がした。
安否を確かめようと近づく合間に、現れるのはもう一つ。
黒豹の出現とわかれば森林が弓を構え、幸穂は身を挺してでも庇うつもりで人影の方へ。
だが。黒豹は一向に襲い掛かる様子も見せない。
「…おかしいですね」
森林が慎重に弓を突き付けた侭距離を詰める間に他は救助者のフォローに回る。
倒れ伏すユウ(ja0591)に、膝をついて抱き締めようとするファティナ、それからく、と口元を堪えるよう引き締めてやはり傍へと近づくヴィーヴィル。
「妹が迷子になったら連れ戻すのは、姉の役目です。こんなにも、遠出をして。――本当に、心配したんだから」
優しく伸ばした腕は、心音のある身体を捕える。
「バナナオレですよ」
そっと、差し出した水筒にか、声にか。垂れていた手は、今度こそ動いた。
「軍師殿ー、皆さん御無事ですか!」
奥の陰には、昏睡している鳳 優希(ja3762)を守る姿勢で膝をついた鳳 静矢(ja3856)が寄り添うようにある。
そして、ユウも含めた三者を庇おうとしていたのか、タンクに寄りかかった侭崩れ落ちているのは、断神 朔樂(ja5116)だ。
誰の傷も、深い。
だが、生きている。
「よかったねー、おかえりなさい!」
他に警戒を任せて、清良は癒しの術を紡いで行く。治癒の力は彼等の身体に吸い込まれていった。
「みんな心配してますよー?お仕置きしたいという人もいたので、帰ったらいろいろ覚悟が必要ですねー?」
櫟がのんびりと声をかける。その間も、指は忙しなく動いて、片端からの応急処置に励んでいた。
その光景に目を細めながらも、焔達は黒豹の様子を見張っていた。下手に刺激して、味方への被弾を煽る訳にはいかない。
黒豹はよろよろと動いたかと思えば壁に体当たりをしたり、かと思えば唸って自身や、設備をところ構わず引っ掻いたりする。
「陽動班の成功かな」
指令系統を奪い命令が一斉に停止されたのだとしたら。
「じゃあ、今のうちにだね」
幸穂の合図で、焔が万が一の被害を防ぐカバーに回りながら、森林と重ねての射撃。
あれだけ皆を苦しめた黒豹は、呆気なくその場に倒れ込む。
彼等が周囲を見渡したところで、他にも数体の同じ状態の黒豹が見られたが、全て同様の始末で事足りた。
後には、救助者が残るだけだ。
「お帰りなさい」
確かに救えた命の重さを、焔は断神を抱き起しながら思う。
もう、意識も無いだろうに瞼が僅かに揺れたのは、最後まで仲間を守る為に動く、その意思の表れだろうか。
「あなた達を待ってる人達がいますよ」
柔らかい、森林の声が響く。
傷の深い優希の手が誰にかと動いたのは、仲間達の安否を気遣ってのことか。
「軍師殿、早く傷を回復させないと姫抱っこしますよ…」
辛うじて目を開けた途端、両腕に守るよう抱いていた恋人を仲間に押しやろうとした静矢に、カーディスが脅すような声でいい、小さく笑いが弾けた。
無事のしるしと受け取ってか櫟が彼等を見る眼差しが、柔らかく綻ぶ。
「…良かった、本当に良かった」
ヴィーヴィルの気丈に張りつめた糸が僅かに解ける。
遠く隔たれた日常は、今、彼女の手に戻ろうとしていた。
短い準備期間、依頼そのものへの重圧、――困難へのプレッシャー。
抱く心は、人それぞれにあったかもしれない。
それでも、皆が躊躇わず踏み出したのは。
蹲るより先に、歩むことを選んだのは。
「……有難う、…信じていた」
誰かの、声がする。二度と会えなかったかもしれない仲間の声が。
「お帰りなさい」
誰かが、答える。大事な学園の仲間の手を取って。
細い細い途切れそうな糸を辿って、彼らは今降り立った。
繋ぐ為の、今へ。
電波が通じる場所になれば、彼らは高らかに言うだろう。
「要救助者四名、確保しました。全員、無事です」
その頃にはもう、夜は明けている。
沈む闇から、始まりの暁へ。
朗報は太陽の光の如く、仲間へ――皆へ届く。
着替えや治療、短い時間に成せるだけのことをすれば後は、次の班に全てを委ねて。
確かに捕まえた人達を掻き抱けば確かに命の温度がする。
暁の炎は今、掲げられた。
家路を照らす、ひかりとして。