●小さな地下迷宮の中で
「――うー、うえぇ……」
酒に酔ったサラリーマンの一人が、道端の排水口へ向けて吐瀉物を吐き出していた。
格子の嵌ったその穴の奥は、当然ながら下水道へと繋がっている。
T県H市の下水道。
それは駅を中心に小さくない繁華街と住宅地を持つH市にとって重要な都市機能のひとつである。
それ故にその下水道はそれなりの規模のものが敷かれており、住民は知らずその恩恵に与っている。
――不意に、どん、とサラリーマンの鼓膜を鈍い音が叩いた。
「うぇ……?」
遠くで大きな太鼓を叩いたような、そんな音。
同時に足元が小さく揺れたような気がして、サラリーマンはきょろきょろと視線を彷徨わせた。
だが、その原因らしいものは見当たらない。
――また、どん、どん、と音がした。連続で二回。
「……どっかで祭りでもやってんのか?」
サラリーマンはそう呟くが、酔いに回る頭ではそれ以上のことなど考えられずに、うぇ、と衝動に駆られてはまた吐瀉物を格子の奥の穴へと吐き出していく。
よく分からない酒臭い混合物が流れていく、その奥――
――ちちっ、と独特の鳴き声がする。
その鳴き声の主を知っている者にはすぐに分かるだろう。
鼠の鳴き声だ。
すえた匂いのする下水道の中で、鼠の一匹が、何かを探すように上体を上げて、きょろきょろと振り向いてはある方向にひた走っていく。
やがて、鼠の行く先に何かが見えてきた。
それは――宙に浮かぶ光だ。
通常の光ではない。アウルの反応を強く持つ光で、鼠はそれに引き寄せられるように近付いていく。
光に照らされて、鼠の姿が露になる。
それは確かに姿形こそ鼠ではあったが――毛皮はボロボロであり、何かの皮膚病に感染しているかのような異常を思わせた。
そしてもうひとつ。尻尾とは別に、ずんぐりと太った臀部の辺りから、螺子を巻いたような太い毛――まるで導火線のようなものが生えているのが、よく観察すれば見えただろう。
――ぱん、と小さな破裂音。
闇から飛んできた小口径の弾丸が鼠を貫き――
どんっ! と、下水の汚れた空気を震わせた。
「――聞こえた?」
その様子を影から覗きつつ、猪狩 みなと(
ja0595)は通信の向こうにそう問いかけた。
「……はい。さっきの二回よりは、近い、です。多分、西側…… けほっ」
返ってくるのは疲労の色濃い宮古 瀬憐(jz0084)の声。
鼠――鼠型爆弾ディアボロに見つからないよう声を小さくしているせいか、弱々しさは強い。
「分かった。もう少しだけ待っててね」
「済みません…… 宜しく、お願いします」
通信を切る。
「どう?」
短く静かにミリアム・ビアス(
ja7593)がみなとに尋ねる。片手の拳銃は先程ディアボロを仕留めたものだ。
ペンライトをその拳銃と一緒に持ちながら、下水道の通路を警戒している。額につぅ、と汗が浮いているのは、暑さのせいではないだろう。
「西側、というと多分、この辺りかな。どちらかというと今は私達よりB班の方が近い」
携帯機器の画面に表示した地図を見ながら、みなとが言う。
「じゃあ移動しましょう。 ――来てる。ぞわぞわ音がする」
エヴァ・グライナー(
ja0784)が、こちらも拳銃を構えてそう警告する。
先程の爆発に惹かれてだろう。彼女の耳はこちらへ近付いてくる複数の小さな足音を捉えていた。
「分かった。じゃあ、そっちへ。B班にも連絡して――」
「――ふむ、分かった。そちらも気を付けてな」
通信に応えながら、ラグナ・グラウシード(
ja3538)は暗闇の中で頷く。
「うん―― ミリアムさん、右! また後で!」
どんっ! という爆音と共にみなとの声が途切れる。一拍遅れて、何処からともなく、どん、と音が響いてきた。立て続けに三回。
「向こうは派手だな。 ――ロート殿、どうだ?」
「――もうひとつ、爆発痕です。先程仕留めたものではありません」
つ、と下水道の壁面に視線を滑らせて、アレナ・ロート(
ja0092)が呟く。
常人であれば殆ど何も見えない暗闇の中、彼女の赤い瞳が僅かに輝いては、じっと闇を見通している。
「確かか?」
「確かです。こちら側を通ったのは間違いなさそうですね」
自分では確認しづらいからだろう。青龍堂 夜炉(
ja0351)の確認に、アレナは律儀に頷きを返す。
最も、彼女のその頷きも、明かりというには少々頼りないペンライトぐらいしかないこの下水道の暗闇の中ではよく分からないのだが。
「行きましょう。そう遠くはないようです」
「うむ。 ――上は、丁度繁華街辺りか?」
「そのはずだ」
「脱出には気を使わなければいけませんね」
三人は小さく声を交わしながら、警戒を絶やさずに奥へと向かう。
遠くから響いてくる爆音は、やがて小康状態になりつつあった。爆発によるさらなる誘引が一段落したのだろう。
と、思えば、再び、どんどんっ、と鳴る。
「――」
「?」
「どうした?」
最後の二回に違う反応を示したのは、前と後ろを進むアレナと夜炉。
「……今の二回、ちょっと場所が違いませんでしたか?」
「ああ。 ――向こうだ。急ぐぞ」
「言われずとも」
「む―― 分かった!」
●震え
「っ、つ、ぁっ……」
痛む身体を無理やり引き起こして、何とか抱き止めた仲間の身体を抱え直してから瀬憐はひた走る。
通信の応答に気を取られて至近で爆発した二匹のディアボロに、全品が引き裂かれたかのように痛む。足が千切れて何処かに行かなかったのは幸いだった。
近くでまだ足音とあの鳴き声がする。
とにかく走りだしたのは、棒立ちでは今度こそ四肢を吹き飛ばされかねないと、半ば恐怖に駆られてのことだ。
こんなところで死にたくない。
「っ!」
正面に一匹。
なけなしのアウルを振り絞って、ナイフを投げる。
命中とほぼ同時、どんっ! と広がって向かって来る爆風に身をぶつけて、すっかり汚れてしまった金糸のポニーを靡かせてはとにかく走る。
自身の足音に紛れて、ざわざわと後ろから無数に集まってきている気がするのは幻聴か、それとも現実か。
もう足は止められない。
次は正面に三匹。小さな目が闇の中で僅かに瀬憐を睨んでいる。
とても対処できるものではなく、またそれに直視されるのに耐え切れず、咄嗟に瀬憐は左側の接続へと逸れた。
だが、その先にも一匹――
しかし、その一匹は飛んできた矢に貫かれて、横合いへと弾かれてから爆発した。
「大丈夫か!」
次いで瀬憐の前に姿を現したのはアレナ。
瀬憐の姿を、そしてその後ろに迫る鼠の姿を確認するが早いが、ぐい、と瀬憐の手を引いては引き寄せる。
「今だ!」
「させんぞ――くたばれ、リア充ッ!」
接続の細い道から瀬憐が引っぱり出されるとほぼ同時に、割って入ったラグナが剣を振るう。
白い波動がディアボロを吹き飛ばし、爆発――どんどんどんどんっ! と誘爆を引き起こして、凄まじい量の爆炎が細い道を満たし、道の両端から瞬間的なバーナーのように火が噴き出した。
もし追いつかれていれば、木っ端微塵は免れなかったろう。そう容易に思わせる威力だった。
俄にディアボロが一掃され、荒い吐息と一先ずの安堵の呼吸で場が満たされた。
アレナも一息。手を掴んでは引き寄せた、呆、としている瀬憐と、その背中に負われているもう一人の姿を確認して、声を掛ける。
「――瀬憐、宮古・瀬憐と他一名ですね? お待たせしまし――わっ」
声が驚きで中断されたのは、瀬憐がアレナに抱き付いたからだ。
小さな肩がかたかたと震えている。それを見て、アレナはいくらも歳の違わない瀬憐の頭をそっと撫でた。
その間に目配せをする。夜炉は頷いて、連絡をA班へと入れた。ラグナも声なく頷いては、周辺を警戒する。
「……っあ、す、済みません」
僅かに時間を掛けて、瀬憐が正気を取り戻す。
「いえ。大丈夫ですか? まだ動けますか?」
「はい。でも――」
「そっちは俺が背負う。あんたは今は自分だけ気にしてろ」
瀬憐から半ば奪うようにして夜炉が気絶している方を背負う。
「さっさと出るぞ。急がないと、向こうで陽動に入った三人が危ない」
「うむ。 ――それに、どうやら全て向こうに釣られてくれた訳でもないようだ。来るぞ」
「行きましょう」
「は、はいっ」
歩みを再開する。
急ぎ足ではあるが、僅かに足を引く瀬憐の歩みに合わせた優しいものだ。
だが、それを狙うかのようにディアボロが追い縋ってくる。
「薄汚い使い魔どもめ……! ――ぬんっ、くたばれ、リア充!」
気合と怨嗟の声と共に、追ってきたディアボロをラグナが一撃する。
「夜炉さん、ここを出たら上でお二人の応急手当をお願いします。阻霊符も忘れずに」
「分かってる。準備も大丈夫だ。 ……ち、前にもいやがる。来るぞ」
脱出させるものかとばかりに正面に姿を現してはこちらへ駆けてくるディアボロが三体。
ペンライトの光に照らされる中、ガラス玉のような瞳を反射で光らせては一直線に向かって来る。
「く――先に行って下さい。後から追いつきます!」
アレナと夜炉は応じ合うと、夜炉は前へ跳躍、気絶した一人を背負ったままディアボロを一息で飛び越しては予定の出口へと駆け。アレナは弓に瞬時に矢を番えて放ち、夜炉を追おうとしたディアボロの一体を貫いた。
●静寂へ
「まだまだ来る――Ia, Ia, Fthaggua! 吹き飛ばして!」
エヴァが古語の詠唱と共に炎を放っては、迫ってきた数体を焼き払う。
吹き飛んだそれらは空中で爆発、四散しては、狭い下水道の中で弱くはない爆風を三人に浴びせかけてくる。
「はっ! エヴァちゃん、向こうの明かりがそろそろ切れる――ミリアムさん、カバーしてっ」
みなとはウォーハンマーを振るって生み出した衝撃波で一団を薙ぎ払っては、逐次遠距離攻撃を行える二人に指示を出していく。
「分かった――これは大変ね、数が多い……えいっ」
ぱんぱんぱんっ、と拳銃が許す限りの連射でディアボロを掃射しつつ、捌き切れなかった一体を蹴り飛ばす。
このディアボロは一体一体はとにかく脆弱だ。撃退士のアウルを込めた力で何か一撃を加えればそれだけで倒せる。だが、ひたすら数が多い。
そして絶命した時に撒き散らされる、物理と魔法の両方の性質を備えた爆発が、とにかく厄介だ。
蹴り飛ばしたと同時、ミリアムは僅かに身を引いて身構える。
蹴り飛ばしたディアボロが宙を僅かに舞って、爆発。
ぎりぎり致命的範囲から逃れたミリアムは、叩きつけられる衝撃に耐えながら休みなく拳銃を連射する。
「事前に瀬憐ちゃんからどんなのか聞いといて良かったわ。 ――エヴァちゃん、再点灯お願い」
「任せて――Wo viel Licht ist, ist starker Schatten」
詠唱と共にエヴァは自身の手から生み出した『トワイライト』の光を、三人が陣取っている場所からやや離れた場所に配置する。
索敵に必要な明かりになるとと共に、三人の盾となる生命の灯だ。
しかしそれでも、爆発の余波によるダメージが三人へと蓄積していく。
このままではあまり長くは持たない。
みなとは限界点を判断しつつ、撤退の算段を立てる。
限界を迎えるまでに、ディアボロが全滅するか、瀬憐を地上に送り届けたA班が合流に来てくれるといいのだが――
「弾切れがないのが幸いね。エヴァちゃん、そっちは大丈夫?」
「大丈夫! でも、それより熱くて汚くて仕方ないわ!」
陣形を徐々に小さくしながらミリアムとエヴァが応じている。
エヴァの言う通り、三人の場所にはむわりとした熱気が籠もりつつあった。立て続けに起こっている爆発のせいだろう。
このままでは体力を奪われる。潮時か。せめて場所を変えよう。
「ミリアムさん、エヴァちゃん、一旦離脱しようっ。それからB班に連絡して、時間掛かりそうなら撤退っ」
「分かった、そうしましょう」
「分かったわ。薙ぎ払うわよ――あっち行けっ!」
再びエヴァの詠唱と共に複数体が焼かれ、爆発する。
その一撃で出来た空白に、三人はすぐさま一方向に向けて駆け出した。
「後ろ、来てる――!?」
「来てるわ。振り返っちゃ駄目、まだまだ数がいる――」
幸い、鼠ディアボロの足はそれほど早くはない。三人が光纏をせずともぎりぎり追いつかれないようには出来る。
みなとは走りながら携帯機器を取り出しては、素早く通信を掛ける。連絡先は勿論、別行動中のB班だ。
「もしもし、ラグナさん、今どこ?」
「む、猪狩殿か――」
僅かな呼び出し音の後、ラグナが応答する。期待を持たせるような含みと共に。
「心配ない。もう前にいる。ロート殿も一緒だ」
――答えと同時。三人がひた走る先の暗闇に炎が灯る。
『トーチ』の炎だ。
その炎に照らされて、両手剣であるツヴァイハンダーを構えながら宣言通りにラグナが通路に立っていた。アレナも側で弓を構えている。
「宮古殿ともう一人は既に地上へと夜炉が送って応急処置を始めている。後はこの薄汚い使い魔共を――一掃するだけだ!」
「よし、反転! 一気に片付けようっ」
五人が揃って、一気に手数が向上する。
ディアボロは押し寄せるも、遠くから間接射撃の掃射、寄っては強烈な近接攻撃を叩き込まれ、効果的にその役目を果たせずに爆散していく。
「――ミリアム、右だ!」
「任せて――ラグナ君、そっちへ行った!」
「うむ! グライナー殿、カバーを頼む!」
「Ia, Ia, Fthaggua! 燃えちゃえ! これで最後よ!」
「ありがとっ! 少なくなってきた――後少し!」
五人の連携が厚い防火壁となってディアボロの前に立ちはだかる。
それでも吶喊を繰り返してはほぼ無意味に爆発、誘爆していく様は、まさに飛んで火にいる何とやら。
――程なくで、下水道の中は再び臭気漂う静寂を取り戻しのだった。
瀬憐と気絶していた撃退士も、夜炉の適切かつ迅速な応急処置もあって大事に至るほどではなく。
「本当に、ありがとうございました」
「ありがとうございました。この御恩は絶対に忘れません」
そう皆に一礼して、汚れと臭気落としにと、瀬憐が目を付けていた温泉宿に皆を誘い。和気藹々と一夜を過ごして。
この事件は幕を閉じたのであった。