●恋にドキドキ
「……恋するのはいいことらしいですから、何も言いませんが、仕事はしてくださいよ……同じ風紀を取り締まる人間として、苦言の一つも言いたくなりますね……」
やれやれと溜息を吐きながら、イアン・J・アルビス(
ja0084)は今回の一件を思う。
恋にメロメロになってしまった所為で、依頼として正気を取り戻させる仕事を請け負うに至った今日。どうしてこんな事になってしまったのかと、イアンは頭を痛めていた。
「あれが……恋? 恋というより、心の病に掛かった人に見える気がするの」
遠巻きに様子を見る若菜 白兎(
ja2109)はかなり的確な言葉を口にする。
見た目クールビューティーな紫香楽智絵なのだが、言動や行動を観察するだけで異常事態だということが解る。もうすぐ冬だと言うのに、頭の中が春なのだ。口元をだらしなくにやけさせながらスキップする元鉄の女。あれはもう駄目だ。
あるいは恋には、他の全てを無視してでも突っ走ってしまう魅力があるのかと考えるが……それは実際に堕ちてみないと解らない境地だ。職務を無視するほどの力があるのかどうか、疑問に思いながら作戦を遂行するために行動を開始する。久遠 冴弥(
jb0754)は蕩けた鉄の観察を止めて動き出す。
(恋の病、とはよく言ったものですね。病のように時がたてば治癒されるものであればなおいいのですが……重症のようですし。馬に蹴られないように気をつけつつ、手を尽くしましょうか。作戦は色々ありますがまずは……)
今回の作戦。それは紫香楽智絵を元の真面目馬鹿一代に戻す……とまでは行かなくとも、少なくても風紀委員の仕事に差し支えが無いレベルまで正気を取り戻させる事にある。願わくば、彼女の成績を元に戻すの事も仕事の一部。どこまで恋に恋しているのか解らないが、どうにかしなくては。
そんな訳で、まずは彼女の友人、そして彼氏である猿凱門和真と接触するべく撃退士一同は動いていた――。
「最近の智絵がそのような……? いや、しかし、ようやくあの子は応えてくれたんだ。彼女が元に戻るということは、また以前の取り付く島も無いような智絵になるという事にならないか……?」
楊 玲花(
ja0249)、雀原 麦子(
ja1553)、鳳 静矢(
ja3856)、久遠 冴弥は、ひとまず彼氏から見た智絵の事と、最近の智絵の溶解っぷりを報告していた。どうやら、身近でイチャイチャしすぎて気付いて無かったようで、むぅと唸りながら難しい顔をする和真。
眉根を寄せて真剣な顔付き――ただ、こうして見るとよく解る。確かにこの兄さん、かなりの美男子であった。
(なるほど、米ちゃんの写真でも解ってたけど、改めて見ると確かにイケメンだね。個人的にはもうちょっと筋肉とかヒゲとか欲しいところだけど……)
(伊達に真面目一筋だった女性を変貌させた訳では無いという事ですね……わたしも恋をすれば変われたりするのでしょうか……?)
(しかし、紫香楽先輩の様子を他人から聞かされてようやく気がつくとか、猿凱門先輩も実は随分溶けているのでは……? いえ、交渉の余地があるだけまともなのですけど……)
ひそひそと小声で話し合う女性陣。目の前の猿凱門和真は事前に聞いた情報通り、特に遊び人と言う様子は無い。真面目に口説いて、その結果ああなっただけなのだろう。苦労して鉄の城を陥落させただけあって、撃退士達の言葉には、あまり乗り気ではない。
「だがこのままではその内、周囲の彼女への信用が失われる事になる。それは彼氏である猿凱門さんも本意ではないだろう? 折角親も公認なのだから、公私の分別はきちんとするべきだ」
「む……それは確かに」
静矢の言葉に、しぶしぶだが頷く和真。
「……確かに和真さんとお付き合いして、智絵さんがお幸せなのは素敵なことだと思います。 ですけど、だからといって勉学などを疎かにして良い理由にはなりません。和真さんが好きになられた智絵さんというのはそんな無責任なことを平気でなさる方ではなかったのでしょう? たぶん今は初めての恋に舞い上がっているだけだと思いますけど、このままでは智絵さんの為にならないと思います。ですから、和真さんの口からそれとなく注意を促して貰えないでしょうか?」
続く玲花の言葉にも、むむむと唸る和真。
それにしても、どれだけこの男は自分の彼女にメロメロなのか。馬鹿ップル上等のようだし。
(……恋は人を変えると言いますけど、ここまで極端だとちょっと考えものですね。というよりもですね。彼氏さんがここまでということは、問題の彼女はどれだけ溶けているのですか?)
(それについては白兎ちゃんが様子を見て匙を投げ掛けてたような……まあそれはさて置き、準備しよう。着物とか着ないといけないし……皆にも着せてあげるよー。着付けとかちょっと楽しみだし♪)
玲花と麦子は再び小声で話し合い、この後の――茶の準備に移る。
(じゃあ私は……ブラックパレード先輩とリンハルト先輩の手伝いかな。上手く誘導させないと)
冴弥もまた今後の予定を思い返し……猿凱門和真に近寄る。
恋にメロメロなカップルの正気を取り戻すため――馬に蹴られないように、撃退士達の本格的な活動が開始された。
●ちんぴら
「ああ、キミは世界一美しいよ……太陽も、月も、瞬く星々も……キミの前では恥らって隠れてしまうんじゃないかな?」
「そんなことないですよぉ……そんなこと言われたら、私の方が隠れちゃますぅ……」
「ふふ、それは困ったね。キミに隠れられたら僕のこの情熱は暴走してしまう。ただでさえ抑えが効かないのに……」
「そんなぁ……ふふふ……」
ジェラルド&ブラックパレード(
ja9284)とシャルロッテ・W・リンハルト(
jb0683)が、何かイチャイチャしながらバカップルの前に現れた。
場所は猿凱門和真に頼んだ茶の席へ向かう道中。街中で突如現れたこの即席馬鹿ップルは、甘ったるい空気をとめどなく散布する。
物陰からその様子を見守る数名の撃退士達。普段の様子を客観視すると、人は羞恥を覚えるものだ。それもあんな馬鹿っプルぶりをまじまじと見せ付けられたら、それはもう正気ではいられまい。
普段のあんた達はあんな感じなんだぞ――そう思って、紫香楽&猿凱門ペアに視線を向けると。
あっちもあっちで馬鹿ップルだった。
「ねぇ和真さん……あの二人見てたら、プロポーズしてくれた和真さんの台詞思い出しちゃった……もう一度言ってくれないかなぁ……」
「ああ、何度でも言ってあげるよ……『僕の家は世間では名家と言われてるようだけど、キミは何も気にする必要は無い。キミはただ、身一つでボクの元に来てくれればそれでいい』……」
「きゃーきゃー♪」
(……駄目だあの二人。早く何とかしないと……)
誰が、ではない。見ていた全員がそう思った。客観的に見せても駄目だ。もっとこう別側面から攻めなければ、あの蕩けきった鉄を再び強固にはできない。
べったりくっ付いていたジェラルドとシャルロッテの二人も、流石に素に戻る。
(どうしようかシャルロッテ……むしろ悪化しているような気がするね)
(どうにも出来ません。カップル作戦は失敗だったという事です……第二案に移りましょう)
そこで第二作戦に移行する。裏方で冴弥が走って呼びに行く。まず用意されたのは、幼き少女。
「……助けておねえちゃん……お腹、お腹痛くなっちゃたの……」
蹲る女子が、白兎が智絵に上目使いで助けを求める。いたうけな少女が腹痛を訴え、智絵本来の生真面目な風紀委員気質を目覚めさせる作戦だ。これについては情報収集を行ったイアンからも太鼓判を押された。
(彼女はこういった事に関して目を決して逸らさない人のようですからね。弱きを助け、強きを挫く。これを地で行っていた彼女ならきっと……)
様子を伺いながら事の推移を見守るイアン。そしてその予想を裏切る事無く、智絵は白兎の前で身を屈めて心配そうに声を掛けていた。
「どうしたのお嬢ちゃん? 大丈夫? お母さんやお父さんは?」
先程までの溶解っぷりはどこへ消えたのか。真摯に少女の具合を心配する智絵。
これはいける。ならば更に作戦を進める。これなら上手い事案が複合できそうだ――。
「おいこらねーちゃん。そこのガキ、こっちに渡してもらえねぇかな」
と、突然学ラン纏ってサラシ巻いてサングラス掛けた黒髪長髪の女子が、何人かの不良を従えて智絵達の前に姿を現した。その一団の中には不良に扮した静矢の姿も見える。これぞ『不良に女性を襲わせて風紀委員の力を覚醒させる』作戦! ただ一つ、不確定事項があるのなら最初に声を掛けた学ランサラシの黒髪女。あれ、まさか米屋の娘ではあるまいな。声とか身長がそっくりなのだが。
「……何だ貴様等は。こんな幼子に何をするつもりだ……?」
最早智絵の瞳は、猛禽の類にまで変貌を遂げている。今、彼女の瞳は鉄の女だった頃の、風紀委員としての智絵に戻っている。
作戦は更に成功――だが、このままでは街中で乱闘が発生する。
「ああぁん? 良いガンくれてくれんじゃねぇかよ、おお? 意気が良いじゃねぇか、よし野郎共相手になっ――けぱっ!?」
「ば、馬鹿野郎! こいつは風紀委員の紫香楽だぞ! 退くんだよここは!」
喧嘩上等でメンチきり始めた学ラン女に当身食らわせた静矢は不良仲間に指示を下し、一目散に退散していく。その様子を――止めとばかり白兎が。
「おねえちゃん……格好良いー……ありがとー♪」
「む? そ、そうか? おねえちゃん、格好良かったか?」
「ああ、凛々しい智絵は素敵だったよ。そんな智絵も大好きだ」
白兎と和真の両方からの賛辞。それを受けて真っ赤な顔で照れる智絵。
道中の作戦はこれで大成功。あとは茶の席で仕上げ――なのだが。その裏で。
「誰が本気でやれと言ったかぁ!」
すぱこーんとハリセンで、正座中の学ラン黒髪女を説教する静矢の姿があったそうな。
●茶の席
茶道の作法は流派によって細かな点は異なる。更に座る場所、つまり席順から作法は始まるのだ。全てを熟知し、完璧にこなすまで数年の時が必要とされる世界。
この茶席についた時点で空気は変わる。この場で浮ついた行動は自然と取れなくなる。
ただただ落ち着いた心で茶を楽しむ――先程の不良撃退の空気も続いて、智絵の様子は落ち着いた淑女然としたものだった。
(堅苦しい訳じゃないけど……自然と黙っちゃうわね……でも心配するまでもなく凄く慣れた様子。茶道の家元の妻になる気概は最初から出来ていたのかしら……)
着物を着込み、外見上は落ち着いた様子で同席している麦子。ちらりと横目で下座、末客に位置している智絵は落ち着いた様子で亭主の――猿凱門和真の父親の進行を手助けしている。正客に座る和真とのやり取りも考えて、既に阿吽の呼吸を見せ付けていた。
(……というよりも、どうして私達がお客さんになっているのでしょうか……最初の打ち合わせと少し異なる気がするのですが……)
麦子の隣で、同じく着物姿の玲花がそれこそ本気で結構なお手前を頂きながら、不思議がっていた。最初の予定では、智絵に茶道の作法を見せ付けて、その緊張感で正気に戻すという策だったのだが……。
「……父上。今日は私は、彼女達に教わったのです。智絵を甘やかす事と幸せにする事は別なのだと……そして、私が最初に好きになった智絵の姿を」
語り始める和真の脳裏には、今日の出来事が思い返されているのだろう。
恋人の近況を知らなかった知ろうともしなかった自分。幼子を助ける姿、凛々しいあの姿。今の智絵も好きだけれど……一番最初に好きになった姿は別にあったと。
「お養父様。私も思い知らされました。こうしてお養父様の前で茶席に参加し、尚の事思い知らされました。私はしばらく周囲に目を向けていなかったのだと……和真さんとの事で頭が一杯になり、全てを疎かにしていたことを」
智絵もまた、深々と頭を下げていた。忘れていた鉄の心。風紀の気持ち。恋に恋する気持ちは消えないけれど、それに夢中になって周りを疎かにする理由は無いのだと。
「……うむ。実は、最近のお前達の様子を問題視する声が我が家でも出ていたのだがな……杞憂だったようだな。和真、自ら過ちに気付きそれを諌められる女性を妻に迎えられるの男は果報と言うより他に無い。これからも公私の分別を着けて、清い交際を行うのだぞ」
頷く父親に、静かに頭を下げる智絵と和真。その様子を見て、撃退士達はほっと胸を撫で下ろす。
どうやら作戦は上手くいったようだ。この様子なら何も問題はあるまい――。
「おお、それから皆さんも。聞く所によれば撃退士の方々だそうな。まだ歳若いその身で、人の為に戦う姿はまさに天晴れ。今回は息子と未来の嫁の過ちを指摘してくださったことに感謝する……今日はゆっくりと楽しんでいってくだされ」
そうして、撃退士達は美味しいのだが緊張感漂う茶席を堪能することになった。
(ま、待って! 私今重傷の身なんだから長時間正座とか厳しい……あああ、色々用意されててすぐに終りそうな気配が無いんだけどー!? へるぷみー!)
とあるビール好きの撃退士の悲鳴が心中で。
お菓子は美味しいし、抹茶の味も極上としか言えないのだが……慣れない作法に、むしろ天魔との戦いの方が楽だとか何とか思ったとか……。
●無事終って
「ぬは〜、あ、あ、足がシビれた〜……重傷の身での茶席があんなに辛いとは〜……もう帰ってビール飲んで寝るの〜、疲れたの〜」
なんか微妙に幼児逆行した麦子が泣き言言いながら、帰路についていた。天魔との戦いで負傷した身の麦子。そんな彼女が礼儀正しい茶席に参加するのはいささか苦しかったようである。
「けど、上手く行って良かったですね。あの方は自分の役割をしっかり務め、彼に対する気持ちを忘れずにいれば きっと良いお嫁さんになりますよ」
茶席での智絵の様子を思い返してシャルロッテは微笑を浮かべる。同じ言葉を去り際に伝えたが、その時の彼女も、同じ笑顔だった。元々鉄の女と言われるくらい礼節には厳しい人だったのだ。茶道の家元の妻としての役割も、きちんと勤まるだろう。
「ああしてみると、魅力的な芯のある女性だったよね……彼が口説いたのも理解できるなぁ。ボクが先に会ってたら口説いてたかもね」
「僕には理解できませんが……それが恋心なのでしょうか? 魅力的な女性を一心に求める……それだけの良さが恋愛にあるのでしょうか……」
ジェラルドとイアン。それぞれが異なる想いを抱く。
ただ、思い出されるものは同じだ。幸せそうな二人の恋人の姿。礼節を思い出した二人には幸せな未来以外無いだろう。もう、恋に溺れた姿は無いのだから――。