●錯綜する想い
雨、雨、雨。
漸くと終わりが見えたかと思った矢先の戻り梅雨に辟易した者は少なくない。それは彼らも同じだ。日々続いた豪雨よりは幾許か易しいにせよ、深々と地を打つ滴は大きく、そして季節に関わらず冷える。
人払いのされた学舎は雨音以外一切の気配を感じさせない程静まり返り、明かりの点らない窓は物寂しさを誘う。
突如住宅街に現れた金魚は見た目こそコミカルであれ、民間人たちを恐れさせるには十分だった。辺りには警備の影も無く、天魔警戒を促すポスターが数枚雨に湿気て垂れ下がっているのみだ。
「しかし、話を聞くだけでは金魚というよりピラニアで御座るなぁ」
今現在は閉ざしてしまっている校門。藁縄を靴に締め直しながら、エルリック・リバーフィルド(
ja0112)は降り頻る雨に眉根を寄せる。地面の泥濘みに対しては十分な対策だろう。
「金魚もあそこまででかくなったら、可愛くないな〜」
白虎 奏(
jb1315)も雨を避けるように掌で天を仰ぎつつ、ほぼ同意見であるといった風に肯く。
「風流って奴だろ、まあ悪くねえ」
軽口めいた口調で呟いたのはアラン・カートライト(
ja8773)。その傍らで、彼の悪友たる赤坂白秋(
ja7030)は伏せた眼差しの元に竜の刻印を記した拳銃を発現させて弄ぶ。
「風流が分かるのかよ、イギリス人にも」
白秋の皮肉に肩を竦めて返したアランの背を隔てた先では、銀髪を雨に濡らしながら思い詰めた表情をした華愛(
jb6708)の姿が有った。
(必ず……助けるのです……!)
ディアボロの少女に波ならぬ意志を抱いている少女の引き結んだ唇は、天候の影響かもは知れど白い。強く決意した眼差しをいずこかに潜む姫君へと向け、左右した首で雨粒を散らしたその最中。
肩に置かれた手に華愛が振り返れば、仁科 皓一郎(
ja87771)が緩く笑う。
「そう気ィ張りなさんなって、な?」
「……はい、なのです」
金魚と共に遊泳していたと言われる、名も知らぬ、事情も、何も知らぬディアボロである筈なのに、華愛は胸騒ぎと共に沸いた使命感に囚われていた。自身を突き動かす理由は判らなくとも、涙を流すディアボロの真相を知りたいと思った。またそれは恐らく、他の撃退士も形は違えどほぼ同様だった。
はにかみ笑い返す少女の肩をそっと押した皓一郎に促されるように華愛もまた列に加わる。
尻目に窺っていた白秋は雨避けのゴーグルを指腹で撫でながら、水溜りに波紋を幾重にも広げる粒を眺めた。彼自身も、誰も知る由も無い行く先に、滾る闘争心の変わりに何か別の、漣が満ちている。
――それぞれの想いが、錯綜する。流れる雨滴が垂れ落ち、滑り、行方が判らなくなってしまうことと、同じように。
●ゆらりゆら、流れる尾
先ず、ゴーグル越しの瞳で敵影を捉えたのは白秋だった。
校庭を横切る距離にして数10メートル、深い紅みを湛えた一抱え程の”何か”が飼育小屋の傍で揺蕩っていた。天魔を、依頼書を見ていない人間であればこの雨の中ではポストか何かと見紛うかも知れない。だが、彼ら撃退士にはそれが敵であるということが直ぐに判った。
「――食事中、で御座るか」
雨垂れの中声を潜めて告げるのはエルリック。言葉通り、金魚は透過した飼育小屋の中で家畜を貪ったのか、目を凝らせば網には羽毛や、獣の毛が細かに飛び散っている。
声に伴い皓一郎とアランが泥濘んだ地面を一歩踏み出すより先に、金魚の尾ひれはすい、と宙を流れ、稜線を描き玉垂れの中を泳ぐ。
だがそこで、一同の耳を奪ったのは微かな声だった。
それぞれが耳を澄まし注意を凝らすと、確かに雨音を縫って微かな声が聞こえる。悲壮、哀悼、悔恨、すべてを織り交ぜた、寂しげな音。それが歌声だと気付いた時には既に、金魚は校舎の裏へとその尾を揺らして去ってしまっていた。
「人魚ってさ……泣き声で人を惑わすんですって……。寂しくて悲しくて、人を呼ぶんですかね〜」
誰にともなく言う奏の言葉に耳を傾けながら、撃退士たちは金魚の後を追う。追うことが、追って倒すことが目的であり、それが彼らの救いの手段であったからだ。
裏庭に突入した六人の目に入ったのは、奇妙な光景だった。
大粒の雨が降り頻る最中に五匹の金魚がその尾を揺らして宙を泳いでおり、その最奥では一人の”少女だったモノ”が、傘をさしている。いや、厳密に言えば傘を持っているだけだ。
少女らしい小柄な体躯には不釣合いな大きな男物の傘を手に、少女は哀しい歌を紡ぐ。その少女の風貌は既に人としての面影は顔つき以外に無く、全身は真っ赤な鱗に覆われ、下半身はまるで人魚のような尾ひれで出来ている。
人としての残滓を残した相貌には涙を濃く浮かせ、人に聞こえるギリギリのラインで歌を乗せる金魚姫。
「雨の中で泣く子供にゃ、蛇の目でお迎え、だったか。……まァ、俺の柄じゃねェ、か」
相も変わらず軽口を叩く皓一郎は、阻霊符を手にアウルを篭め光纏する。イヤーカフから発現させた盾を掲げ、華愛と奏に目線で合図を送った。
「説得、上手くゆけば良いので御座るが……」
不安げながら、双剣を引き出すと同時にアウルを発露させたエルリックもまた光纏し、濡れた髪を分け金色の耳と九尾とが生え出でる。
「やってみて、無駄ってことはないっすよ!何事も挑戦!頑張りましょ!」
華愛の背を押しつつヒリュウのポチを召喚した奏は、レインブーツで泥を跳ねつつ親指を立ててサムズアップ。
「それから、危ない時はお知らせしますんで〜、思いっきりやっちゃってくださいっ!」
「お姫様とのダンス――な。紳士的にエスコートしてやるよ」
緊張を解くような奏の台詞にアラン、白秋も戦闘準備に入り、華愛は脅えながらもこくりと頷き足を踏み出す。
――撃退士に気付いた金魚姫の上げた悲鳴と、水飛沫を上げて転がった傘。それが、戦闘開始の合図となった。
悲鳴を受けて先ず、一番初めに動いたのは金魚の一匹だった。
奏と華愛の元にひれで空を切って進む紅い影を食い止めるのは、皓一郎。オーラを発露し、金魚の意識を吸い寄せるように引きつける。それとタイミングを同じくして盾で金魚の体当たりの勢いを受け流し、泥濘む地面でたたらを踏みながらも難なく踏み止まった。
タウントの挑発に誘われた金魚三匹が皓一郎の周囲に集まり、それを待ち侘びていたエルリックは双剣を手に跳んだ。
「いざ、参るで御座る!」
皓一郎に向かい仕掛けようと旋回する金魚目掛けて刃を振るうが、しかし鱗が僅かに欠けたのみ。存外に硬い金魚の表皮に驚くも束の間、皓一郎目掛けて再度別の金魚が突進にかかる。
「……ッと、危ねェな」
与えられる攻撃の速度こそ速いものの、命中精度は然程高くない。躱すことが容易であると判れば未だやり易い。与えられる攻撃を受け流しながら、切々と待つ。
少女と少女が、交し合うことが出来るか否かを。
金魚姫の周りを周回する残り二匹の金魚へと向かったのはアランだった。それに合わせて泥地を奔るのは白秋。
長年の付き合いとも有れば挟撃も様になっており、誤射を気にした立ち位置を狙った白秋の元に向かった金魚の一匹は、直線上に居た一匹と共に射抜かれ鱗を弾けさせる。
飛び散った鱗が雨に流され落ちる様子はまるで鮮血のようで、それを見てまるで哀しむように金魚姫は掠れた声を上げて歌う。人の耳には決して聞こえない音を隠したその旋律は、雨音を割いて響き渡ると同時に金魚たちの体躯を淡く赤い光で包み込む。
「何……うわっ、攻撃力が上がってるで御座るよ!」
「……これが続くと流石に困るんだが、ねェ」
金魚姫の祈り。何を想い何を願い歌うのかは知れずとも、戦わなければならない。
アランと白秋の囮によって場が開けた金魚姫に向かい、華愛と奏はじりじりと距離を詰める。
「華愛先輩、お願いします!」
「は、はいなのですっ」
金魚三匹は皓一郎とエルリックが、消耗は多いが少しずつなり削っている。残りの二匹はアランと白秋の挟撃に夢中だ。金魚姫に声を投げるには今しかないと、奏が華愛の背を軽く押した。
「そ、そんなに警戒しなくて大丈夫なのですよ。ぼくは金魚さんとお友達になりに来たのです、戦いに来たのではないのですよ」
おずおずと語り出す華愛を、金魚姫は退きながら見ていた。野生の獣が人を警戒する仕種にも似ている。
「寂しかった……のですよね? だからお友達をつくろうとしたのですよね……?」
それは、金魚姫が人間であったのなら、とても魅力的な話だったのかも知れない。けれど、生前の意識も、姿も失くしてしまった今では到底無意味なことだった。
「でも、金魚さん……そんな危ないやり方では、相手が、なによりが傷つ――……」
金魚姫は、華愛がすべてを言い終える前に尾を向けた。そして、雨垂れる空へと啼く。――泣くのでは無い、もう既に人でなくなってしまった金魚姫は、啼くことしか出来ないのだ。悲鳴、慟哭、先程と同様深い悲しみを湛えた声で啼き、そして、その音は撃退士たちを襲った。
「なっ……」
「……危ないっ!」
それぞれの意識が交錯する中で、それは、唐突に開いた。
●私はだあれ、あなたもだあれ
「あのね、パパ。私、学校でパパの絵を描いて来たんだよ」
「うるさい! そんなゴミ持って帰って来るんじゃない!」
ゴミじゃないよ、パパ。あたしのパパ。大事なパパ。だから、棄てたりしちゃだめなんだよ。
「ねえパパ、一緒にお買い物に行きたいな。パパと一緒がいいの」
「金か。金が欲しいならくれてやるから、何でも好きなもんでも買っておけ!」
お金なんて要らないよ、パパ。パパと一緒がイイの。パパと一緒じゃないなら、何にも価値なんて無いんだよ。
ねえパパ。パパ。あたしが悪い子だから、あたしを嫌うの? ねえパパ、パパ、パパ、……。
「ねえパパ」
「――お前なんか俺の子じゃない!」
あたしは、パパの子じゃなかったらあたしは、誰の子なんだろう?
ねえパパ、パパ、お願いします、あたしはパパの子だって言って。
でなきゃあたしはあたしじゃなくなっちゃうよ。
パパの子どものあたしが、死んじゃうよ。
あたしを”あい”して。
パパ。
●玉垂れの中で
漣のように広がったビジョンが掻き消え、視界が戻る。
雨音。雨々、さめざめと響き渡る滴の音。
「……厄介だな、こんなモン見せられるなんて」
逸早く意識から復帰したアランはややよろめきながらも戦斧を構え金魚姫へと向き直る。既に先程の二匹は白秋とのコンビネーションで打ち砕かれた後だ。
「金魚さんっ……」
「その心に僅かでもヒトとしての残滓があるなら、せめてそれが消滅する前に楽にしてやる」
泣き出しそうに顔を歪める華愛を尻目に、白秋は振り向かずに金魚姫へと告げる。
「それも、俺達撃退士の仕事だ」
白秋の台詞に華愛は顔を上げ、唇を噛み締め涙を飲み込む。一滴の涙は、雨に流れて見えなくなってしまった為誰にも気付かれなかった。
「華愛殿、こちらに援護を!」
「……はいなのですっ!」
エルリックの呼びかけに応えた華愛はブーツで泥を鳴らしながら急いで残り二匹の金魚の元へ向かう。
「……一曲お相手願おうか、可愛らしいお姫様?」
眇めた双眸で薄く唇に刷いた白秋の笑みは、皮肉な雨に濡れる。
金魚姫は泣きじゃくっている――ようにも見えた。すべては雨垂れの中での出来事ゆえに真実は判らない。周りに金魚は居らず、盾にすることも、頼ることも出来ない。攻撃手段も持たないと来れば、金魚姫にはもう啼くことしか出来ないのだ。
「よーっし! ポチ、行くぞー!」
奏が使役するヒリュウの呼気はアウルの力によって雨に舐られることなく金魚姫へと向かい、けれどそれは回避される。だが、逃げ道を塞ぎ注意を惹き付ける意図においては何も問題ない。
逃れようと金魚姫が振り向いた先、待ち構えていたのは雨滴を縫って据えられる白秋の銃口だ。解き放たれたアウルの銃弾でやわい肌はあっさりと裂け、腹を貫かれ飛び散る血液は黒く、もう既に人ではないということが改めて知れる。
痛みを感じるのか否か、睨み据えるように顔を白秋へと向けた瞬間、少女の敗北は決まっていた。
「――ブチ込め、紳士野郎」
白秋の呟きより寸で早く、金魚姫の死角からワイヤーを手にしたアランが大振りに腕を薙ぎ払う。背後から容赦無く叩き込まれた一撃に、少女は意識を失いひれを折って宙に崩れ落ちる。
「泣き疲れただろ、ゆっくり御休み」
アランの労うような言葉と、白秋の銃口が金魚姫に押し当てられるのはほぼ同時。
そして、三度銃声が響き。――金魚姫は、事切れたのだった。
皓一郎はリジェネーションの効果で傷を治癒し太刀を振るいながら、遠目で終わりを見届けていた。
華愛のヒリュウのブレスをカバーする形で盾になり、その上で残り一匹となった金魚の鱗を削ぎ落とす。
エルリックの双剣は剥がれ落ちた鱗の隙間を捲り、逃げ道と防御を失った金魚は皓一郎の太刀に貫かれ、そのまま泥濘んだ地面にぼたりと落ちた。
「……風邪引いたら、妹に怒られンじゃねェのか色男」
「怒りはしねえよ、笑われるだけさ」
泣き声は、止んだ。
それぞれの身体に降り頻る長雨と、冗談めかして交わされた軽口。
骸となった金魚と姫君を前に、撃退士たちは息を吐いて肩を落とした。
●金魚姫は泡になって
戦闘終了後、白秋が提案し、取り出したのはカメラだった。
雨で濡れないように、と皓一郎の用意していたタオルで包んだカメラで、骸の顔写真を撮影する。
撮影した金魚姫の顔写真を元に、撃退士たちは警察に協力を得た上で調査を行った。
その結果、判ったことが幾つか有った。
金魚姫の元となったと思しきは、片親の元でネグレクトの末死亡した少女。その少女の死体が消失していた為死体遺棄事件ではないかと疑われていた所、父親も失踪し、近郊で死亡していたということが判ったという。
真相は、不明。だが、父親の死因については言及するまでも無いだろう。
探ったとて、何も得られるものは無いとアランは判っていた。全てが終わってしまっている以上、これ以上生まれるものは何も無いのだと。現実として与えられた答えを見詰め、記憶することしか自身には出来ない。
けれど結果的に、少女の葬儀が行われることになった。少女は片親であり、親戚らも天魔の被害により死去している。遺体不明であることも相俟って消息不明とすることとなっていたが、アランと白秋の調査により少女の”遺体”が見付かったとして処理されたのだった。
弔われない化け物より、せめて、弔いを受けることの出来る人間に。
口には出さずとも伝わる悪友の意志に、アランは笑った。
「偉そうな事言って、俺も結局甘ちゃんのくせによ」
独り言のように呟いた白秋の背に拳を当て、小さく息を吐く。
小さな姫君への餞になっただろうか、と。