●Case.籠の鳥と桶の貝
末摘 篝(
jb9951)は眼前でにこにこと穏やかに笑う彼女――ルクワート(jz0277)が悪魔であるということを知っていた。何故知っているのかなんて、そんな無粋な問いは必要ない。夢の中でまで順路正しく思考するなんて、ナンセンス。
「ねぇねぇ。かがりと、おともだちになって!」
長い銀髪、ルクワートが小首を傾げれば、さらさらと揺れた。
篝はそれにならうように同じ方向に小首を傾げ、二人の目線はかち合った。
――凍える程寒い小さな箱庭、テーブルの上には甘い甘いお菓子と紅茶。寄り添うように並べられた椅子。辺りには何もない。あるのは、宝石箱をひっくり返したような星の瞬きが散らばる夜空と、取り残されてしまったかのようなこの場所だけ。
そっとルクワートの手指を捉えると、篝は問うた。やわらかく、そして穏やかに。幼子そのままの無邪気さで、肌をなぞる。
「おなまえは? かがり、すえつむかがり、なの」
「すえつむかがり……?」
「かいがらをあわせてあそぶの。きらきらしてるのよ」
「……あ、わたしはルクワート」
かみ合うようで、些かずれる会話の歯車。
”かがり”とひらがなでルクワートの掌に記すと、互いにふふと小さく声を洩らして笑った。
「るく……? うー。ルクちゃん、でもいーい? なの」
はにかみながら頷くルクワートに対し口角を上げた篝は攫む手指にお菓子を握らせ、それから自身もその包みを握り締めるとこっくりと頷いた。
「かがりもね、むかーしはあくまさんだったのよ? いっしょ!」
湧き立つは親近感。どことなく似ている二人の根本、それは悪魔であるということ。
篝はぽつぽつと――覚えている限りの自分自身のこと、について語り出す。
親身になって聞き入り、ひとつひとつに問いを重ねるルクワート。
話が進むにつれ、ルクワートも自身について語り出す。独りだった、さみしかった、凍えそうだった――。
「ひとりぼっちはさみしい。かがりもよくしってるの」
「……こうしている、いまは寂しくないよ。だってひとりじゃなくて、ふたりだもん」
少しばかり翳る表情に目を凝らした篝はお菓子をルクワートの口許に寄せる。暫し驚いたように目を丸くしていた彼女も、その手ずからぱくり。それから顔を見合わせた。――ふたりで食べるお菓子は甘い。ひとりきりで食べるお菓子より、ずっとずっと。
「だからねルクちゃん、かがりがいっしょにいてあげる」
見目は幼い少女が、菓子より甘く囁くように言った。
ひとりきりで長い時間眠りについていた篝だからこそ判る。ひとりぼっちは寂しい。忘れることが出来ない。けれど、一緒にいるその瞬間だけは苦しさから解放される。
篝は知っていた。
だから心を冷やすさみしさが少しでも和らぐよう、安らぐよう、一緒にいようと、囀るのだ。
「ぎゅーってするの。ルクちゃん」
「わたしと一緒にいてくれるの?」
広げられた両腕に、ルクワートはおずおずと、けれど期待に満ちた眼差しで尋ねる。
星屑がきらめく夜空の下で、箱庭の中ふたりはじっと見詰め合う。
「ルクちゃんあのね?」
どこか遠慮がちで、どこか怯えた様子で見詰めるルクワート。
それをすべて払拭するよう、可愛らしく、あどけない調子で篝は首を傾ぐ。
「――かがり、ルクちゃんともっともっと、なかよくなりたいの」
少女のヘーゼルの眸がきらりと瞬いた。
その言の葉に秘められた想いは、未だ貝桶の底。
●Case.ねぇ駒鳥さん、駒鳥さん
どこまでも繋がるあおいあおい空の中。しろいしろい雲の上。
Robin redbreast(
jb2203)はやわらかな椅子にちょこんと腰掛けて、悪魔の――ルクワートの愛を求める訴えに聴き入っていた。
(愛されたい、愛したい。好かれたい。好き。誰でもいい。何でもいい。さみしい。つらい、怖い、――)
ただ聴いているだけなのに、背が粟立つような感覚。
ふわふわとして、おとなしい印象を受ける冥魔。それなのに、心の底からの叫びを、訴えを、全身で発している。
ロビンとは正反対。
少女の自我はがらんどう。思考も欲望も何も持たないよう教育され、つとめ、そうして当然のように行き着いた感情の在り処は――無。ゼロ。
両親の顔も忘れた。本当の名前も過去も忘れた。友人だっていない。みんなみんなみんな忘れて、機械として生きてきた。否、過ごしてきた。
感情なんてものが芽生えてしまえば機械としては欠陥だ。棄てられてしまう。
(”要らない子”)
ロビンの胸をちくりと刺す痛み。
学園に来て、今までとは真逆を求められた。笑いなさい。怒りなさい。泣きなさい。友達を作りなさい。楽しみなさい。すべてをさらけ出しなさい。うそうそうそうそうそ。今まで植え付けられてきた価値観を覆すという恐怖に足元がぐらつく。不安で身が千切れそうになる。それなのに――何も恐れることなくすべてを露わにしているルクワート。
そこで滲むのは、ひとしずくの恐怖とひとさじの期待。
「こんにちは」
「こんにちは」
あたしはロビン。わたしはルクワート。見詰め合って笑う、見詰め合って数秒。
「あなたはどうして、そんなにさみしいの?」
「ひとりきりはいや。誰かと一緒にいたい。ぬくもりが欲しいの」
「死ぬ時はひとりだし、ずっと一緒にはいられないし、騙されたり裏切られたり、相手が何を考えているかわからないし」
ルクワートの素直な返事と反してロビンの言葉は自身の孤独感の裏返し。心の奥底ではずっとずっとぬくもりを、裏切りのない真実の愛を求めていた。だから、さかさまの言の葉はくるくると回る。
「それに、自分が好きだと言っても、相手も好きだって言ってくれるとは限らないよ」
だから。
「ロビンちゃんは怖いの?」
「――怖い?」
怖いなんて感情、抱いたらいけない。判っているのに、気付いた瞬間肌が粟立った。
「わたしはずっとひとりだったの」
「あなたもずっとひとりだったの?」
はにかみ笑って言うルクワートの囁きに喰いつくようにロビンは言い、それから後を追うように込み上げて来る欲求に胸が急いた。
「あたしは愛を知らない」
「わたしは愛を知ってる」
先を読んだかのような物言いも、もう気にならなかった。
ルクワートの指先が、ロビンの髪に触れる。あまい匂い。
のどに閊えていたものが自然と解けてゆく。
「――一緒にいれば、さみしくなくなるのかな?」
ロビンの切なる期待に震える問い掛けは、ふつりと途切れた。
どん、と空気が震えた衝撃。ひとつ瞬いて、視線を落とすとルクワートの腕がロビンの胸に突き刺さっていた。痛みはない。けれど、意識が白んでいく錯覚。
ルクワートは慈愛の色を乗せてほほえんで、ロビンの額にキスをした。
「もう怖がらなくていいよ。もうひとりじゃないよ。もうだいじょうぶだよ。怖かったでしょう。寂しかったでしょう。不安だったでしょう。だけどね、だいじょうぶ、だってきみはもう二度と脅えることも、期待を砕かれて涙することも、さみしさに心の声を嗄らすことも無いんだよ。わたしがずっとずっと傍にいてあげる、わたしがずっとずっと抱いていてあげる――」
優しげな声音と、抱く腕のぬくもりにロビンは息をつく。
これが愛だと、これが求めていたぬくもりなのだと肌で感じる。
ロビンが最期に浮かべた表情は――やわらかな笑み。
(ねぇ駒鳥さん、駒鳥さん。誰があなたを×したの!)
ひとり震える駒鳥を”愛”したのだと、誰かが謳う。
●Case.戦女神の抱いた夢
夜の散歩へと赴いた先で、アルドラ=ヴァルキリー(
jb7894)は想い人――アベル(jz0254)との邂逅を遂げる。救済を謳うヴァニタス、そんな彼が久遠ヶ原の敷地内に居る。その時点で夢か現かの判断は容易であり、アルドラはどこかでその都合の良い夢見に喜びと切なさを覚えながら、二人並んで夜風を浴びる。
雲一つない晴れた空。冴え冴えとひかる月と、きらめく星々。
それらを眺める横顔をちらと窺い見ると、アルドラは胸が高鳴った。
憂いを帯びた相貌。歩きながらアベルは星も好きだと小さく呟いて、そのちいさな収穫にほくそ笑む。
――アルドラは恋をしていた。
いつから堕ちてしまったのかは判らない。ただ狂おしく、身を焦がす程に強い好意を抱いていた。始まりは些細なことで、車輪が坂道を転がるように、くるくると想いの針は進んだ。
勿論、彼が空虚で、深い何かを背負っていることは察しがついている。けれどそれでも、アルドラはアベルの手を引いて、その冷え切った指を温めてやりたかった。
「いつまで殻に籠る気だ?」
閉じ籠るだけでは見えない、外の景色。
夜空に星が瞬くように、数々の美しい情景がある。美しい想いの移り変わりがある。
それらを知って貰いたい。共に歩みたい。あたたかな明かりを灯して、道筋を作っていきたい――。
「死ぬまで、かな」
「簡単に死ぬなどと口にするな」
既に死んでいる、ヴァニタスであるのにおかしな話。冗談めかして言ったアベルと、真剣な眼差しで叱り付けるアルドラ。
アベルの話を引き出そうと考えていた彼女だったが、彼は自ら語り出そうとするタイプでは無いらしい。
お互いに沈黙を守りつつ、辿り着いた公園のベンチでまた空を見上げた。手には自販機で購入した温かい紅茶と珈琲。
瞬き続ける天の星。こんぺいとうの海。輝きはひとつとして同じものはない。すべてばらばら。
(――星の数程人はいると言うが、対象は違えど互いに愛するのは唯一人だろう)
アルドラはぼんやりとそう思った。そう思うと同時にどうしようもない切なさが込み上げ、視線を傾けるとアベルもまた、静かに空を眺めていた。その眼差しの奥で、何を想っているのかは判らない。
互いに黙ってばかりでは仕方が無いので、ぽつぽつとアルドラは他愛の無い話をした。
好きなもの。好きなこと。嫌いなもの。嫌いなこと。好きなタイプの映画。嫌いなタイプの映画。――そんな何気ない話を、何気ない調子で語り合う。例え夢であれ、その瞬間がアルドラにとっては掛け替えのないもののように思えた。
そうして終着、彼女の部屋の前。
送ってくれた礼に紅茶と菓子でも、と誘ったアルドラに丁寧に断りを入れ、曖昧に笑うアベル。
「女性の部屋に上がり込むのは失礼だから」
「アベル、」
引かれた一本のラインは、決して揺らぐことがない。
後ろ髪ひかれる想いで手を伸ばし掛けたアルドラだったが、彼の眸に浮かぶ明確な拒絶に息を呑んだ。
「冷えないように、気を付けて。――それじゃあ、さよなら」
また、とは言わない。優しげな声音、それでも、またとは言わない。
誰をも寄せ付けようとせず、ひとりきりで耐えようと、絶えようと佇む彼。
伝え損ねたアルドラの想いは、のどの奥で蟠ったまま。
●Case.享楽の宵
――人間? 悪魔? 敵味方?
知らぬ存ぜぬどうでもいい。ああほら、今は戦の時ではなかろうよ。
笑いもせず泣きもせず。
曰くの享楽主義者、鷺谷 明(
ja0776)は普段とは全く異なる雰囲気を纏い、孤独を嫌い愛を求める冥魔ルクワートと対面していた。
「私はいつも楽しんでいるけど、時たま死にたくなるほど虚しくなる事がある」
ほとほと疲れてしまったように肩を竦める。
――何故? 悪魔は囁くように問うた。
――何故だろうね。明は諦めめいた声色で呟いた。
真っ直ぐな彼女の眼差しが明を射て、彼は目蓋を伏せて笑う。
「だけど、たぶんこれは持病の発作のようなもので、私はこれに一生付き合っていかなくちゃならない」
そう、明は思った。
それを否定せず、共感し、哀しげに目を伏せる悪魔を見て――ああ、彼女も”同じ”だ、と明は考える。
彼女の手は誰のものかも知らない血で汚れていた。明はそれを追求する程無粋な男ではない。ぼたぼたと滴る血、その色に染まった胸元に下げられた翡翠の宝石。不釣合いな程透明な、石。
視線に気付くとルクワートはにこりと笑った。嘘で塗り固めたうすいうすい硝子の膜のような笑み。どこか、似ている。
「あなたもこの虚しさを感じているのだろうか」
答えは聴くまでも無かったが、謳うように明は問いを紡ぐ。
流れる銀糸に触れると、彼女は小さく息を吸って、それから『わからない』と答える。
「哀しいね」
すべては夢の中だからこそ言える。形が無ければ理解出来ない。形が無いものが欲しいのに、形が無ければ実感出来ない。それが二人の欠陥。重篤で、そして虚無的な欠陥。
「愛されている、と。たったそれだけのことを信じるのがなんて難しいのだろう」
「そうだね――」
屹度愛されている、屹度好かれている。そう”予測”出来ても、信じることは容易くない。形無き物を懐に入れるのは大層骨が折れる。おそろしくて、寒々しくて、身の毛もよだつ話。
明の浸る声音に唯々頷いていたルクワートの表情は、次第に翳っていった。血のついた白い頬。それに明はそっと触れて、指腹で拭った。
「せめて笑って欲しかったのだけれども、私では力不足のようだ」
「……ごめんね」
「いいや。代わりに、一つだけ助言を」
愛を求め続ける寂しがり屋の冥魔に向けて、享楽主義者は謳う。
(――愛している人が、大好きな人がいるのなら、その人の前ではいつも笑っていなさい。その人が笑った時に同じ顔を返せるように。)
暫し目を瞬かせたルクワートだったが、明の言葉を噛み締め一度目を伏せると、口角を不器用ながらに上げた。
「そう。――あなたはもう知っているのかもしれないけれど、笑い合えるというのはきっと、素晴らしいことだと思うから」
たとえそれが逃避にしか過ぎないものだとしても、きっと、浮かべられたその笑みはきれいなものだと明は思う。それは願いにも似ている。たとえまやかし、つくりものだとしても、笑顔はきっと、花が咲いたようにきれいだと。
ぎこちなかったほほえみは、いつしか自然なものへと変わっていった。
顔を見合わせ、明とルクワートは笑い合う。
「私達は究極的には独りなのかもしれない。だけど、一時でも笑い合う事が出来るのなら――それでいいのではないだろうか」
明が導き出した答えに、寂しがりの冥魔は小さく頷いた。
●Case.紫玉の珠鏡
鏡を見ている気分だった。
差異はある。けれど根本的な箇所、上澄みのいっとうきれいな場所、それは――二人ともよく似ていた、ような気がする。
「きっと、かつてのあたしもそんな顔をしていたのじゃろう」
泣きながら笑う、笑いながら泣く、鳴く、嘆く。
「いや……今も本当は同じ顔をしているのかもしれぬのぅ」
指先で頬をかきながら鍔崎 美薙(
ja0028)は曖昧に笑い、眼前で黙したままの男、アベルに小さく「なぁ」と呼び掛けた。
辺りは真っ暗、一面闇。遠く遠く、手が届かぬ程遠くに一粒の光が見える。針で刺したような小さな小さな穴。唯の闇ならば良かった。けれど、違う。遠く遠く、届かぬ先に光が在る。そこがどこなのか、美薙には判らなかったが――何となく、アベル本人の心に触れた、ような気がした。
暗闇に目が慣れて来て、アベルの相貌が良く見えるようになった。その横顔は、憂いも無ければ明かりもない。
「泣く事も、忘れぬ事も、変わらぬ事も、止めはせん。同情はせぬよ、共感なんて以ての外。全ておぬしの失いたくない欠片そのものじゃろ」
共感なんて出来るものではないと、美薙は言う。アベルが抱くものは、アベルだけのもの。他の誰にも持ち得る筈がない、と。
「おぬしは、まだ愛している――のじゃから」
「無様だろう」
ここに来て初めて口を開いたアベルは、笑っていた。
自嘲でも何でもない。弛んだ口許は作り物めいてはいるが、本物だ。
「ああ、無様じゃな。けれど愛とはそういうものじゃろう?」
「……そう」
アベルの伏せられた目には、何か遠い光を懐かしむような、淡い慕情が見えた。
貴いものを慈しむ眼差し。それを向ける先は――過去の灯火。
それを理解している美薙は同様に目を伏せ、足場の無い闇を見詰めた。
「あたしは、その痛みを、喪失を、肯定する」
「へえ」
小さく呟くようだった美薙の声が、一段大きくなった。勿論、この蟠る闇を揺らす不躾さは無い。
「痛み続ける事で過去にしたくないという想いがあたしにはある。おぬしの在り方を否定しようもない。――おぬしの伽藍堂の籠だという、愛の形を外からあたしが肯定しよう」
アベルの答えは無かった。疑心というよりは興味が沸いた風で、美薙の両の目をちらと見た。
「何じゃその目は」
「それで、きみは何を得られるんだい。何の利益が在る?」
「ふふ、損得勘定か。勿論ある、おぬしの理解者になりたいのじゃ」
嘘ではないぞ、と釘を刺す美薙の目に曇りはない。否――この暗がりでは窺い知れない。
「物語は語り手だけでは無いのも同じじゃ」
ぴんと立てられた人差し指に、アベルはくすりと笑った。
それを見た美薙はしたり顔で目を細め、それから薄い笑みを刷く。
「あたしは、おぬしの物語の聞き手というパートナーになりたい」
アベルがエンドマークを打ちたい時、抱き続ける愛に満足出来た時、自身が介錯すると約束する――そう言い添えた美薙に、アベルはいつもよりどこかやわらかな笑みを浮かべ、それでも首を縦には振らなかった。
飽くまで独りを選び、飽くまで愛を募らせ続けることを望む男。
美薙は去りゆくその背を眺めながら、どこか安堵したような想いに駆られた。
――尤もらしいことを並べる裏の裏、心の端で積もった澱み。
彼が手の届かない所まで狂い閉ざされた籠の愛に溺れ愛を募らせてくれれば良い、そう考えた。得難い存在、得られぬ存在、手に入らないのならば討つしかない。討つことで永遠を手に入れるなんて皮肉。利己的で、なんとも見難く無様な感傷。
「けれど、愛とはそういうもの……なのじゃろう?」
美薙の静かな呟きに、返すものはいない。
●Case.揺り籠に眠る
夢だ。何故かインレ(
jb3056)にはそう確信が在った。
目の前で笑い掛けてくる悪魔に見覚えは無くとも、理解が出来た。
(だが例え夢だとしても――泣く子を放っては置けんな)
笑っているのに、泣いている。はっきりと判る。
名を名乗り、名を聴いて。寒いと呟く己にその娘は冬が好きだと言った。
さあ、話を聴こう。
「『幼子』にはこれが一番だ」
袂から取り出したる一口羊羹や豆菓子に、娘――ルクワートはきらきらと表情を輝かせてはしゃいだ。
「ルクワートは冬が好きか」
「うん、好きだよ。さみしいと寒いは似ていて、さみしいって言えばきっと誰かが助けてくれるから。ああ、さみしいなあ――」
うわごとのように囁く彼女には”誰か”なんていないことも、インレにはすぐに判った。夢見事、空想、そんな世界にしか助けを求められない憐れな迷い子。
「わしは寒いのは嫌いだからのう」
豆菓子を一粒口に投げ込みつつ、インレは気を使った様子も無しにルクワートの手を取り、やわく握った。
「だが、こうやって手を取って身を寄せ合うなら――冬も悪くないやもしれんな」
「……ふふ、あったかいや」
一瞬驚いた表情を浮かべるルクワートだったが、直ぐに頬は綻んだ。
「しかしなあ」
ゆっくり、穏やかに、まるで幼子に接するようインレは語る。
絵本を読み聞かせるように、眠りにつく間際の子を宥めるように。
「愛か。難しいのう」
インレは永い時を生きて、誰かを愛した事もあれば、誰かに愛された事もある。だが、未だに真の意味では理解し得ぬ。それが愛と言われれば、そうなのかも知れない。
「ルクワート。おぬしにとっての愛とは何だ」
「愛? ……判らない。幸せなこと。温かいこと。独りじゃないこと」
漠然としていて、攫み辛い。だが、彼女の中の愛のイメージは何となく察することが出来た。つたなく、幼い。そして些か乱暴だ。
「わしが分からぬなりに言葉にするなら、愛は『受け入れる』事かのう」
「受け入れる……?」
「そう。盲目に肯定するのではなく、良い事は良いと、悪い事は悪いとしながら、その上で良い所も悪い所も理解できぬ所も『受け入れる』。それが愛だと、わしは想うよ」
盲目の両の目。ルクワートの眸は濁り澱みはないが、ひとつの色に染まり切っていた。ある種の盲目。インレは手指を結びながら、穏やかに笑んでみせる。
「だからルクワート。まずは自分を受け入れ、そして同じようにおぬしが好きな者を受け入れると良い。……さすればきっと、大丈夫だ」
「自分を、受け入れる……」
言われた言葉を反芻する様はまるで幼子のそれだ。
その言葉はルクワートの心の中で深く響き、広がっていった。
愛されたいと泣き、愛したいと泣くルクワート。
愛し方が判らず、愛され方も判らず、結局砂場の城を壊してしまう。
その姿がどこか――誰かに似ていると、インレは思った。
あの時は何も出来なかった。あの時は手を伸ばせなかった。
代替。償いのようなこの行為は愚かしいかも知れない。
だが。
「おぬしが寂しいと、助けて欲しいと泣くならば、何時いかなる時でもわしが来よう。冬でなくとも、手を取り寄り添おう」
「……ほんとう?」
「勿論だとも。悪い事をしたら拳骨だがのう」
おずおずと問い掛けるルクワートの銀糸を撫でつつ、インレは目を細めて言った。
――眼裏に映るは遠い過去の眩しい幻想。いつかの夢。あの日の贖罪。もう届かない遠い誰かさんに贈る、おやすみなさいの子守唄。
●Case.繋ぐ夢珠の愛
「ようこそっ!」
諸手を広げ花が咲いたような笑みで迎える冥魔ルクワートに対面した久遠 仁刀(
ja2464)は、軽く手を振り返すと案内された椅子にぎこちなく腰を下ろした。何せ随分可愛らしい造りの椅子とテーブルだ、男の自分が座るにはどこか居心地が悪い。
対するルクワートはというと、にこにこと満面の笑みを浮かべながら仁刀を見詰めている。
――以前茶会に呼ばれた時や、妹が誘われた時の話から少し気になった事が仁刀にはあった。
確証はない。けれど、気になる。だから、踏み込む。
「ねえねえ、仁刀くん。何して遊ぶ? 何がしたい?」
「ルクワートはどうしたいんだ?」
「へ」
返る言葉に一度目を丸くしたルクワートは、戸惑いを隠さず仁刀を窺った。様子を探り、反応を見ている。そう気付いた時、彼の中での想像は徐々に確信へと近付いていく。
仁刀は真っ直ぐルクワートを見返し、特にこれといった提案を示さなかった。そして態度も変わらず、不動。そうする内に彼女は目に見えて狼狽え、視線は宙を泳ぎ指先は忙しなく動き、見ていて可哀想になる程だ。
それから数分。
「ね、ねえ……」
「……」
落ちる沈黙。半べそになりつつ指先同士を擦り合わせる仕種は焦りと動揺の現れか。
(……予想は当たり、か)
ルクワートの考える愛、考える好意は『相手の望みに合わせる事』。そう目星をつけた仁刀は行動で示し、そして見事的中した。望みを告げられず、そして相手の満足を実感出来ず。その状態が不安で仕方ないといった様子だった。
それから更に数分。
――――ルクワートが、泣き出した。
ぼろぼろと大粒の涙を眦から溢れさせ、小さく、静かにすすり泣く。つとめて声を上げないよう気を張っているのは、気の所為ではないだろう。
流石に泣いている相手を放置することは出来ない。
「ルクワート」
「ご、ごめんね、泣いちゃって。煩いかな、邪魔かな、」
掛けられた声に一瞬肩を跳ねさせたルクワートだったが、目が合うと同時、眦から新たな涙があふれ出す。
「……やっと、話してくれたあ」
ひっく、としゃくり上げる音。それからぐしゃぐしゃの笑み雑じりに冥魔は首を傾げる。
「わたしといてもつまらない? わたしと一緒にいるのは、楽しくない? それともわたしが何かしちゃったのかなあ」
「違う、違う。……でも、やっと伝えてくれたな」
仁刀はハンカチを差し出しつつ、涙まみれのルクワートに言う。
友愛も恋慕も敵対もすべて、自分自身をぶつけることで起こる不和を恐れず、かつ開き直らずに互いに乗り越えていくことで進むもの。だからこそ、こうしてルクワートが不安を伝えて来てくれたその事実が良いことだと思う――と。
ハンカチを握り締めたまま暫し唖然としていたルクワートだったが、繰り返し告げられ漸くと理解すると、涙に濡れた頬を赤らめてぽつぽつと語り出した。
独りぼっちが長いこと。変わり者ということで迫害された時期があったこと。ヴァニタスのこと。友達も恋人も愛も恋も何も判らないということ。本当はどこかで撃退士とは未だ真の意味での友達にはなれていないと気付いていること。
「歩み合うことで、友になる。一方通行じゃ駄目だ」
それから泣かせてしまったことに対して謝罪する仁刀の顔を上げさせ、ルクワートは首を左右に振るとえへへと笑った。
「まるで夢をみているみたい」
――甘やかなゆめの終わりは直ぐそこ。
●Case.硝子の城を築く
叶わない想い。忘れられない人。棄てられない面影。
大事そうに後生抱えて、その人以外を断絶することで孤独で有り続けて、誰の声にも耳を貸すことをしない。まるで修行僧のようだとCamille(
jb3612)は思う。
誰かに助けを求めることもなく、独りきりで自罰的に生きる。
(――ああ、なんて憐れ。)
それは一種の罪悪感なのかも知れない。報われてはいけない、救われてはいけない、不幸であり続けないといけない、許されてはならない、……なんてちゃんちゃら可笑しい笑い話。
一途だ。だけど、それだけじゃあない。
檻に囚われたままで居られれば、思い出と共に在り続けられる。その時の感情を失わない為に自分自身も変わってはいけないから、他人の介入を拒む。
それは飛び切り一途で、飛び切り臆病な愚か者の自縛の鎖。
アベルはそういう男だと、カミーユは思った。
そんな彼を変えるには、強引に内面に入り込むしかない。
出来ることならば変えてやりたい。偽善? 答えはノー。そう取られてしまっても仕方が無いかも知れない。けれど、違う。カミーユは人一倍ひとの痛みに敏感だった。今まで自身が受けて来た差別や、マイノリティであるという事実、それらによって培われてきた土台。
誰かが痛みを訴えているのなら、その傷を癒すことが自身に出来るのなら、動く。それがカミーユだった。
強がっているのは果たしてどちらだったか。
「過去に望んで縛られて、時と共に美化されていく過去を抱え続けて。それはもはや、幻影、幻想……真実じゃない、理想像」
カミーユの凛とした言葉に、アベルは顔を上げた。
「それはもう、偽物だよ」
ぴしゃりと言い放たれる鋭い指摘に、けれどアベルは否定するでも、肯定するでもなく視線を宙に向けた。
未だだ。未だ足りない。
強い感情を芽生えさせるには、未だ足りない。
好意でなくても良いのだ。嫌悪感でも、怒りでも、憎しみでも、何だって構わない。アベルの心を負の感情で揺り動かし、他の感情を生み出し、他の存在を住まわすことが出来れば。
それは大きな前進になると、カミーユは確信していた。
「いや、もとから紛い物だったのかも知れない。記憶も、人間も、時と共に変わっていくのは止められない。そして人間はどうあがいても忘却してしまう……声も、感触も、温もりも、その時の想いも」
ふとアベルを見遣ると、その手指は僅かに震えていた。
言葉が連ねられる度に、彼の表情は曇る。
カミーユはそれでも訴えることを止めなかった。
「想い人は美化されて、まったくの別人になってしまってる。アベル自身も、いくら殻にこもっていたって、昔とは変わってしまってる」
「判ってるよ」
初めて口を開いた。その声は普段とは違って、僅かに沈んで、そして掠れていた。ひとを夢見がちだと謳うアベルが、夢を見ている筈もない。彼自身、理解していた。
「偽物の誰かを、偽物の気持ちで、必死に失わないようしがみついてるだけ」
「判ってるよ。判ってるんだ、そんなこと」
「じゃあさっさと捨てちゃいなよ、そんな偽物なんて」
投げ槍に言い返していたアベルがばっと顔を上げると、その表情は焦りに満ちていた。そして滲むのは苦渋。
――理解していて、それでも尚棄てられないものがある。蒼い双眸に秘められた哀悼と切なさが、行き場の無い衝動に駆られて揺れる。
カミーユはアベルのその硝子越しの両の目を見詰め返して、小さく尋ねた。
「それでも駄目なの?」
「……」
肯定も否定も無く、アベルは今にも崩れてしまいそうな笑みを浮かべて首を振った。
カミーユは知る。彼の心に隙間はひとつとしてない。がらんどうの癖に、膨れ上がった愛と孤独ではち切れてしまいそうな器。
そうして仕方のない男だと、カミーユは目を細めて息を吐く。しようがないひと。そういった言葉がひどく似合う。可哀想で、惨めで、情けない。けれど真っ直ぐで、見棄てようという気にはなれない。そんな一途さ。
――朝が来る。夜が終わる。長いようで短いような、永遠のようで刹那のような、淡いようで鮮明な、夢の時間に終わりが訪れる。
アベルはふと、思い出したようにカミーユに目を向けた。
「なあ、きみの名は? 夢が明ければ忘れてしまう、短い時間だけど」
「カミーユだよ。ああ残念、もう朝が来るなんて」
冗談めかした声音に先に笑い出したのはどちらだったか。
暗闇が徐々に晴れていく。隅から静かに朝が来る。焼ける空、茜色、群青色、泥濘み雑じり合う光景にカミーユは目を閉じた。
東雲の空だけが知っている、この夢の終わりまで、流れるように泳いでいく――。
●XX
おやすみなさい。おやすみなさい。
さあさようこそ、新しい一日へ。