●黒揚羽の哀歌
教室に入り暫く。防音加工が施されていると言われたその教室で、ケイ・リヒャルト(
ja0004)は静かに歌い始める。切なく、儚く、それでいて芯の通った、透明感の在る声で――。
(だけど、それは……本当にあたしの歌いたい歌なの?)
生まれる迷い。そして、迷いは歌に滲み、そうして、彼女は歌を止めて席に腰を下ろす。
ケイはずっと独りで生きて来た。
「だけど学園に来て、幾人かの友人や……友人以上と呼べる存在に出逢えた」
――けれど、それは自分自身の思い過ごしでは無いか?
――本当は独りぼっちの侭、あの頃の侭では無いか?
ケイの疑念は、不安は、尽きることを知らない。
ぽつりぽつりと、ケイは一人で話し始める。独りを忘れた、一人きりで。
「最近のあたしはどうかしてると思う。あの人の感情に左右され、あのコの動向に翻弄されて」
仮面がいつから外れてしまったのか、判らない。あの頃の――独りで平気だった頃の、いつもクールで、何事にも動じず、いつも余裕の微笑みを湛えている仮面を探さなくてはいけないのに、そうさせてくれない、周り。
「……?」
感傷の発露。その後、ケイは気付けば頬をあたたかなものが濡らしていることに気が付いた。それが涙だということに気が付くまで、数秒の時を要する。
「何故、泣くの?」
自問自答の答えは、最初から出切っていた。
きっと自分自身でも判っていたのだ。理解していた。
仮面が外れたのは、独りでなくなった証。もう怯えずに済む証。
それはとても喜ぶべきことである反面――同時にとても不安になること。
心が、心の中心が揺れる。表層がざわざわと波打ち、漣がただ静かに胸に打ち寄せ、一番大切な部分を揺らす。
(こんなこと、生まれて初めて)
独りが当たり前だった筈のケイの世界が、独りではない”こと”を知ってしまった。
痛みを覚える程の切なさ。その変化の意味を、彼女は未だ知らない。
「嗚呼。どうしたら良いの……? ――誰か。教えてよ」
ケイはつうと伝う涙の滴を振り払うでもなく立ち上がり、喉を震わせ歌う。
一人きりの教室で、独りきりでない自身に惑う、哀しみ雑じりの歌。
●有りっ丈の感謝を
「学園に来た者にはそう珍しい話ではないが、あたしも故郷を喪った。悪戯心で家出をして、……そのまま死に別れた」
鍔崎 美薙(
ja0028)はキョウコと対面し席に腰掛けると、小さく語り始めた。
懺悔は幾らもした。けれど伝えていない言葉が有ったと――美薙は言う。
彼女の中で記憶は朧げで、思い出す切欠すら失われて久しい。
本当は思い込みなのかも知れない。喪われたからこそ、温かいものであった筈だと願っているのかも知れない。――己が心が、救われる為に。
「アベルに、夢見がちだと最初に言われドキリとした」
美薙は表情を変えずに、僅かに眉を顰めて言う。
救済を謳う冥魔、ヴァニタス・アベル。彼のことはキョウコも良く知っている。
「理想を、憧れを、郷愁を、高みに置くことで喪失から逃れたのは事実であったろうから」
「……うん。判るよ」
キョウコの答えもまた苦味を含んだもの。
二人は過去に家族を亡くした、言わば同類。
喪った痛みは本人にしか判らないが、共感することは出来る。
「本当はこの場に立つまではただ泣き言を言うつもりだったのじゃ。己は正しかったのだろうか? と」
けれど真実がどうであれ、今彼女自身が想っている事もまた事実で否定出来ないものだ。それを美薙は理解している。
「故に、亡き家族に伝えたい言葉は懺悔でも祈りでもなく、感謝じゃ。……愛情いっぱいに、育ててくれてありがとう、と」
その言葉に面食らったようにキョウコは一度瞬きし、そして穏やかに目を細める。
「うん」
更に美薙は続ける。これまで出逢った全てのものに感謝を、今この場に、たった一人で辿り着けた訳では無いのだと言う。
「学園に来るまで、そして学園で、依頼で、天魔であっても関わりを持てたことに感謝しよう。……そう、アベルの奴もじゃな」
「ぷっは。アベルは……そうだな、それ伝えたらすんごい嫌そうな顔してくれるんじゃない?」
「そうじゃろうて。それは実に痛快じゃな」
キョウコの軽口に、美薙は漸く破顔し頬を綻ばせる。
人も天魔も含め、出逢った者全てに感謝を。
――それは凛とした彼女らしく、そうして美しい答えだった。
美薙とキョウコは他愛無い話で暫し歓談し、それから連れ立って教室を後にした。
●情の錠前
閉ざされた教室で、鎖された心の錠を開く為。
マクシミオ・アレクサンダー(
ja2145)は扉を開き、眼前に用意されている椅子に腰を下ろした。
「――どォやら俺は、相手と親しければ親しいほど、言いたい事が言えなくなるタチみたいだから。だからさ、今日は。一番親しい人に言いてえ事を、言いに来た」
誰に向かってか――そう不躾に尋ねる相手は誰もいない。がらんどうの教室。
鉛色の目、赤茶色の目。常に覆う眼帯を外し心を弛めたマクシミオが告げるは、現在進行形で付き合っている、大切な恋人に向けてのもの。
抱えるモノは山程在る。
抱え込むタイプである自覚も勿論在る。
だからこそ、迷わせて宙に浮かせてしまう前に、言葉にして、形を取らせて、確りと攫む為に、彼は言う。
初めは、単に癒しが欲しくて近付いた。寂しかった、独りは嫌だった。
マクシミオは孤独を嫌う男だった。
「それが、いつからだろうな。どォしよォもねえくらい、あいつに惹かれるようになったンは」
浮気性で我儘な、まるで猫のようなお坊ちゃん。けれど、彼の傍は不思議と心地好い。
叶うものならばずっと一緒に居たい、そう思わせられる程に。
――離れたくないと、強く願う心。
己はハーフと言う種族。人でも天魔でも無く、他人も自分も信じることが出来ない、何につけても中途半端な自分自身。この抱く感情が事実なのか、はたまた虚実なのか、何もかもに対して懐疑的。
それなのに、寂しいと思う。苦しいと、切ないと思う。傍に、居たいと痛い程思う。
それが真の感情でないとするなら、何と呼ぶのだろう。
「情けねえだろ。恰好悪いな。だっせえ」
呟きは、静けさ満ちる教室に消えていく。
彼を糾弾する者など誰もいない、この場所。
「……そんな俺の傍に寄ってきてくれるあいつには、感謝してもしきれねえ。一生かかってもそれに見合う何かを返せるとは思えねえ」
それでも、伝えたい。
それでも、届けたい。
ありがとうと――好きになってくれてありがとう、と。
「届けたいけど、この気持ちは言葉じゃ足りねえから……ここで飲み込んで、別の形で返しに行くよ」
椅子に背を預け天井を見上げ、唇に刷いた浅い笑み。
かの人に届けることが出来るか否か、それは彼のみぞ知る話。
●あたたかな過去
椅子と椅子を背中合わせ、付かず離れずの距離を保って座る安瀬地 治翠(
jb5992)とキョウコ。向き合って話せないなら背中合わせで話せば良いじゃん何かカッコいいし! とは彼女の談。
暫く黙していた治翠だったが、キョウコに促されるままぽつぽつと話し出した。
「私には憧れの方がいます。本家の前当主の奥方、天使で――とても美しい方でした」
幼い治翠がその言葉の意味を知る程に、本当に美しい存在だった。
人間界に堕ちた後も不思議な力を持っており、幼い彼のアウルの流れにいち早く気付いたのもまた、彼女。
「あの家系で誰の邪魔もせずに極力目立たず生きていく事が自然と決まっており、それを自然と理解し過ごす幼い私を見つけてくれた方でした」
滔々と話す治翠にキョウコは黙したまま。
相槌を入れるのも野暮だと考えたのだ。
「『護ってあげてね』、あの方はそう言いました。寂しげな、慈悲深い笑みで」
誰を、かは聞くまでも有るまい。
予知能力も持つのではと言われていた彼女が何を想って言ったのか、その後に自身が前当主と共に戦場で斃れる未来も判っていたのか、今となっては誰にも判らない。
「あの方が私に意味と役割をくれました」
彼女がこの世に作り出した存在と共に、託された役割。
治翠にとっての始まりの彼女。
「学園に来て実践を経て、色々と思う所が増えましたね。後悔も幾つか」
「……うん」
「助ける為に必要だったのは何だったのか、未だ悩むものも」
それは前に進む為に必要なこと。
悩み続け、人は成長すると過去の誰かは言った。
治翠は悩む。けれど、未だ未だ歩き続けなければならない。『あの方』の――彼女の言葉が深く心に根差しているから。
そして今、護るべき人が共に在るから。
「支える為にも、もっと強くならねばなりませんし」
「それってつまりさ」
「はい?」
言葉を断って口を開いたキョウコにふと振り向いた治翠に、彼女は笑って言う。
「初恋って奴だったんじゃないの? 安瀬地くんのさ」
「――……」
冗談っぽく笑ってみせるキョウコを尻目に、治翠は暫く口を閉ざし、そして曖昧に笑い返す。
彼の出す答えは、教室に隔てられて他所には届かない。
●攫む意志
椅子に腰掛け軽く呼吸を整え、志摩 睦(
jb8138)は眼前に用意された空き箱を手に取った。
空き箱に話すというのもまた不思議な気分だったが、それが一番彼女にとって気が楽な手法だったのだ。
「……うちな、こん前好きな人と言い合ってもうてん」
大切な人。大事な人。勿論睦には大切な人は沢山いる。その中で、ひときわ輝く彼。
「彼が自分の事、『いらない』なんて言いよったから……」
睦の想い人は首に怪我があって、その所為で声が出ない。
だから彼女は彼の声を知らない。
けれどそれを面倒だと思ったことなんて、一度も無い。
「せやなのに、『いつか重くなる』なんて、言われてもうた……そないな訳、ないのに」
空き箱に響く言葉は小さく、か細く、消えてしまいそうだった。
想いは淡く、けれど凛とした芯を持っている。
それでも、声は嗄れてしまいそうだった。
「せやからうち、泣きそうになりつつ彼に言ったんよ」
本当に要らないなら、最初から期待なんてしない――と。
落ち着いてから思い返すと、気付いてしまった。
睦自身が無意識に、色んなものに期待していたのだということに。
そっとポケットから和柄の便箋を取り出すと、ぐしゃぐしゃになったそれを睦は握り締める。
「……傍に、居たい。いつか想いを伝えるその日まで、変わらずに傍に居らしてほしかった……」
けれどそんなことは無理だと、睦は思う。彼は彼女を認めていないのだと。彼女自身が認めていない以上、それは当然のことだと。
真意の程は判らない。けれど、睦はそこで足踏みしてしまった。
「好きや想うて、なんもせんかった癖に、勝手に裏切られた気分になって、ずっこいわ、自分……っ」
便箋と空き箱を膝に置いたまま、睦は鞄に付けた黒猫のストラップを握り締める。
実家の両親のことも、ただ逃げていただけ。そう気付いてしまった。
悲劇のヒロインぶって逃げ出して、ただぶつかり合うことを避けていただけ。
「……もう、逃げたくない。認めたい、認めさせたい」
自分のことも、彼のことも、両親のことも、何もかも。
期待するだけの自分に別れを告げる。
それが、彼女が見付けた迷子の感傷。
「必要なんやて、認めさせたる……っ!」
彼女の決意は固く、空き箱を静かに震わせた。
●弱者の支えとなって
堂々とした風格を纏うダニエル・クラプトン(
jb8412)と、何所かそわそわと落ち着かない様子のキョウコ。
「私の様な老いぼれに外面を良くしようとする必要はないのだから」
「……ウン」
面と向かって話せ。そう言われると、逆に構えてしまう。
けれど、ダニエルの話を聞く内に、徐々にその緊張は解れて行った。
――彼には愛した家族がいた。
妻と息子の三人家族、独りで生きるのとは違い、家族を持つということは実に大変なものだと後から判ったという。勿論、その分興味深い日々であり、掛け替えのない生だったのも事実。
妻は天寿を全うし、息子は病で亡くなった。
「最早過ぎ去った事、後悔は当の昔に置いてきた。ただ一言だけ、息子には聞いておきたい事があったのだ」
「それって?」
「私は良き父親だったろうか、とな」
それを聞いたキョウコは暫し黙し、その沈黙を裂くようにダニエルは言った。
「さて、手短に済ませたのだ、時間はまだあるだろう。次はキョウコ殿が私に話をしてくれないか?」
「え?」
「今回の試みは実に面白いが、昨日今日で思い付いたわけでもなかろう。己の心内に積もったものがなければ、な。――キョウコ殿にも話したい事があるのではないかね」
思わぬ問い掛けにキョウコは目を丸くし、口許に手を宛てるとまた暫く黙り込む。
その沈黙を急かすでもなく、ただ穏やかな様子で見詰めるダニエルに、キョウコは頬を綻ばせて笑った。
「少しは、在るかな。過去のことは本当に引きずってない、そりゃあ偶にはホームシックになることも有るけど、そういうのって、依頼や友達との会話で吹っ飛んじゃうんだ。だけど、依頼のこととか――……そうだな、歯痒くて仕方が無くなったりすることは在るよ。本当の人助けって……救済って何だろう、とか。でも、未だ答えは出ないし、出さない」
その言葉には些か迷いが在った。未だ決め兼ねている想い。
「そうか。……迷いもまた人生を豊かにする。迷い過ぎては体に毒だがな」
「うん。だから、もうちょっと迷おうと思う。――それからさ、おじさまは良いお父さんだったと思う。勿論証拠はないけど、根拠は有るよ。私らみたいな若者を、こうやって気遣ってくれること、とかね」
ダニエルはその言葉に目を細めて僅かに笑う。
罪滅ぼしでも何でもない。ただ、己が矜持、『ノブレス・オブリージュ』に従うのみ。
弱き者に手を伸ばし、救いの手になればこそ。
「感謝する。後は、要らん世話焼きだがウヅキ殿と今後も親しくな。私から見ると如何せんキョウコ殿よりウヅキ殿の方が心配だ」
「心配?」
「……あぁ、何に心配しているか云ってなかったな。今度会う時は彼氏の一人でも紹介してくれと伝えておいてくれ。達観している気ではいかんぞ? とな」
ダニエルの茶目っ気たっぷりの台詞に、思わず吹き出すキョウコ。
「そこそこ! そういう所もお父さんみたいだし、良いお父さんだよ、おじさまはさ」
笑うキョウコに、飄々と構えるダニエル。
二人は語り合いながら、ウヅキの許へ向かった。
●迷子の感傷、見付かった?
こうして、『第一回』感傷を打ち明ける会、は終了した。
――それぞれが抱く想いや感傷。ある者は発露させ、ある者は披瀝し、ある者は意志として固め、ある者は省みた。
それが少しでも誰かの助けになれば良いとキョウコとウヅキは共に願い、そうして、再び教室の扉に鍵を掛けた。
また、次の機会に誰かの想いの逃げ場所を作ることが出来れば良いと、願いながら。