●ワイルド・ライフ
――赤嶺・明日香はとても楽しい気分でいた。
例えるならば、そう、人間としての全てのあらゆるしがらみから解放されたような、そんな気分。
代償として何か色々と忘れているような気がしたが、そんなことはきっとない。
くぁ、とひとつ欠伸をする。
日向でのんびりゆっくりと寝転がりながらの昼寝。
ついつい、うねりうねり、ぱたぱた、と尻尾が動く。
……尻尾?
一瞬、疑問のようなものが浮かんだが、しかし次の一秒で霧散した。
そんなことはどうでもいい、と。
ごろごろと、他の人と一緒になって寝転がる。
ここに逃げ込むまでは色々あったけれど、ここには煩く叫ぶ人や追いかけてくる人はいない。実にゆっくりできる。
ああ、今日はいい天気だ。
「こ、これは……」
「わ、わわ〜……」
「――」
第三クラブ棟の三階。丁度、廊下の中央にある一部屋。
その部室に入って、近衛 薫(
ja0420)、望月 忍(
ja3942)、氷雨 静(
ja4221)の三人は絶句せずにはいられなかった。
机などが端に片付けられている部室。何をする部なのかは分からないが、中央が広く空けられた部室。
赤毛の巨猫――赤嶺・明日香はその中央でごろんと横になっている。
そしてその周囲。十人以上の男女が、それぞれ猫耳と猫尻尾を生やして、ごろごろと実に気持ち良さげに寝転がっていた。
いたるところで尻尾がうねりぱたりと動いている。
窓から差し込む陽気によるものだろう。部屋は程良く暖かいぐらいの温度で、複数の穏やかな寝息が奏でる空気も相俟って、春を感じさせる雰囲気に満ちていた。
思わず三人を眠気が誘う。
「――はっ」
薫はふるふると顔を振って、眠気を追い払う。
とにもかくにも、目標を発見した以上は寝ている訳にはいかない。いかに蠱惑的な光景が広がっていようとも。
そうして薫は忍と静に目配せをする。
「……くぅ」
「し、忍さんっ」
まず既に落ちかかっていた忍を薫は静と二人掛かりで目覚めさせてから、三人はそれぞれでそっと分かれた。
万一逃げられないように扉などを閉めてから、赤嶺や周囲の猫人間を起こさないようにそっと近付いては取り囲んで、もう一度目配せ。
「じゃあ、まずは……」
先陣を切るのは忍。彼女が上手く抱き込んで、それで捕まえられれば良し。静は後ろ手にこそりと投網を用意しつつ、薫と共に推移を見守る形だ。
そ、と近寄る。途端、ぱちりと明日香は目を覚まし、その猫の瞳で眠たげに忍を見た。くる、と顔を回して、薫や静の姿をも確認する。そして再び忍を見た。
「赤嶺さん、こんにちは〜」
言いつつ、忍は目を合わせて微笑む。急に動いて警戒心を刺激するのは良くない。
しばしそうしていると、警戒心が幾分か薄れたのか、起き上がりかけていた身体をころんと転がした。
忍はそっと手を伸ばし、明日香の顎に触れる。すると、普通の猫がそうするように、明日香もくいと顎を見せた。
ゆっくりと掻いてやると、実に気持ち良さそうに目を細める。
「にゃふー……」
本物の猫と唯一違うところは、心地よさげな鳴き声を上げたところだろうか。可愛らしいが、猫らしくはない。
「えへへ〜」
忍はこれ幸いとより近付きながら、ゆっくり優しく撫でモフる。
明日香もそれに答えるように、ふぅ、にゅぅ、と声を漏らしながら、忍の膝下でごろごろと転がっては、身体をすり寄せる。
そこで忍はそっとマドレーヌを取り出しては、明日香に提示する。甘い匂いを漂わせるきつね色のそれに、明日香の鼻がひくりと動いた。
「にゃっ」
「ふわっ!?」
明日香が身を起こしては、その巨体でぐいっと忍を押し倒すようにしてマドレーヌを咥えた。
バランスを崩して一緒に倒れ込み、伸し掛かられる形になる忍。モフモフの赤毛が心地よい。
明日香はマドレーヌをはぐはぐと三、四口で食べ終わると、そのままペロペロと忍の口元を舐める。
「あはは、くすぐったいにゃ〜」
いつの間にか生えている猫耳をぴくぴくとさせつつ、忍はそっと薫と静に視線を合わせては、用意した毛布で包むように――
「にゃっ」
「きゃっ!?」
瞬間。上機嫌になった明日香の琴線に触れたのか、次にそのモフモフの巨体がターゲットに選んだのは――薫だった。
ぱっと踵を返すように忍の胸元から薫のところに飛び込んでは、すりすりと赤毛を寄せつつペロペロと頬を舐める。恐らく好みのタイプだったのだろう。
「ちょ、ちょっ……」
薫が慌てたのは、抱き付かれた事にではない。感覚――そう、頭の頂点とお尻の辺りがむずむずとして、何かが生えてくるような――そんな感覚だ。
これはまずい。だが、ここで明日香を放り投げて逃れるわけにはいかない。
「し、静さん、お願いします……!」
「う、うんっ」
刺激しないように、よしよし、とするも、それをするごとに感覚が強くなる。
必死に衝動を押さえ込みながら、薫は明日香を抱き止めつつも静に救援を要請する。
静が動くと、明日香も反応して静を見た。
視線が合う。静は微笑みを向けるが――明日香はまるで何かを見透かすかのようにじぃっとそれを見つめると、ぴょん、とひとつ跳ねて部屋の出口へと駆け出した。
「っ!?」
静は咄嗟に投網を投じる。が、赤嶺はそれをひらりと躱すと、一瞬立ち止まって扉が閉まっているのを見、あろうことか――がしゃん! と窓を突き破って逃走を始めた。
「に、逃げられました……! 追いかけましょうっ」
「はいっ…… ? 忍さん?」
二人が駆け出してすぐ。忍が着いて来ていないことに気付いた二人が振り返って見たものは――
「ふ〜…… にゃぁ〜……」
――陽気の中でくたりと眠たげに転がって尻尾をパタつかせる忍の姿だった。
薫と静の脳裏に「あいつはもう手遅れだ、放っておけ!」という誰かの台詞が過ぎったかどうかは――定かではない。
●キャットハンター
「――!?」
鳳 静矢(
ja3856)がそう突如として顔を上げたのは、硝子の粉砕音が廊下に響き渡った直後だった。
部室捜索の三人組が入っていった部屋から飛び出してくるひとつの赤い影。巨体の赤毛猫。
あれが目標の赤嶺・明日香に違いない――そう静矢が気付くのと、明日香がこちらに駆けて向かってくるのはほぼ同時だった。
「く――速い!」
元が撃退士だからか。光纏を行なっているのではないかと思わせるぐらいに普通の猫とは全く別次元の速度。
止む無く静矢は光纏。紫電の輝きを纏って、明日香を強引に捕らえに掛かる。
「捕まえた、ぞ!」
「ふにゃあっ!?」
がっしとモフモフの大きな背中を抱き込むように押さえつけては、絶対に逃さぬと組み伏せる。
明日香が人間の姿であったら、さぞかし危険な光景であったろう。さておき――
「これさえ付ければ……!」
静矢は用意しておいた大型犬用の首輪を取り出しては、手際よく明日香に装着しようと試みる。
抑え込みつつ、赤いスカーフの巻かれている横からさっとその首に回しては大きさを調整し、留め金を掛けて――
「ふううううっ!?」
「く、なんという力だ……!」
流石に首輪を付けられそうとあっては嫌悪が先に立ったのか、明日香が独特の鳴き声を大きく上げながら有らん限りの力で暴れる。
加えて、静矢もその頭部と尻の辺りがむずむずとするのを感じる。これが猫化の前兆なのだろう。
光纏をしているのにその効果が出ようとすることで、暴れるのに合わせて猫化の効果も強力になっているのを静矢は感じた。
とにもかくにも。それを強引に押さえては、留め金を締めに掛かる。これも明日香が人間の姿であったら以下略。さておき――
「――なんだなんだ?」
余りの騒ぎに、近くの部室の扉からぞろぞろと生徒が姿を現した。
大人数の部だったのだろう。男子も女子も合わせて数十人。静矢と巨体の赤毛猫の取っ組み合いを見て、また何かの騒動と解決の依頼か、と彼らは事情を察する。
そして、それは起きた。
ぽ☆ぽ☆ぽ☆ぽぉぉぉん!
――そんな魔法の言葉のような音を確かに静矢は耳にした。
そして目にした。 ――騒動を目にした数十人の生徒達の頭に、揃って猫耳がぴこんと、猫尻尾がうねりと生える光景を。
黒、茶、金、白、赤、青、緑、虎模様、斑―― 髪の毛の色に合わせてなのか、それぞれに合わせた猫耳と猫尻尾が震える。
その光景は、さながら色々な意味で別世界であった。
「――」
その名状し難き光景を目にして、静矢は呆気に取られてしまった。言い換えれば『スタン』していたのだろう。
その隙に、明日香は首輪とリードを付けたまま慌てて逃げ出していく。
「っ、し、しまったにゃ……」
くっ、と慌てて立ち上がっては、紫の猫耳をぴんと立て、猫尻尾を揺らしつつ急いで追いかける静矢であった。
「――あ、来た」
そう呟いては腰を上げたのは、片方の階段で見張りをしていたミリアム・ビアス(
ja7593)であった。
猛烈な勢いで駆けてくる赤毛の巨猫。赤いスカーフと一緒に、静矢が付けた首輪から伸びるリードが靡いている。
「仕方ない、か……」
発見の連絡はあったが、こうして走ってきているということは逃げられてしまったのだろう。ミリアムはそう判断すると、用意したものはすっぱり諦めて誘惑から鉄壁のディフェンスに態勢を切り替える。
ミリアムが、ここは通さぬ、とばかりに階段の前へ立ち塞がる。
明日香は彼女など見えていないかのように突っ走って――しかし、ぴた、とその足を止めた。
感じたのだろう。彼女から漂う――明日香が嫌悪している酒と煙草の匂いを。
じり、とミリアムが一歩を詰める。すると、明日香も猫の眼を見開いて彼女を見上げては、じり、と一歩下がった。腰が引け、尻尾はぴんと立って膨らんでいる。心なしか、その顔には汗が浮いているように見えた。
脇をすり抜けようともせず、ミリアムがじりじりと一歩を詰めるたびに明日香もじりじりと一歩を下がる。
お互いに声は発さぬものの、びりびりと空気が震えるような凄まじい重圧が辺りに満ちていた。
やがてこちらを突破することは断念したのか、明日香が踵を返して猛烈な勢いで逃げ出していく。今までに倍する速度だ。
追いかけてきた静矢や薫、静の隣を安易と突破して逃げ去っていく。
それを見送って、ミリアムは用意した『大海姫君』なるブランドの高級ツナ缶をもそりと食べるのであった。
その味は、流石の高級缶詰であったが――心なしか、少しだけしょっぱく感じたという。
●そして猫へ
明日香は全力で走っていた。
ゆっくりできると思ったら、いつの間にか三人に囲まれてこれである。
自由と平穏を求めての全力疾走。あらゆるものをかなぐり捨てて、純粋な本能からのその速度は、何者にも捕らえることは出来はしない。
そんな走りの末に、明日香は彼女と出会った。
「――おっと」
衝突するように跳び込んで来た明日香をモフっと受け止めたのは、凪澤 小紅(
ja0266)であった。
受け止められてから、しまった、とばかりにじたばたと明日香は暴れようとして――小紅と目が合う。
「――」
「――」
無言の一拍。黒曜石の瞳と金の猫目が見つめ合って、何かが通じ合った――そんな気がした。
「――もふもふ」
「にゃ、にゃっ」
小紅は感情の起伏が少ないが故に真顔のまま、しかしどこか嬉しげにそう呟くと、明日香を抱き止めた状態でひたすら撫でモフった。
明日香の赤い毛並みはどこから来ているのかは分からないが上質で、一糸一糸がルビーのような輝きを帯びていた。恐らく本人の毛が元なのだろうが、そこから察するに明日香は身嗜みには気を使っている方なのだろう。
本物の猫に勝るとも全く劣らない質感。そして巨体故の質量。小紅が三秒ほどのモフモフから感じたモフモフ度は、全ての要素を加味しても十分量に過ぎた。
「もふもふ……」
「にゃ、にゃふ、にゃう……」
ひたすらモフモフが続く。明日香も、小紅の熟練のモフモフ力に、追われて逃げていたことなどすっかり忘れたかのように陶酔していた。
そして――
「お疲れ様でしたにゃ。 ……こほん。お疲れ様でした」
「済まなかった。色々迷惑をかけてしまった」
――なんやかんやで小紅と戯れていた明日香を捕獲し、引き渡した後。
依頼を斡旋した少女と、『アウル・アルケミスツ』の部長が撃退士の面々に労いの言葉をかけた。
「いえ、ありがとうございます」
薫はその言葉にきっちり一礼を返す。隣で静と静矢、ミリアムもそれに倣った。
「明日香が元に戻ったら、改めて礼に伺う。 ……長くても二日三日、だと思うのだが」
部長はその言葉と共に、薫と静の手元に視線を向ける。
そこにいるのは、見事な黒毛と金毛の二匹の巨猫。
それぞれ、黒猫はどこか感情の起伏が少なそうな仏頂面で、金猫は猫の割にはっきりと笑顔の分かる面持ちで、薫と静に抱えられてはご機嫌そうに尻尾をうねらせている。
「もし依頼関係で不都合があったら、それも改めて謝罪させてくれ。済まなかった」
「だ、大丈夫だと思います。 ……多分」
「これに懲りずに、頑張ってください…… きっと、役に立ちます」
「うむ。目指すは元通り、と行きたいところなのだが。 ……後日、その二人にも改めて話を聞かせて欲しいと言っていた、と伝えて欲しい」
「分かった」
静矢が頷いては、ちらと二匹の猫を見る。
「……ちょっとした神秘ね。後で私も抱いていい?」
「あ、はい。その、忍さんが嫌でなければ」
「変化は、不完全なはずだったのだが…… 度合いによってはこうなるということか」
そんな声に応えたかどうか。
黒猫と金猫――小紅と忍は、にゃあ、とひとつ鳴いて、ごろごろと薫と忍の腕の中で猫耳を震わせるのだった。