●湯気立つ秘密の花園
「――よし」
男はそう言って頷くと、路地の影から温泉浴場『箱の湯』のそれなりに高い外壁を見上げた。
外壁の向こうには闇夜に映える白い湯気。そして二人分の若い女性の声が聞こえてくる。
「――」
その声――無防備に温泉と会話を楽しむ声を聞いて、男は壁の向こうに広がっているであろう光景に生唾を飲み込みつつ、腰に携えた相棒たる高性能小型カメラの感触を確かめる。
「――いざ、参る」
ちょっと格好つけた風に言いつつ、男はその身に付けているアウルの力を発動。路地から表を覗き込む。
視線の先で今日に限って忙しなく「五つで四五〇円! 八つで七〇〇円だッ! 買っていけ!」――などと、どこか聞き覚えのある声を上げながら『箱の湯温泉まんじゅう』を臨時露天販売所で扱っている店員の視線を確認。その視線が客の対応の為に逸れた一瞬で、彼はアウルによって強化された足腰で箱の湯の外壁にひらりと取り付いた。
――男は、久遠ヶ原学園の生徒、撃退士にして、しかし盗撮犯であった。
最初は、撃退士として命を賭けた任務に対するストレスを発散するために試みたものだった。
女湯。それは男なら誰もが一度は覗き見ることを夢見る秘密の花園のひとつ。諸処の事情により非モテであり、知る人ぞ知る極秘組織しっと団の一員でもある彼だけに、その欲求は人一倍強かった。
潜入、そして覗き見――今でも最初に目撃した、同じ撃退士の女生徒達のことは覚えている。
湯気に隠れた彼女達の柔肌をじっくりと堪能し――そして彼の撃退士としての次の任務は、彼の履歴の中でも最高の成績を収めた。
それからというもの、彼は覗き魔であり盗撮犯になったのだ。
――俺は、彼女達のために、次も生き延びて帰ってくる!
そう思えば、今日「『箱の湯』を任務帰りの美人女性撃退士達が集団で貸し切っている」という噂を聞きつけて、彼は挑まないわけには行かなかった。先週辺りに見つかりそうになったことなど些細な事である。
そんな熱い思いを込めて、男は外壁をよじ登り、音もなく壁の内側、小さな竹藪の中へと身を潜めた。
ひとつ深呼吸をして、相棒を取り出しつつ、そっと露天風呂を確認する。
白い湯煙の中に見えたのは、猫野・宮子(
ja0024)とエステル・ブランタード(
ja4894)の二人。
脳内の女性撃退士リストから二人の名前を想起しながら、男はすぐさま相棒を構え、二人へと向けた。
「ふぅー…… 温泉いい気持ちだよー」
「そうですね〜 疲れが解けそうです〜」
そんな会話を耳にしながら、男は己の目と相棒のふたつのレンズで二人の湯煙の中の裸身を余すことなく記録していく。
片や幼さを十分に残した犯罪的な宮子の柔肌。片や成熟した色香を持つエステルの小麦色の美肌。
思わずくらりと来そうなふたつのコントラストに、男は酔いしれつつも抜かりなく撮影を続ける。
「エステルさん、身体洗いっこしようか?」
「いいですね〜…… もう少ししたらそうしましょうか」
手拭いでその肌に流れる汗を拭きながら、何とも夢のある会話を繰り広げる二人。
これは期待出来そうだ……!
胸が熱くなる期待を抱きながら、男は尚も撮影を続け――ついにその瞬間を目にした。
二人が風呂から身を起こし、滴る湯と共に夜の空気へその裸身を披露する。
それに釘付けになるように、男は己の目と相棒の双方のフォーカスを移し――
「!?」
――瞬間、そのフォーカスから逃れるように宮子の姿がブレた。
その身にいつの間にかバスタオルを巻き付け、頭に猫耳のカチューシャを付けて迫っている。こちらへ向けて、だ。眼光は鋭い。
男は半瞬遅れて、現状を察知する。 ――バレている!
男はすぐさま相棒を腰に戻すと、アウルの力を再発動。ひらりと元来た壁を乗り越える。
ここから向こうにしばらく逃げれば大通り、そうそう追っては来られな『ぐにゅり』い――?
「な、これは――!?」
高所から地を踏み締めた足元と、着地の衝撃を和らげるために地面へ着いた手に感じた違和感。その正体を目にして、男は驚きの声を上げる。
それは、ディアボロかサーヴァントの攻撃かと見間違わんばかりに周囲の地面へとたっぷり広がった『トリモチ』であった。
勿論、来た時にはこのようなものはなかった、ということは―― 嵌められた!?
●楽園に潜む猟犬達の賛歌
――時間は少し前に遡る。
「――今、入りました。黒づくめの見るからに怪しい奴です」
温泉浴場『箱の湯』から少しだけ離れた小さな公園。そこの木の上から、双眼鏡と携帯電話を手に御守 陸(
ja6074)はそう告げた。
そこからは箱の湯の露天風呂に面した外壁の上が一望できる。勿論、露天風呂の中も。
露天風呂で湯に浸かる宮子とエステルを極力見ないようにしながら、箱の湯の外壁の内側、露天風呂の隣にある小さな竹藪の中に入ったところまでを確認する。
「こっちからもぎりぎり確認したわ。朔耶ちゃんからは入った瞬間は見えとらんと思うから、連絡したって。自分はグラウシード先輩に声掛けてから行くわ」
携帯電話の向こうでそう応えたのは亀山 淳紅(
ja2261)だ。
陸の位置からその姿は見えないが、事前の作戦通り、陸からは見づらい範囲をカバーできる位置に隠れて露天風呂の近くを見張っていた。
「了解です。宜しくお願いします」
陸は通話を切り、連絡先を確認して、次に通話を掛ける。
「――あ、もしもし、神城先輩」
「はい。来ましたか?」
静かだがよく通る落ち着いた声。応えたのは神城 朔耶(
ja5843)。陸や淳紅と比べ、比較的箱の湯の露天風呂に近い位置で見張っているのが彼女だ。
「はい、たった今。見えましたか?」
「少々お待ち下さい――見つけました。いらっしゃいますね」
朔耶の声色が僅かに変わる。丁寧でありながら、温和の中に一筋の冷気が差し込んだような声。
陸は心なしか震えつつ、頷きを返す。
「今からそっちに移動しますので、宜しくお願いします」
「分かりました。 ……ところで、陸様?」
「はい?」
「覗いてはおりません…… ですよね?」
「だ、大丈夫です。そんなことはとても」
そんな確認の問いかけに、陸は慌てて答えた。
その最中、見ないようにしていてもちらと見えてしまった宮子とエステルの裸身が陸の脳裏を過ぎったかどうかは、定かではない。
「――それは良かったです。では、皆様の到着まで監視しておりますので、お待ちしております」
「い、急ぎます」
通話を切った陸は、ぶんぶんと頭を振ると、その小柄な身体をひらりと宙へ投げ出し、木の根本に着地。たっ、と駆け出すのだった。
「しかしなんやな…… 自分も変態か覗きになった気分や……」
一方。陸との通話を切った淳紅はそう赤面しつつぼやきながら、双眼鏡をしまい込んで、携帯を耳に当てる。陸同様に健全な男性紳士として、視界の右端で湯を楽しむ二人からはちゃんと焦点を逸らしつつ。
「――もしもし、先輩?」
「うむ。淳紅殿か。ということは、先程ちらと見えたので間違いはなさそうだな。丁度今、店仕舞いと人払いをしているところだ」
淳紅の通話先は、彼にも見えている。視界の左端、箱の湯の表の方で確かに店仕舞いと人払いをしているラグナ・グラウシード(
ja3538)だ。どうやら、温泉まんじゅうは見事に売り切ったらしい。
「です。なんで、今から自分も向かいます」
「分かった。あまり二人を不届き者の目に晒しておくわけにはいかない。迅速に行くぞ」
「陸くんは朔耶ちゃんに連絡してから来てくれるはずやで、宜しくお願いします」
「うむ。 ……ところで、その、見えたのか?」
「へ? え、ええ、と」
何か奥歯に物が挟まったような言い方のラグナに、つい察して言い淀んでしまった淳紅。
それでラグナも察してしまったのか、何か言葉にならない声が携帯の向こうで響いた。
「……淳紅殿。男子たるものだな、如何に不可抗力とはいえ――」
「せ、先輩。今はその話はナシにしん? 先に罠仕掛けんと」
「む――むう…… うむ、そうだな。済まない。ともかく、朔耶殿と共に待っている。頼むぞ」
「はいっ」
通話を切った淳紅は、ひとつ大きな息を吐くと、ぺち、とひとつまだ赤い自分の両頬を軽く叩いて駆け出した。
――そうして盗撮犯が忍び込んだ外壁の下で、陸、淳紅、朔耶、ラグナの四人は持ってきた罠――たっぷりのトリモチを迅速に仕掛け、互いにそれぞれを見回し頷いてから、宮子とエステルの携帯に連絡を入れたのだ。
●禁じられし地について知りすぎた者の末路
「――今だっ!」
号令の声と共に、盗撮犯に向けて一斉に網が飛ぶ。
声の主は、表でまんじゅうを扱っていた店員――ラグナのものだと気付いて、自分が罠に掛かったという認識を強くする。
幾重にも重なった網を受けて、男の動きは格段に鈍る。が――
「く、これしき――!」
アウルの力を全開にして、強引にトリモチを、網を引き千切り、脱出を試みる男。
「抜けられますっ!」
「させるか!」
「させへん!」
陸が警告を発し、すぐさまラグナと陸、淳紅が跳び付きにかかる。
「くっ、この、離せっ、俺は、俺はぁっ!」
――帰るんだ! この日のためにッ! そう盗撮犯の魂の叫びが木霊する。ラグナと陸、淳紅に飛びつかれたまま、尚も振り切ろうとする。
しかしその前へ、ざんっ、と立ちはだかった者が二人。
「魔法少女マジカル♪みゃーこから逃げられると思わないことにゃ!」
「行かせませんよ〜」
それはまさしく、盗撮犯が先程まで隠れながら目にしていた宮子とエステルの二人だった。
流石に裸ではないものの、片やバスタオル、片やロングコートに包まれた魅力的な身体が先程よりも格段に近くにある。まさに手が届く距離。
ここに来て、盗撮犯の動きは完全に停止した。
「――えい」
「ぬぐおっ!?」
そこへ、朔夜の放った鏃のない非殺傷の矢が狙い違わずに盗撮犯の後頭部に、すこんっ! と直撃した。
「く…… 我が人生に、一片の悔い、無し……っ!」
意識を刈り取られた盗撮犯の身体が崩折れる。
こうして、桃源郷の平穏を乱す不届き者は捕らえられたのだ。
「――で、ええと、どうしましょうか」
箱の湯、スタッフルーム。
そこに連行された盗撮犯は、何故か見事な亀甲縛りで座敷に転がされながら、みっちり調書を取られていた。彼の白目を剥いた眼前にはこれも何故か陳列するように置かれている怖い道具の数々。彼がこの期に及んで素直でなかったらどうなっていたのか――想像するのも恐ろしい。
ちなみに、困った声を発したのは陸。盗撮犯の身体検査をして、没収したカメラとデータスティックを手にしての声である。これに宮子とエステルの湯けむり盗撮データが余すところ無く収まっていると思うと、赤面せずにはいられない陸であった。
「取り敢えず――」
エステルは陸からそのカメラを受け取ると、ぴっぴっ、と操作して、データを全て消去した。代わりに録画状態にして、亀甲縛りの盗撮犯を余すところなく撮影していく。そこに浮かんでいるのは
「これでひとまずは問題なしです」
「物証とかはどうしましょう?」
「さっき聞いたこいつの家にしこたまデータが残っとるやろうから、回収に行こか。データをネットに流しとらんのは、不幸中の幸い、か。お疲れ様です、先輩」
「全く、もう…… まあ、もう大丈夫じゃないかな? 近代魔法少女的なOHANASHIも終わったし」
「うむ…… 全く。いいか? 男子たるもの、女性を辱めてはならんのだ! 如何におっぱいが魅力的でも……し、失礼、女性が魅力的でも! 相手を恐怖させ羞恥させることに、何の意味がある!? 盗み見するのみならず録画など…… くっ、それをどうしようというのだ、下衆極まりない!」」
淳紅の労いに応じて、にこにことした微笑みで言う宮子に、うらやまけしからんとでも言いたげに説教を繰り広げるラグナ。問題があるとすれば、既に盗撮犯の彼に聞こえているかどうか定かではない点だろうか。その後ろで朔耶も無事な解決を喜んでか、にこにこと微笑んでいる。女性陣のあまりのにこにことした微笑みっぷりに、男性陣はやや背筋が薄ら寒いものがあったが。
本来笑顔とは相手を威嚇する攻撃的な表情で――という何処かの一文を思い出したかどうか定かではないが、淳紅は苦笑いと共に言う。
「じゃ、じゃあ、早いうちにこいつの家にデータ取りに行こか」
「そうですね…… じゃあ、僕と、亀山先輩と、あと――」
「あ、少々お待ち下さい」
そんな淳紅と陸の二人に待ったを掛けたのは、盗撮犯とのOHANASHIが終わって以降は微笑みと共に沈黙を守っていた朔耶。
「ん? 朔耶先輩も一緒に行きますか?」
「いえ、そうではなく…… まだOHANASHIは終わっていませんよ?」
「「え?」」
重なったのは淳紅と陸の声。
その声に反応するかのように、宮子とエステルも淳紅と陸を見る。
そこにあるのは優しい微笑み。 ――黒いオーラを纏った。
「一応、お二人ともOHANASHIが必要ではないかと…… 大丈夫ですよ。任務上、仕方のないことですから…… でも、見たことには変わりありませんし、ね?」
「「え……? えー!?」」
――こうして。
幾らかの犠牲はあったものの、無事に盗撮事件は終焉を迎えたのだった。