●甘美なる罠
この月になると多少肌に寒さを感じる。
事件が起きたのは先月の事。その時はまだ日中に熱が残っていた。恐らく凄惨な事件で流された血も、程無くして乾いてしまった事だろう。
事件からは数週間と経っていないが、今では荒れ果てた畑と抉られた地面がその当時の面影となって広がっていた。
「やれやれ……こんな所にも天魔が現れるなんてねぇ」
そんな福岡の郊外、閑散とした村の大地に、黒色の長袍を纏った青年がゆっくりと足を踏み入れる。
白い刺繍の入ったそれを揺らめかせ、ディメンジョンサークルで逸早く村へ到達した九十九(
ja1149)が、心情をこぼす。
「……酷い傷跡……確かに、見過ごす訳にはいきませんね」
九十九の言葉にアレクシア・エンフィールド(
ja3291)が一拍を置いて呟く。
彼女もまた、九十九と共にこの村を訪れていた……と言うより、正確には『アレクシアが連れていった』と言った方が正しいかもしれない。
まぁ、柔らかく言えば、九十九が一人で行動すると予期せぬアクシデントにより村の方角を見失ってしまう可能性が大きい、という事だ。
簡潔に言うと迷子である。
兎に角、他のメンバーよりも先に到着したであろう二人は早速行動を開始しようと歩き始める。
今回の依頼は時間が有る様で無さそうだ。焦りは禁物だが、出来るだけ早く対処するに越した事はないだろう。
と、二人が装着していた無線機から、ノイズ混じりのくぐもった声が発せられた。
キュリアン・ジョイス(
jb9214)が予め全員分用意してくれた無線機だ。
現場は村落。電波等が届いていない可能性はゼロでは無い。連絡手段が増えた事も、撃退士達にとっては有難い事だろう。
そんな無線機から聞こえて来た声……どうやらこの口調、通信相手は黒田 京也(
jb2030)の様だ。
『…………田だ……黒田だ、聞こえるか?』
「あぁ、黒田さん。聞こえまさぁね」
京也からの連絡によると、ここ一帯の住民から詳しい話を直接尋ねようとしたが、どの家からも家主はおろか住人すら顔を見せず、まともに話を聞く事は困難だった、という事。
先の事件で余程警戒が強まったのだろうか、進んで扉を開ける所は無い様だ……。
「成程ねぃ……解ったさねぇ」
短めのやり取りで九十九は僅かに眉根を寄せる。
が、これは想定の範囲であったか、然程心配は無かった様だ。
「……それは?」
アレクシアが不思議そうに九十九の手元を覗き込む。
通信を終えた彼は、数枚の紙の束を交互に見比べている。
紙には周辺地図と依頼の資料、事前情報から得た、猟友会が遭遇したポイントを点表記にした活動範囲等が載っている様だ。
準備、良いですね。
そう言ったアレクシアと共に、二人は行動開始前に軽く再確認する。
獣はやはり、南一帯からの出現情報が多い様だ。加えて時間帯は夜より昼間の方、つまり日が昇っている内が一番被害が大きい。
纏め得た情報を再び京也へ連絡すると、向こうからも了解の返事が返って来る。
大体の目星を付けた事で事前に対策出来る事はあるかもしれない。
そしてその南側ではというと、こちらにも既に三人の男女が獣への対策を施しているところであった。
「……こんなとこかね」
ドサリ、と豪快に熟した果実を辺りの畑に放り投げたアサニエル(
jb5431)は誰にともなく言った。
見れば、辺りには今投げた以外にも複数の果物が転がっている。
それらには意図的に切れ目を作る事で、熟された果実の甘い香りをそこら一面に放つようになっていた。
収穫も終わり広い面積を使える畑でそれを行った事によって、香りはより一層その果物のもので満ちている。
中には果物だけでは無く、チョコレートといったお菓子の類まで散りばめられている様だ。
それを撒いた本人であるキイ・ローランド(
jb5908)は、更に自身の体に甘い匂いの香水を振っていた。
上手く風が運んでくれればこれも甘い香りに誘われる蝶に有効の筈。
アサニエル、それに翼によって飛翔し、警戒にあたっていたキュリアンも習う様にして同じ香水を振りまく。
「さて、上手くいくと良いんですけどねぇ」
少し離れた場所で警戒に当たっていた九十九が口を開いた。
彼が居るのは周囲の家よりも少し高い木の上だ。
時折強く吹く風でしか動かない長袍は、周囲の警戒を強めている事を表していた。
アレクシアと真逆の方向には、彼女のヒリュウ、ワイバーンも周囲を見渡している。
共有された視覚には未だ何も映る気配は無い……。
「……それにしても、何と言うか……凄い匂い……ですね」
自身の鼻を片手で押さえながらアレクシアがボソリと言う。
今日の風は数分と止まらずに空を舞い続け、気分が良ければ勢いを増す。
その風は離れた距離にいる二人の元にもしっかりと甘い匂いを送り届け、それはアレクシアに限らず鼻腔を幾度と無く刺激していた。
数分……いや十数分……経っただろうか。
南部の畑の奥、森の中から風の唸る音に混じって、軽快なリズムで何かが羽ばたく音色がする。
……来た!
その姿を見て、一瞬、だけではあるが、アサニエルは表情を歪ませた。
普段は男よりも男らしい彼女ではあるが、それとてちゃんと人並みの感情を持ち合わせた女性だ。
通常の数倍もある昆虫は生理的な嫌悪感を抱かせるには充分だった。
それでも一瞬、である。
アサニエルはすぐさま感情を入れ替えると、事前に聞かされていた騒音に対しての対抗としてキイと共に刻印を発動させる。
蝶が果実に向かって誘導される中、それを仲間に掛ける時間も余裕を持って得られた事で、南部の三人はいつでも蝶に対して備えられる状態に。
そうだ。ここまではまだ準備の段階。
獲物はまだ近くに潜んでいる筈。
キュリアンもキイも、臨戦態勢へと移行する。
蝶は未だに十分に与えられた餌に夢中の様子だ。逃げる気配は無い。
逃げる気配は無いが、餌を貪る最中に不自然な羽ばたき方を見せる。
最初は短く。次第に強く、強く。そして長く。
大きな音では無かった。
だが、その音は脳内で幾度と無く反響し、その反響が反響して脳の全てを支配していく。
まるで内側から頭を叩かれている様だ。
それも素手では無く、鈍器でゆっくりと殴られている。
普通の人間ならばまず耐えられない。発狂しない様にするのが関の山だろう。
しかし、これも心構えというものだろうか。それとも聖なる刻印のおかげであろうか。
「確かに五月蝿いな。でも耐えられない程じゃない」
キイは蝶に対して確かにそう言った。
この騒がしくない騒音の中でそれが二人に聞こえたかどうかは判らないが。
やがてその音に釣られるかの様にして『それ』は現れた。
それは、唐突だった。
●撃退の合図
開始と異変は同時に起こった。
現れたのはやはり猪のサーバント。
体長からすると、リーダーではない内の一匹の様だ。
その猪はまず『餌』を見つけ、『蝶』を見やると、『敵』を視認して威嚇の体勢を取った。
いや、これは威嚇と言うよりも……。
「来るよ!!」
アサニエルの怒号と同時に猪が直線に突進を仕掛ける。
前傾姿勢で構えられたその行動は威嚇などでは無い。
奴らにその様な様子見は必要無いらしい。
三人が防御、あるいは回避を構えるが、突進の途中で猪は急に地面に飲まれた。
……いや違う!
これは原始的、かつ初歩的な戦術。名称を敢えて言うなら落とし穴。
猪はその罠に掛かったのだ。
京也によって事前に準備されていたその罠は、知能の低い獣を落とすには充分なものだった。
行動不能にするまでの深さではなかったが、相手の行動が削がれた事で、優位が舞い込んで来る。
が、アサニエルが迎撃に向かったところで不意に別の方向から近づいて来る何かが見える。
彼女はそれに側面から突き飛ばされ、上手く受け身こそ取れたものの攻撃の中断を余儀なくされた。
もう一体現れた猪は前方の蹄で地面を掻いている。
更にその奥から、この二体よりも一回り程大きい、恐らくはこれがリーダー各だろう猪も、ゆっくり、ゆっくりと森の陰から姿を現す。
一、二…………三体。情報の数と一致だ。
リーダーの猪がキイに攻撃を仕掛けるのと、キイが仲間の三人に連絡を取ったのはほぼ同時であった。
数十秒か、数分か、仲間達がそこに駆け付けた時、既に混戦は始まっていた。
とは言え、戦闘はやや定型に陥っている様子だ。
キュリアンとアサニエルは翼による浮遊で猪達は攻撃を仕掛ける事出来ない。リーダーの衝撃波も空中に居たのでは当たりようが無かった。
その為蝶がこの二人に妨害を仕掛けているのだが、刻印による抵抗が強い為か上手く行かない様だ。
キイの方はまず蝶に対しての攻撃を仕掛けているが、猪三体の妨害が邪魔で上手く立ち回れていない、というところであった。
どうやらリーダーの方はこの二匹が倒れるまではその場を動いて攻撃はしないようだ。
風格のある肢体を四本の足で支え、先程からじっと動かない。
再び猪がキイに突進を仕掛けた。
と、不意に女性の声がこだまする。
「ウィルム、皆を守って」
アサニエルでは無い。その声を発した女性の周囲に、巨大な蛇が召喚される。
いや、これを蛇と言って良いのだろうか。
翼こそ無いが、まさに彼女の言った者、自身の傷を癒すキイが見たのはかの伝承と同じウィルム……龍の姿がそこにあった。
一方で、激しい攻防が繰り広げられる中、男は激しく盾で猪を殴り付けた。
「おるぁ!!」
信じられようか。撃退士、とは言えほぼ生身の状態の男が、その力を持って猪を押し込み、後退させたのだ。
「やれることをやる。どの世界も変わんねぇな」
自身に満ちたその表情で、男、黒田 京也は盾を構えて猪を鋭く睨んだ。
こうなってはこの攻撃の機会を逃す手は無い。
弓矢へと手を伸ばしたキイは一点集中、猪の隙間を掻い潜り、空中の蝶へと狙いを定める。
──そこだ!
キイの放った矢は、見事蝶の羽を貫通。
「君はもう用済みだ」
撃ち落とされた蝶が最後に見たのは何だったか。
冷たげに視線を送り、踵を返して再び戦場へと戻るキイの姿か、それともアサニエルが放った護符の光線か。
残り二体のサーバントを前に、俄然撃退士達は優位に立った。
ようやく動き出したリーダーが足元の地面を揺らして遠くのアレクシアへと衝撃波を放つ……が、これはキュリアンが持ち替えた武器、Feierlich H6の迎撃と九十九の回避射撃の援護によって相殺される。
もう一体の猪は未だ突進を繰り返すが、強固な京也の盾は打ち破れそうには無い。
京也が幾度と無く盾で殴りつけた猪もここで次第に気力を失っていく。
こちらのトドメはキュリアンの奏でた音色によって対象を陥落させた。
そして、最後の総攻撃が始まる。
「そんなに急ぐことは無いさね。ゆっくりしていくといいよ」
突進しようとする猪に振り掛かったのは、無数の彗星だった。
アウルによって作り出されたそれは猪が見上げた瞬間に頭上から落ち、自慢であろうその角をへし折らせる。
唯一最後にアレクシアへと放たれた衝撃波はウィルムによって阻害され、代わりにキイとアサニエルの追撃が正面から命中。
前足から崩れ落ちた猪に、九十九、キュリアン、京也の攻撃が波状となり、命を削り取るには充分なダメージであった。
無事、村を脅かした獣達は殲滅されたのだ。
●救われた命
後日、学園にて報告を受ける事になった。
「村は無事救出されたみたいですね」
オペレータは淡々と話すが、表情には笑顔が伺えるのが解る。
あの後、アサニエルの案によってこの村の枇杷を買って帰ろう、という事になったのだが、村人によると「それはとんでもない。是非無償で差し上げます!」
……と、いう訳で、現在この教室内に箱一杯の枇杷が置かれている、という事だ。
出発前の説明通り、この後ゲートの調査等に赴くそうだが、これも先述通り別に編成される。
ともあれ、撃退士達のおかげでまた一つ、いや複数の救われた命が出来た事。
村からは、感謝の手紙が送り続けられていると言う。
そう言いつつ枇杷を頬張るオペレータを前に、撃退士達は無事、依頼完了の報告を終えた。