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結局の所、話し合いにおいて必要なのは巧みな弁舌でも、完膚なきまでに捻じ伏せることの出来る論理展開でもない。そも、撃退士と『彼女』との対話は、話し合いですらないのだ。唯々ひたすらに癇癪を起こし訴え、粗雑に他者の心を省みない不遜さ。それは若さ特有の暴走であり、意志の確固たる基幹も骨も持たない、宛ら水母のような存在だ。
だからこそ彼らは示さなければならない。人の生きる中で100パーセント正しい道など有り得ないが、確実な誤りは存在する。道を踏み外さないよう、過ちを繰り返さないよう、諭す必要性があったのだ。
●
「先日の……」
安瀬地 治翠(
jb5992)の脳裏に思い起こされるのは、先日起こった事件。
「……いえ、まだ希望はありますか」
簡単には棄てられない。棄ててはいけない。
彼にとって――否、撃退士にとってアベルは『ディアボロを造る』敵であり、けれど、それが完全に悪ではないとは考えている。結局の所善悪は人にも悪魔にも天使にも、誰にも定めることなど出来ないのだ。
そのアベルが、行方不明者である少女と共にいる可能性が高い。果たして、それが何を意味するのか――。
黙り込んだまま校舎を見詰めていた鍔崎 美薙(
ja0028)は唇を引き結び目を伏せると、握り締めて白く染まった拳を見下ろした。解くと同時に血が通い、じんわりとしたぬくもりが広がる。
彼女にとっての後悔が、この先にあった。
某県K高校。以前、彼女ら撃退士は一体のディアボロの討伐の為にこの場に訪れ、そして生徒らと対話した。ディアボロ化の原因は、クラスメイトによる虐め。それを説き伏せる為に美薙は説得を行ったが、その言葉は彼らに届かなかった。結果的に次の虐めのターゲットが定められ、その少年は深い傷を負い、去ってしまった。
だからこそ、胸騒ぎのようなものを彼女は感じていた。
行方不明者――三森一姫は虐められていた少女、少年の同級生。そして、教師によれば彼女もまた虐められている可能性が高いという。
そして最も危険視されるのはアベルの存在だ。招待状とも呼べるそれを送り付けてきたヴァニタスは、そういった立場にある者をディアボロ化する傾向がある。もしも遅れてしまえば、三森一姫もまたディアボロ化させられてしまうやも知れない。
「急がなければ、な」
学校の配置図は確認した。未だ生徒らのいる時間帯だ、もしもの時の為に避難経路は用意して置かねばならない。
旧校舎に近い裏口があることを確認した撃退士らは、ひとけを避けて指定先へと向かう。
事前に教師へは旧校舎へ生徒が近寄らないよう言付けておき、人払いは確りと出来ている。つい先日事件があったばかりだ、撃退士らの訪れを知れば生徒たちがパニックに陥る可能性もある。表向きは、『旧校舎に点検作業の業者が入る為』ということで生徒たちには知らされている。
そも、騒動を知られればアベルが何かしらの行動を起こすやも知れない。それだけは避けるべく、彼らは慎重に行動した。
「念の為よ。まぁ、それでも入りたい人がいたら……って、そんな物好きはいないでしょうけど」
メル=ティーナ・ウィルナ(
jc0787)は簡素な立て看板を校舎前に設置しながら言う。
点検工事の為立ち入り禁止。ここまで敷けば完璧だろう。
「アベル、相変わらず救済を謳っていますか」
旧校舎の軋む廊下を歩きながら、久遠 冴弥(
jb0754)は呟く。
救済を謳うヴァニタス、アベル。度々久遠ヶ原に書簡を送り付け、『自作のディアボロの討伐』を撃退士に行わせる存在。その素体は毎度何かしらの――それこそ、容易く拭うことなど出来ない不幸を背負った者たち。過去の報告書によれば、彼は既に亡くなってしまった者や、死を自ら希った者をディアボロと化しているらしい。真偽は定かではないが、はなから疑ってかかるものでもない為に真意は攫めない。
結局のところ、撃退士たちはアベルの思惑も意図も、未だ理解することが出来ないでいる。
「とにかく行くしか選択肢はありませんね」
冴弥は前を見据え、見えない壁が聳える廊下の先を見た。よくよく目を凝らしてみると、何かしらの薄い膜が張られているのが判る。魔力による結界だろう。
「ったく……めんどくせぇ事になってんな……」
行方不明とされる少女と、ヴァニタス。二人が揃っているということは、一体何を意味しているのだろうか。それさえ判らない現状、恒河沙 那由汰(
jb6459)にとっては面倒臭い以外の何物でもない。下手をすれば戦闘。そうでなければ恐らくだが、もっと不可解なことが待っているに違いない。
「虐めの可能性、ね。……”可能性”だけで済むものなら良かったけど」
そうではないだろう、とCamille(
jb3612)は思う。撃退士らが知る限りでは一人目の少女柏木姫奈、彼女は虐められ、死を選んだ。それだけでは終わらず、次に標的にされたのは少年、岡野康介。
虐めは連鎖する。幾ら防ぐ為に大人が躍起になっても、子どものことを理解していない親や教師を騙すのは容易い。注意の目を盗んで虐めれば良いだけだ。虐めた者、虐めを傍観した者、虐めを助長させた者、虐められ復讐心を燃やした者。それぞれがそれぞれの理念で動き、連鎖は止まらない。
透明な膜の前に立ったアルドラ=ヴァルキリー(
jb7894)は、僅かに息を吐く。
記憶に新しい、生徒らのあの眼差し。人ひとりが亡くなったことへの嘆き。哀しみ。恐怖。そして、無関心、怒り。様々な感情が入り乱れ、混乱に陥っていた生徒たち。それを思い出すと、二度とああはさせまいと心が揺れる。嘆きの鐘を鳴り響かせるシンデレラを、再び生み出してはならないのだ。
治翠が盾を振るって空を切ると、あっさりと結界は割れた。ぱきりと硝子が砕けるような音がすると同時、視界がクリアになる。
「行きましょう」
促しと共に皆、急いて扉を開けた。鍵が掛かっていたが、撃退士の力を以てすれば容易く外れる。
中には――――少女がいた。
長い黒髪、凛とした眼差し。突然の来訪者に怯むこともなく、不遜な態度で撃退士を迎えた少女は、腕を組み行儀悪くも机に腰を下ろしている。
「遅いじゃん」
尊大な物言いに、那由汰が顔を僅かに顰める。
どう見ても囚われの身には見えない態度に撃退士らが訝しむ中、少女から少し離れた位置に金髪の男、アベルが壁に凭れて立っていた。彼はちらと撃退士らに視線を向けると、珍しく苦笑いを浮かべて言う。
「彼女の悩みは生きている人間にしか解決出来ないんだ」
「どういうことですか?」
冴弥の問い掛けに、アベルはそれ以上答えなかった。いつもと毛色が違う。そも、少女はディアボロと化してはおらず、確かに生きている人間だ。そして、何かを訴えるように――強く撃退士らを睨み付けている。
「はじめまして? 気高き迷子の姫君。メルよ、姫君の話を聞きに来たわ」
穏やかな調子で話し掛けるメルを少女は一瞥すると、ふんと鼻を鳴らした。
「誰が姫君よ。やめて、そんな呼び方。……知ってるかも知れないけど、私は三森一姫」
一姫の態度には、不遜さと尊大さの影に何かしらの探りが見えた。値踏みしているような、そんな違和感。それを悟ったメルは追及することなく、アベルにもまた声を掛ける。
「こんにちは、はじめまして。お噂はかねがね。……語り部、アベル」
「御丁寧にどうも。俺のことは添え物程度に考えてくれて良いよ、彼女の話が本題さ」
肩を竦めてアベルが示すのは一姫。それに気を良くしたのか、一姫は脚を組むと机に手をつき更に尊大な態度で撃退士たちを見渡す。
「……まぁそうね。一先ず『話』だけでも聞くわ。けれど貴女はシンデレラ、といった雰囲気ではないようだけれど」
過去に現れたディアボロの名はシンデレラ。目を隠し耳を潰し、声すら失くしてただただ殻に籠ることを願った姫君。彼女とは全く異なる態度をしている一姫に目を向けつつ、教室へ入って来た仲間を見渡し役者が揃ったことを確認する。
「ディアボロになっていないのでしたら話を聞かせていただけますね。事情が複雑なようですし……話して貰えますか?」
明らかに態度がおかしい一姫の様子を眺めながら、冷静に冴弥は言う。下手に喋って余計な言質を取られては厄介だ。理由が判らなければ何もすることが出来ない、そう告げて一姫の話を促す。
彼女らが一姫に話し掛けている間、那由汰はアベルを静かに観察していた。相手はヴァニタスだ、何かを仕出かしてくる可能性もゼロではない。しかし、その視線に気付いたのかアベルは目を細め、両手を上げて首を左右に振る。――お手上げ。さて、何を意味しているのか。
「久方ぶりというほど、時間も経っておらぬか」
美薙にとっては見覚えのある顔だった。アルドラにとっても同じだ。彼女たちは以前、柏木姫奈のクラスメイトに対し話をした。その際にいた面々の内一人だということは、直ぐに判った。
「そーだね。あの時はどうもめんどくさいことをありがと。反省文、だるかったわ」
対する一姫は興味も無さそうに言った。頭を掻きつつ、溜息を洩らす。粗雑な態度は性格の現れか、細めた目は怒りも憎しみも何もない。どれかと言えば、諦め。それと同時に内包する矛盾、期待。――そう、少女は撃退士に”何か”を期待していた。
美薙は、自身の言葉足らずを後悔していた。勿論、全て自身の責任などと思い上がるつもりもない。けれど、言葉の刃で他者を切った責任を負わねばならない、そう考えていた。あの日生徒らに語った言葉を嘘にはしたくない。
虐めを受けているかも知れないという少女。それがあの時の事件が引き金やも知れないと考えると苦々しく、だからこそ覚悟を持ってきた。それなのにどうだろう、少女はあっけらかんとしている。
「久方ぶりだな。アベルを困らせるとは中々頭の回転がいいと見える。少し、何があったかを教えてもらえんか?」
アルドラの問いに、少女は目を細めて吟味する。それから、口を開く。
「私、虐められてるの。だから助けて欲しい」
発言は端的だった。その言葉に澱みはなく、嘘偽りを並べているわけではないようにも見える。だからこそ、違和感を覚えた。
カミーユは確りと視線を合わせ、一姫に対し問い掛ける。
「先生や親に相談はしないの?」
「無駄。相談して表向き解決しても、裏では虐めが続くし」
「そっか」
矢張り迷いなく言い切る少女に、カミーユは頷いて口許に手を宛てる。嘘は吐いていない、けれど、本当のことはひた隠されてしまっている。
那由汰は暫く先読みを行使し一姫の言葉を聞いていたが、矛盾は見当たらない。
「その虐めってのはいつから起こってたんだ? どんなことされた、とかよ」
その問いに、一姫は溜息を吐いて肩を竦める。
「ちょっと前から。色んなことをされたよ、机の中に汚れた雑巾入れられたり、鞄を水浸しにされたり……まあ大体は先生に気付かれないようなことだね。ついでにここに閉じ込められたのも虐めの所為」
「アベルに私達を呼ばせたのはあなた、でしょうか」
続けられた治翠の言葉に、一姫は一瞬黙り込む。
彼女は暫く間を置き「そうだよ」と短く答えると、視線は逸らされた。
「どうしてこのようなことを?」
冷静で、且つ穏やか。反発しようにも、治翠の先読みの所為で一姫は巧い返しが出来ない。誤魔化しも限界か、徐々に言葉が乱れてくる。それでも平静を保とうとするのは賢さとプライドの高さ所以か、少女は決して沈黙はしない。
「しかし彼が出てくるとは……何をしたんですか?」
ただ純粋に関心が沸いたと言わんばかりに治翠はアベルをちらと見る。
「私が閉じ込められてたらいつの間にかいただけ。色々ごちゃごちゃ説教みたいなこと言ってうるさいから、じゃああんたが助けてよって言って――」
「成る程。それで最初のアベルの発言に繋がるんじゃな」
美薙が納得したように頷く。人間の世界で起こる虐めは、生きている人間にしか解決出来ない。確かにその通りだろう。冥魔であるアベルが生徒や教師に進言したとして、何かが変わるかと言えば否だ。
「動くには、情報が必要だわ。もっと教えてくれる?」
メルの促し。ふと気付けば、一姫は頻りに脚を組み直していた。焦りか、憤りか、何かの現れか。
「貴女は何をお求めなの? 姫君」
「助けてって言ってるじゃん。判んないの?」
苛立ちを初めて露わにした一姫は、机を拳で叩く。未だ逆上には至らない。けれど、感情の発露は大きくなってきた。
一姫の様子をつぶさに観察していた那由汰は、目を細めて思案する。
虐められているにしては、悲壮感がない。彼女が前回の事件に関わっていることが教師への調査の結果判っている以上、十中八九一姫は虐めていた側なのだろう。逆襲に遭ったか、偶々虐めの対象にされたか。そうであるのなら、本当に望むのは虐めの解決なのだろうか。
「あんたらは一般人の味方でしょ」
「だけど、先生や親が解決出来ないことを撃退士が解決出来る?」
「撃退士は強いじゃん。何とかしてよ。叱ったり……」
「前に撃退士が脅して生徒を捻じ伏せたから、力で押さえつければ皆を従わせることが出来るって思ったの?」
カミーユの問い掛けに、一姫が鼻白む。図星だった。彼女は報復や解決には力が必要だと思った、それは事実。
「でも、内心は腹立たしかったよね? 撃退士が去ったら、またいじめは続いたよね」
「……」
そして、それもまた事実だった。虐められて死んでしまった柏木姫奈。彼女のことは直ぐに忘れられ、次のターゲットが選ばれ虐めは続いて行った。
「結局、力で捻じ伏せても一瞬だけ。表面だけで、心から従わせるのは無理。カリギュラ効果……禁じられたら、もっとやりたくなっちゃう」
「そうですね。その場限りの力で『悪』を懲らしめても、問題の本質は変わりません」
カミーユの言葉に冴弥が同意し、一姫は沈黙する。それから、舌打ち。
「力で捻じ伏せては意味がない。それでは争いを生むだけで何の解決にもなりはしない。そこに生産性はあるか、意味があるか、周りが敵だらけで怖くないのか――無意味な争いとは思わんのか」
「……うるせえな!」
あくまで優しく説くようなアルドラの声音を遮るように一姫は叫んだ。
怒りに頬を紅く染め、潤んだ眸は恐らく度を越えた感情の高ぶりによるものだ。
「説教とか要らないから! あんたたちは撃退士でしょ!? 虐めを止めろよ! 私を助けるだけで良いんだよ!」
机から降り立ち上がった一姫は手近にあった鞄を床に投げつけ、歯噛みする。
化けの皮が剥がれた。元々賢い娘であり、人を利用することには長けていた。けれど、切羽詰った状況、そして投げ掛けられる正論の波には昂揚を抑え切れなかったらしい。
「……逆上かよ。めんどくせぇ」
彼女には聴こえない程度にぽつりと那由汰は呟き、アベルを見た。彼は相変わらず壁に凭れかかったままだが、渋い表情を浮かべて痛ましげに少女を見詰めている。その様子を見た美薙はアベルに対して若干の労いを含めた視線を流し、苦労性の冥魔はややくたびれた表情で笑って返す。
そして一姫は思いの丈をぶち撒ける。最早自棄だ。
虐めを行っていたこと。虐めがクラスで繰り返されていたこと。学級数が然して多い訳でもないこの学校は、クラスはエスカレーター式で、クラスメイトは変わらない。つまり、一年生から三年生まで、ずっと虐めがローテーションされ続けているということ。誰も止めないし、誰も教師にも親にも告げない。虐めのターゲットに選ばれるのはプライドが高く臆病な者ばかりで、告げ口をするような強さは持ち合わせていないということ。そも、持ち合わせていたとしても、教師や親の力では虐めが完全になくなることはないということ。
アベルは柏木姫奈――シンデレラの事件の影響を懸念し、K高校のクラスの様子を窺っていたらしい。その際に虐めを受け、思い詰めた様子だった三森一姫に声を掛けたのだという。一姫曰く、天魔の癖にやれ死ぬなだのやれ殺すなだのと口うるさくて堪らないから、代わりに撃退士を呼び出させたそうだ。
少女の弁舌を聴いていたアルドラはと言えば、胸中では苦虫を噛み潰した思いだった。
(叩いていいのは叩かれる覚悟のある者だけ。自業自得とは言え、気分の良いものではないな)
一姫に心の余裕が在れば、考えてみて欲しかった。きっと虐め自体が馬鹿らしくなる筈だ。加害者にも被害者にもなった彼女であれば、理解出来るだろう。だが、今の彼女には焼け石に水だ。
「だから、あんたたちはあいつらを叱って、どうにかしちゃえば良いんだ」
激昂した少女に、撃退士たちは沈黙する。考えあぐねているのだ、どうすれば変わるというものでもない。そして迂闊に口を出して、少女をつけあがらせる訳にもいかない。
そこでメルは呆れ雑じりに溜息をひとつ。
「まぁ……貴女の気がそれで紛れるなら。と言いたいところだけれど……私たちがどうこう言っても変わらないわよ。断言出来るわ」
カミーユも言ったそれと同じ。そして、正論。逆上して論理を崩してしまっている彼女には、確りと言い聞かせなければならない。
「だって貴女達……以前、灰被りの姫の時に撃退士から叱られたでしょう? けれど、クラスの誰も変わらず、結局誰かを吊し上げている。繰り返すだけよ」
灰被りの姫、で一姫は直ぐに何のことを言っているのか理解した。アベルから聴かされた、憐れな姫君の話。同情はしなかったし、唯々面倒だと思っただけだった。人の死なんて自分自身とは関係のないところで、一姫は生きている。だから、どうでも良かった。
唇を噛み締めた一姫は、怒りで震える声で言った。
「どうだっていいよ。私に協力しろ。……解決しなきゃ、自殺か、皆を殺してやる」
低く、滲むような声。それはある種思考停止だ。被害者ぶって撃退士を味方につけるつもりが、論破された挙句に彼女にとっての説教を受けている。その時点で一姫のただ高いだけのプライドはぼろぼろで、怒りに任せて言葉が出た。
「あたしは」
沈黙を裂いて美薙が口を開くと、一姫は彼女を睨み付けた。
「虐めたことも虐められたこともない。でも、妬み憎んだことはある」
「だから何」
「それでも自刃を選ばなかったのは、無為に死ぬのが悔しかったからじゃろうな。これまでの努力も苦労も全部無意味だと、報われないと認めるのは悔しかった。じゃから、自分からは投げられぬと思った」
美薙の言葉には重みがあった。生死が大きく関わった人生。戦いの場に身を置く頃ではなく、ただ、苦い過去。
「おぬしは自殺を厭わぬというが、負けを認めるようなものじゃが悔しくはないのかの?」
真摯な美薙の問い掛けに、一姫は再度舌打ちを洩らした。
別に。そう呟くと、鞄を踏み躙る。それなりに使い込まれた鞄。彼女のものだろう、それも構わず八つ当たりをする少女。
「撃退士として来た以上、自殺をさせる気はありませんし、自棄になっての暴挙も許しません。いざとなれば取り押さえるのも辞さないでしょう」
淡々と、そして冷静に告げた冴弥に一姫は動揺を見せた。結局の所彼女は人生経験も浅い子どもだ、死を賭けた脅しを掛ければ乗るだろうと考えていた。
「虐めを放っておく気はありませんが、貴女の思う方法である必要もありませんし」
「無理だって言ってるじゃん! あいつらは止めっこない!」
声を荒げる一姫を尻目に、那由汰は眇めた眼差しで見据え、口を開いた。
「虐めを解決するってのは今おめぇが受けてる虐めか? それとも虐めの根本か? おめぇが望むのはどっちだ。――綺麗事を言うつもりもねぇし聴く気もねぇ。おめぇは何がしたいんだ?」
那由汰自身は彼女に協力するつもりは無かった。正に自業自得。口には出さずとも、死にたいのであれば勝手に死ねば良いとさえ思う。そもそも脅しに死を使う時点で死ぬ気が無いと、確信めいた想いもあった。
「虐めが全部なくなるなら誰も苦労しないわよ!」
「……死にたいのであれば死んでも良いだろう。だが、それでは我々が前回来た時と同じ、逃げているだけで意味がない。連鎖も断てん。虐めた側を殺す? それも逃げるのと同義、意味がない。逃げるか? いや、逃げても別の人間を使って連鎖は続くだろう」
アルドラの追撃。唇を戦慄かせ言い淀む一姫を前に、冴弥は淡々と告げる。
「気になったのは『プライド』を持ち出し、親や教師に言うことを良しとしないこと。プライドを言うなら、撃退士に話を振った時点でおかしいかと。貴女は問題の本質に……発端に向き合うのが怖いのでは?」
図星でしかなかった。臆病な少女。高いだけのプライドを盾に、逃げ続けている。逃げても無駄だと理解している筈が、どこまでも向き合わない。
頬を紅く染め怒りに声を震わせる一姫は、唇を一度固く噛み締めアベルに向き直った。
「こいつらじゃ話になんない! ――ねえアベル、私をディアボロにしなさいよ。そしたら仕返しだって何だって出来るから!」
自棄だ。どうにもならないからと癇癪を起こし、藁にも縋る思いでアベルに言う。
一瞬で警戒した撃退士たちを尻目に、返すアベルの言葉はあっさりとしていた。
「断るよ」
「はあ?」
「何度も言ったね。きみは生者で、そして死にたくなんてない。救いの道は残されている人間を態々殺す趣味は無いよ」
そこに見えるは、アベルの信条の片鱗。殺すつもりはない。ディアボロにする気もない。だからこそ、人間を――撃退士を呼んだ。救済を、救いを撃退士に求めた。否、いつだってアベルは撃退士に『真なる救済』を求めているのだ。
「じゃあどうしたら良いの! 私は自業自得。でも、そうでなくても虐めは止まんない。それに止めたら終わっちゃう。今まで虐めてた私はどうなるの? 今まで虐められてた奴らはどうなるの? 不公平だ! 虐められることを避けて高みの見物をしてた奴らは何なの!?」
黙して話を聴いていたメルは、彼女の本質が見えた気がした。
虐めを良しとしている中で、虐めを厭っている。公平を良しとして、不公平を嫌う。
アンバランスで、不条理で、そうして矛盾した感情を内包しているのだ。
行為で目的を見失い、目的で行為を見失う。
結局の所、彼女は罪悪感に苛まれ続け、肯定することで自我を保っていただけ。
「自業自得、か。……仏教の語なのじゃがな、悪い意味ばかりではない、良き意味もあるのじゃよ。なりたい自分はどんな自分か――それと今が乖離すれば辛い事だろう」
ぼろぼろと泣き出した少女を前に、美薙は諭すように言った。
なりたい自分。本当の気持ち。全部さらけ出してしまえば、弱く、脆く、臆病な少女。
「おめぇは姫奈に何をした? 虐めの根本を解決するってぇならおめぇも今まで虐めて来た人間全員に謝るんだぞ。――おめぇは被害者じゃねぇ、加害者だ。勘違いすんな」
那由汰のそれは厳しい言葉だった。だが、事実であり、それを受け止めるだけの受け皿を、本来一姫は持っていた。だからこそ様々な過重に憤りを覚え、暴走した。
「最初の子の事件の報告書は見ました。行為の是非はともかく、きっと、『本気の悪意』は無かったのでしょう。それがあの結果を生んだ。……本気で向き合えば、辛い事実です。だから、虐めっ子……貴女を虐めることで、そこから目を逸らしたのでしょうね」
冴弥の声には、憐れみと、優しさが滲んでいた。
一姫は顔を上げ、涙を溢したまま唇を引き結んで聴いている。
「だから滅茶苦茶にしたいというなら……それは余計に辛いですよ。ますます後に引けなくなります。今すぐ変われとはいえませんが、変わり始めるなら今です。不満でも罪悪感でも、誰かに晒すことに勇気がいるなら手伝いはしましょう、けれど、やるのは貴女です」
前に進む為の勇気。本来の気持ちを出す為の勇気。差し伸べられた手に、一姫は嗚咽を呑み込む。
「難しい問題だけど、他人の力をアテにしても、その効果は続かないんだよ。それに他人の心や言動は容易く変えることは出来ないから、自分が変わるしかない。虐められたらやり返す……じゃコドモじゃない? 同じ低次元の土俵で争ってたら、きりがないよ」
「…………うん」
「方法はいろいろあるよね。心からじゃなくて表面上だけでも潔く謝っちゃうとか、オトナになって下手に出て、相手を拍子抜けさせちゃう駆け引きをするとか」
カミーユの提案にも、今度は大人しく頷いた。先は見えず、どう動くか、どうなるかは判らない。けれど、一姫は前に踏み出し、真意をさらけ出そうと心に決めた。それは大きな一歩だった。
「個人で出来ることは限られるだろうが、それでも君には優れたものがある。君のその頭脳を使えば、平和的な解決も恐らく不可能ではないだろう。そして、そうして解決したいと願うのなら、私は幾らでも手を貸そう」
一姫は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、アルドラを――撃退士らを見た。
そんな彼女にメルはハンカチを差し出し、「解決策を見出せる程賢くはないけれど、貴女の話を聴くことは出来るわ」と笑って言った。手に取る瞬間触れ合った指先は、あたたかい。人のぬくもり。
虐められていた少女が、久方振りに触れた人のぬくもり。心の温かさ。
一姫は、両の眦から溢れ出る涙を止めることが出来なかった。
固く閉ざしていた茨の鎧を剥がされた彼女は、今はただの年相応の娘。
蹲り涙を流す少女の傍らに立ち、手を差し伸べたのは、治翠。
「あくまでも私達に出来る範囲で……ですが」
薄く浮かべられた笑みは、やわらかで、少女をひどく安心させる表情。
「――協力致します。貴女にも、勿論手伝っていただきますから」
虐めを失くすということは、撃退士だけで出来ることではない。
張本人、彼女自身の行動と、他者の助力が必要だ。すべてが合わさって、本当の意味での解決に繋がるのだろう。
表面上だけではなく、禍根を残さず、正しく収める。
それが、今後の為にも生きてくるのだ。
●
旧校舎。メルとアルドラ、冴弥、美薙に連れられ教室を出て行った一姫を見送って。
部屋の隅で黙して眺めていたアベルは、細く安堵の息を逃すとドアへ向かって踵を返す。
その背中に、治翠は声を掛けて呼び止めた。
「あの」
「何だい?」
無視はされなかった。攻撃への警戒も何もなく、アベルは穏やかな表情で肩越しに向く。
「今後も、本人が亡くなる前に連絡を頂ければ良いのですが」
苦笑いと共に告げられたその注文に、アベルは一瞬目を丸くしてから軽く吹き出して笑う。
「考えておくよ。何せ、止める間もなく往ってしまう子が多いものだから」
それは冗句めいた台詞。けれど、そこに僅かな悲嘆が雑じっていることに、治翠のみならず、部屋に残るカミーユ、那由汰も気付いていた。
じゃあね、と短く告げられた別れの言葉に、誰も返事は返さなかった。
壊れた扉を潜り消えていく背中を見詰め、無言で見送る。
――今ここで、物語はひとつの転機を迎えようとしていた。
●
撃退士らの付き添いの元、一姫は虐めの実態を、最初から全て洗い浚い話した。教師らは驚きと共に不甲斐無さを悔いていたようだったが、そこで折れる程愚かではない。職員会議、総会、そして、クラスでの話し合い。上辺だけの反省では無い。一姫が率先し謝罪し、そして、虐めの非生産性を強く訴えた。
勿論、それだけで片付く問題ではないのは確かだ。陰で反発する者もいる。表立って拒絶するものもいる。率先して虐めを行っていた一姫だ、厭われるのも当然だろう。だが、彼女は撃退士たちから受けた言葉、漸くと知った自身の心情、それらを糧に、根気強く訴え続ける。決して過去に行った行為を正当化せず、「こんなことは償いにもならない」と憤りすら覚えていたが、挫けずに向き合っていっているようだ。
未だ、結果は出ない。結論も、出ない。けれど、確かに大きく変わったのは事実だ。大きな一歩か、小さな一歩かは、本人にすら判らない。亡くなってしまった者、深い傷を負った者、それぞれの重みは消えることはないのだから当然だが、彼女は――彼女たちは、その罪を背負い、忘れずに生きていく。
生者は死者を悼むことしか出来ない。償えども本人には届かない。だからこそ、今後二度と同じことが起きぬよう、身と心を賭して歩んでいくのだ。