●鎖された澱
「いつも以上によく分からない話ですね。アベルが単純に魂を得る為にディアボロを作っている訳ではないのはもうわかっていますが……」
風になびく髪をそっと押さえながら、久遠 冴弥(
jb0754)は書簡を手に小さく呟いた。
暑い日差し降り注ぐ日中、コンクリートの照り返しが鈍く輝き目を灼く。
冴弥の傍らで、佐藤 としお(
ja2489)は小さな一軒家を目の前にして、誰にともなく言った。
「何はともあれ話を聞かない事には始りませんよね?」
二度目の死を希う迷い子を救う為、先ずはと、撃退士六人が足を運んだのは素体と思しき少女の住んでいた家。オオノ夫妻とは先にキョウコが連絡を取っていた為、スムーズに話を繋げることが出来た。
「私たちは、久遠ヶ原の学生です。……娘さんのことで、お伺いしたいことがあるのですが」
玄関口から顔を覘かせた壮年の女性――オオノミキの義母に対し率直に身分を明かし、簡潔に告げるのは矢野 胡桃(
ja2617)。
義理の娘が行方不明になって数日。けれど特に取り乱した様子の見られない義母と義父は、初めは撃退士らの年齢の若さに戸惑っていたようだったが、素直に対話に応じた。
ミキの失踪に、天魔が関与している疑いがある。
そう告げた冴弥に対し、居間の座布団に腰を下ろす義父母は僅かな驚きと、矢張りといった納得を見せた。
「どうしてミキちゃんが……」
返る答えはテンプレート。可も無く不可も無くといった所か。義父は黙したまま湯呑に手を伸ばし、麦茶を一口啜った。
「その件に関して、色々話を聞きたいんですよねー。例えば予兆が無かったか、とか?」
アリーチェ・ハーグリーヴス(
jb3240)の問いに、二人は困惑して顔を見合わせる。まるで覚えが無いと言った様子だ。
「ミキさんは何か言っていませんでしたか? 居なくなる前に」
「特には」
としおの質問。けれど消沈した様子の義母の代わりに、義父がばっさりと返した。
「……天魔事件に巻き込まれる、なんて。この街もこんなに物騒になってしまったのね」
義母の呟きはどこかずれていた。歯車がかみ合わない、一マスの空白。
まるで他人事のような言葉にアルドラ=ヴァルキリー(
jb7894)は目を細めつつ、すかさず問いを投げる。
「彼女を引き取って育てていたということだが……どんな娘だったんだ?」
「いい娘でしたよ。我儘も無く、大人しくて、言い付けも確り守る良い子でした」
返る答えはどこか、すべてがテンプレート。嘘ではないのだろう。偽りではないのだろう。けれど、どこか一枚何かを隔てている、と彼らは感じた。ただ、確信がない。そしてその壁を打ち砕くキーを、彼らは持ち得ない。
「娘さんは十六歳、と伺ったんですが。その年頃なら、もしかしたら恋愛関係の悩みとか、あったのかな?と。なにかそういう関連の話、ありませんでしたか?」
「恋愛、ですか」
「判りませんね。あの子はそういう話、持ち掛けて来はしませんでしたから」
胡桃の質問にも、響かない。掛からない。
注意深く義父母を観察していた冴弥は何とも言い難い不信感を二人に対し覚えていた。だが、その違和感の元凶が攫めない。表面上は少なくともミキのことを心配している。だが――何かが、違う。薄っぺらい。
質問は続く。けれど、決定打は得られない。
結局の所、オオノミキについて得られた情報は少なかった。オオノ夫妻は知らなかったのだ。彼女が何を好み、何を求め、何をしていたのかを。二人が知っているのは、二人がオオノミキに求めた『偶像』だけ。
そうであるのだと気付いた時には既に、陽は沈み始めていた。
◇
殺風景な部屋だった。十六の娘が住んでいたとは到底思えない、無機的で生活感のない部屋。
オオノミキの部屋の捜索を申し出た鍔崎 美薙(
ja0028)は、その部屋の静けさに唖然としていた。
――天魔が関与しているのであれば、何か痕跡などが残っているやも知れぬ。
その言葉を快諾して部屋へ上がらせた義父母。心配している様子も見て取れた二人。
けれど。
「……彼女を救う手がかり、も何も」
この部屋には何も無かった。何も残されていなかった。
横たわる静けさ。小さなデスクと、その上に投げ出された鞄。押入れには一組の布団と、僅かばかりの衣類が残されているだけ。
先ず部屋にはクローゼットが無く、年頃の娘であれば欲しがるであろうものがひとつも無く、彼女の生きた証と呼べるものはひとつも無かった。
鞄の中には教科書の類が収まっているだけ。整頓されたデスクには書置きどころか塵ひとつない。どれだけオオノミキが義父母に気を遣って生きてきたかが窺える。まるで、鞄ひとつだけを持って日々を過ごしていたかのような、そんな錯覚さえ覚えるのだ。
温もりの欠片もない部屋。冷え切った部屋。その中でただただ過ごしていたひとりの少女を想像して、美薙は小さく身震いをした。
「この結末しか、選べなかったのじゃろうか……」
誰もいない部屋。何もない部屋。ひとりきりの部屋。
「のぅ、救済を語るアベルよ」
美薙の呟きは、狭い室内で小さく響いた。
●開かれた世界
世界に茜色が差し始める頃合い。
然程広くはない花畑は紅く色付き、その場に着いた撃退士らを迎え入れる。
大小様々な花が咲き誇るその場所で、ひとり泣いている存在がいる。
それを捜し、葬るのが、彼らに課せられた使命。
「親指姫は燕に助けてもらうんだよね。――しっかたないなぁ、あたしが闇の翼で見つけてあげるよん」
言いながら翼を広げるアリーチェは、地を蹴り空へと舞い上がる。それと同時に彼女は草木の隙間を走り回る鼠を操り、辺りを探索させ始めた。
「……どうか、見つけられますように」
そよ風で揺れる花々の動きすらも見逃さないよう、確りと目を凝らして胡桃は呟いた。
草花の波をかき分け、足許に注意しながら、捜索を行う。索敵に意識を集中させつつ、茜色に染まる草木をそっと踏み締める。
「小さくて見えなくても音は消せない、でしょ?」
聴覚を研ぎ澄まし、姿勢を低くし、僅かな音をも聞き逃さないようにしながらとしおは親指姫を捜索する。
けれど耳に入ってくる音は様々だ。味方が歩き回る音、小動物が駆け回る音、風で木々がそよぐ音、それらを除いた別の物音を捜す。
神経を尖らせ、迷子の親指姫の姿を求めゆく。
「――ミキさん。どこに居るんですか? ミキさん、」
呼び掛けながらゆっくりと辺りを回るのは、冴弥。
ひとりぼっちは寂しい。とても、冷たく凍えるものだ。それならば、声を掛けてみよう。向こうからアクションが在るかも知れない。そう考え、冴弥は注意深く辺りを見回しながら、ひとりぼっちの親指姫へと呼び掛け続ける。
声は届かないかも知れない。もう遅いのだ。けれど、ひとかけらの希望に願いをかけて冴弥は声を上げ続ける。
茜色の空が端から暗い群青色に染まりつつあっても尚、撃退士らは捜索を続けた。夏の陽が沈むのは、遅い。
未だある程度の明るさを保つ空の下、アルドラもまた親指姫の姿を捜していた。
(範囲攻撃で知らぬ内に葬ることも出来るが、それでは意味がない)
一刻も早く探し出し、ひとりぼっちの彼女に温もりを与えてやりたい。
そう願いながら、アルドラは草葉をかき分け姿を捜す。
「気遣いのようなものを感じたからのぅ、あるいは……といった所か」
見晴らしの良い、クローバーの生い茂る小高い丘に目を付けた美薙は、そこで生命探知を試みる。ヴァニタス、アベルが寄せたであろう心を汲んでのことだ。
そしてその網に、幾つかの存在が掛かる。小動物だろう。だが、もしかしたら親指姫が居るやも知れない。
美薙が数歩と慎重に歩みその反応箇所に近付いた時、幾つかは散らばっていった。けれど、たった一つ、残った反応が在る。
――そこに、親指姫はいた。
親指姫は、実に小さなディアボロだった。サイズの程は二十センチにも満たないだろう。掌に容易く乗ってしまう大きさ。小高い丘、大きな一輪の花の上、姫君は佇んでいた。伏せられた顔は見えないが、それがオオノミキの成れの果てであるということが全員に判った。
「見つけたわ。泣き虫な親指姫。貴方にとっての『花の王子』は誰なのかしら、ね」
胡桃はそっと両手で花から親指姫を掬い上げると、目線を合わせて言った。
写真で見たオオノミキと、面立ちは一致していた。生前の面影を態々残し、人畜無害なディアボロを作成した、アベル。
彼は何を求めているのだろう。彼は何をしたいのだろう。
そんな思いは、巻き起こる小さなつむじ風に乗って消える。
彼女に――ディアボロに、告げるべき言葉を胡桃は持たなかった。義父母から感じた違和感。不信感。それらが、胡桃の唇を閉ざさせた。無論、ディアボロと化してしまっている以上、言葉は元より届きやしないが。
「早まってディアボロなっちゃうなんてバッカよねー」
親指姫を見下ろし言うアリーチェの言葉は、ディアボロには届かない。
ただ、感慨も篭めずに言う。
「あたし優しいから、あんたの気持ちも伝えといてあげるよん」
幻覚能力を持つ――アベルの作るディアボロの特性だ。今回も恐らくディアボロは何らかの幻覚を持つだろう、そう予測しての発言だ。
アルドラは黙したまま胡桃から親指姫を預かり、やわらかなタオルにその小さな身体を包んだ。仮初め、一時的なぬくもり。もう本人の真の心には届かないと判っていながら、彼女はそうした。
「エゴかも知れないけど、僕は救えるのならその全てを救いたいんです」
救済を謳うヴァニタスが何を以て救いとするのか、としおには判らない。判らないが――救いたいと、このいたいけな、ひとりぼっちで震える親指姫を救いたいと思った。だから、銃を構える。
――――そこで、全員の視界に華が咲いた。色取り取りの花。赤白黄青緑紫橙朱様々な花がつぼみを綻ばせ、彼らの視界を埋め尽くす。それは幻覚だった。
ひとりぼっちの親指姫の、オオノミキの、短い半生。
●ごめんなさい
生まれてきて、ごめんなさい。
生き残ってしまって、ごめんなさい。
色々な人に迷惑をかけました。
色々な人に厚意を受けました。
多くの人を嫌な気分にさせました。
そんな私はきっとひとではありません。
そんな私はきっとものでさえありません。
生き残りさえしなければ良かったと、与えられた幸運すら悔やむ私は愚かで、最低な存在です。
ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。
折角与えてくださった御恩を返せず、先立つ不義理をお許しください。
私は、もう生きていることが出来ません。
私は、もう生きている価値がありません。
――ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。
弱虫で、ごめんなさい。役立たずで、ごめんなさい。恩知らずで、ごめんなさい。
●澱の世界
少女のか細い謝罪が繰り返され、そうして消えていった。
すべてを望まず、すべてに謝罪し、後悔し、自ら死を望んだことの顛末。
恵まれない環境。望まない結婚。求められる仮面。それを被り続けた偽りの生。
そのすべてを眼裏に焼き付けた撃退士らは、茫然としていた。
「……今までよく頑張ったな」
アルドラは気付けば泣いていた。頬を濡らす一筋の涙。
オオノミキの生に、救いが無かったのか、と言われれば誰もが答えに惑うだろう。
常に誰かから偽りの仮面を求められる。常に誰かから疎まれ続ける。常に誰かから蔑まれる。
「恩を感じてるなら、黙って死ぬより、家を出て自立した方がいいじゃん。ボタンの掛け違いを正すこともなく、短絡的に死で解放することでしか助けられない。それがヴァニタスによる救済の限界よね」
アリーチェは呟くものの、心のどこかでは判っていた。
そうさせない強制力が、ミキの周りにはあった。常に利用される。価値を求められる。誰かの為に生かされる。だから、自由が無い。自立さえ認められない。逃げるという概念がない。
「ミキさんがアベルの救済に身を委ねる確かな理由があった……ということでしょうか」
散って行った花々。その幻影を見詰めながら、冴弥は苦々しく言う。
生きていれば幸福になれるかも知れないと、幻影の中誰かがミキに言っていた。
けれど――彼女はその希望を抱くことさえ諦めてしまった。疲れ果ててしまった。そして、自ら死を望んだ。
「手を伸ばす事、意志を持つ事、どうして諦めてしまったんじゃ」
切なげに言う美薙の目線の先、茫洋と宙を見上げる親指姫の姿が在った。抗い生きて欲しかった。けれどそれも酷というものか。エゴなのだろうか。それでも、伝えることを、生きることを諦めないでいて欲しかった。
親指姫の相貌は、哀しげに歪んでいるように、見えた。
「せめて安らかに……」
としおは歯痒くて堪らなかった。守れなかった命、救えない魂。幻覚が事実であるのだと、その頃にはもう判っていた。だから、彼は引き金を引くことしか出来ない。救いは――もうこの手段しか残されていないのだから。
たあん。
発砲音、地に散る遺骸。クローバー畑に散る灰はその色を失くして宙に舞い、親指姫のいた痕跡をも掻き消した。
哀しき姫君の物語の終焉。さようならは、それぞれの胸の内。
「何処かで見ているのかしら、ね。……ストーリーテラー、アベル」
胡桃は首から提げた指輪に触れて呟き、胸中に蟠る苦味に短く嘆息を逃した。
◇
親指姫――オオノミキの最期を義父母に伝えた後。
事件は収束した。そう言って撃退士らを帰そうとした両親に対し、アリーチェは、手に入れた情報、『お見合い』の件について率直に尋ねた。
「そう言えば。どうしてまだ若い彼女にお見合いさせようと思ったんですかねー?」
「――幸せの為ですよ」
一瞬の間を置いた後、義母は場違いなまでににっこりと笑い、言い切った。
果たして、誰の? ――生じる違和感。けれど、それを追求するだけの権利と、鍵を撃退士らは持ち合わせてはいなかった。
「御迷惑をお掛け致しました。有難う御座います」
丁寧な謝罪と、そして――これ以上触れるな、と言わんばかりの目に見える拒絶。
急かすように玄関先から撃退士らが追い出された後、室内からは吐き棄てるかのような声が聴こえた。
『――あの恩知らずの娘』
『折角可愛がってやったのに自殺だなんて――』
『――ご近所にどう顔向けしたら良いのかしら』
心無い言葉の暴力。矛先はもういない。けれど――その言葉たちは、撃退士らの心に深く突き刺さった。
「……っ」
としおは持前の正義感から強い哀しみを覚えるが、扉が閉ざされてしまっている以上もう何も口出し出来ない。
「本当の救済とは、一体何なのじゃ」
耳に入る罵声。苛立ちに満ちた声。それらを聴きながら、美薙は堅く拳を握り締めて項垂れ、僅か震える声で呟いた。
――無言で場を立ち去る撃退士らの脳裏に、花畑の情景が一瞬浮かんで消えた。