●広かるカビ。戦慄の腐敗空間
水中眼鏡、レインコート、長靴、ゴム手袋、マスク……完全武装形態でスーパーに入り込む十二人の集団が在った。ウイーンと、自動ドアが開き彼等は戦地に足を踏み入れる。隊列を組み、一歩も退かぬ決意を背中に宿す姿は、まさに歴戦の勇士。
マスク越しに匂いにも負けず。ジメジメした湿気にも負けず。一同は進む。
――いやまあ、それはそれとして、視界に映るスーパー内部は、かなり精神衛生上によろしくない光景ではあるのだが。
「うわぁ……」
桝本 侑吾(
ja8758)は、ただその一言のみを呟いた。
他にも言いたい事、思った事は山のようにある。だが、それはそれとして、出てくる言葉はそれしか無いのだ。人間、あまりにも想像を絶するカビ空間を見るとこうなってしまうようである。
「梅雨に大量のカビ発生だなんて洒落になりません……。ご近所へ被害が及ぶ前に、根こそぎ除去してしてしまいましょう」
「いえ……既に周辺住民の方々は迷惑千万疲労困憊といった有様でしたが……」
「……そうなのですか?」
「……そうなのです」
打倒カビに燃えていた牧野 穂鳥(
ja2029)の顔を引き攣らせる、御堂・玲獅(
ja0388)の回答。
玲獅が事前に周辺住民に避難を呼びかけた所、すっかり近所の奥様方はやられた顔をしていたらしい。まあ近場にこんなカビ空間が出来たら、そうなるのも無理は無いが。
「天魔が最後の力を振り絞った結果がこれって……恐ろしいと表現するべきなのか、それともしょうもないと言うべきなのか……難しいところだね」
並木坂・マオ(
ja0317)が顎に手を当てて、むぅと唸りながら真剣な顔付き。
だがしかし、防護マスクで口元を完全防御し過ぎた所為で、周囲には「しゅこーしゅこー」としか聴こえていない。なんとも締まらない――シリアスな空気にさせないカビ。厄介極まりないのである。
「うー……ぜったい、ぜったいゆるさないの! たべものをそまつにするのは、ばんしにあたいするの! ディアボロは、じごくで、もっぺんしねばいいのよー……それじゃあ、たべものをとむらいにいくの! みんな、ごーなの!」
水尾 チコリ(
ja0627)がおーと手を上げて、履いた長靴をガッポガッポさせながら、カビ除去に向かう。向かう先はお野菜コーナー。あちらの混沌具合は見るも無惨な状態だが、チコリの熱意はそう簡単に消えはしない。むしろ燃え盛るばかりである。
「それにしても厄介なことになったもんだ……でもまぁ死者が出るような事態にならなかっただけマシであるかね? ……いや、俺達が最初の犠牲者になる可能性も……」
にやりと笑みを浮かべながら麻生 遊夜(
ja1838)も向かう。ただし不敵な笑みを浮かべつつも、顔に垂れるのは紛れも無い冷や汗。天魔達との戦いに勝るとも劣らない緊張感が、このスーパーにはある。
十二人の戦士達は武器(スコップとかトングとか)を構えて死地に向かう。
成すべき事は一つだけ。天魔退治の後始末である――。
●被害はどこまでも
インスタント食品にまでカビが生えるとは、一体全体どういうことだ。
理不尽とも言える世の無情をひしひしと感じながら、燐(
ja4685)はトングでカビ食品を掴み、ゴミ袋内に投入していく。無表情で冷静にカビ処理しているように見受けられるが――それは否。彼女は現在、かなりいっぱいいっぱいな状態である。
「お掃除も、立派な……撃退士の、お仕事。お掃除も、立派な……撃退士の、お仕事。お掃除も、立派な……撃退士の、お仕事。頑張る。頑張る。頑張る。頑張る……ッ!」
そもそもインスタント食品にカビが生えている事が異常なのだ。撃退士とはいえ小等部三年生のいたいけな少女がこの暗黒空間で正気を保てる筈もなし。ぶつぶつ呟きながら作業は続く。
高峰 彩香(
ja5000)も似たような状態だ。暑いの覚悟の上でしっかり着込み、お惣菜の山をスコップでざっくざっくとゴミ袋に投入している。既に汗だくの状態だが、今コートを脱ぐのは自殺行為。この腐臭に素肌を晒す事になる。大雑把で細かい事は気にしない豪快な彼女だが――だからといってカビにの臭いを浴びて平気な顔できる女の子では無いのだ。
「見た目なんて気にしていられない。暑さなんてなんてこと無い。臭いが移るのは絶対に嫌だし……ああ、でもこのマスクでどこまで臭いを防げるかな……。お惣菜でこの惨状なんだから、他の場所、お肉とか魚のコーナーは……」
防護マスク越しに視線を向ける。姿は見えない。けれど視線の向こうには勇者達が居る。
精肉と魚肉を退治するために向かった武士(もののふ)達が――。
「――逝くぞ弟よ。希望とは、絶望の向こう側にある」
「いや、兄ちゃん。ちょっと待とう。とりあえず首根っこを離そう。そしてボケとツッコミの役割を違えちゃ駄目だぞ? そういう台詞は俺の役目じゃ?」
「何を言っている弟よ。まずは俺達二人が活路を見出さねば。後ろに控える女性陣の為にも……いざ逝かん。私達兄弟の本気を、いまこそ見せる時だ」
「や、そんなキリッとしたドヤ顔見せられても……って兄ちゃん? あんた実は結構テンパってないか? 俺がボケる前に、このカビを目の当たりにして混乱してるんだろ?」
カーディス=キャットフィールド(
ja7927)とcicero・catfield(
ja6953)。キャットフィールド兄弟が蔓延るカビ空間の目前で、なにやらボケツッコミを行っていた。
まあ、無理も無い。致し方ない。こんなもん見せられたら正気がガリガリ削られていく。
もう、原型を欠片も留めていない精肉と魚介コーナー。カビに埋もれ、腐敗し、悪臭を放ち、すわ新手の天魔かと思ってしまう奇怪な空間。そう。あたかもこの区画そのものがディアボロであるかのような!
「いやぁ、ひどいな……でも怯んではいられないぞ! 大胆にシャベル使って一気に片付けるぞ――おおうっふ……」
天河アシュリ(
ja0397)がスコップで掬った『元』肉を見て、露骨に顔を歪める。
デロっとしている。ヌメっとしている。マスク越しだというのに、酷い匂いが鼻に届く。
あえて表現するなら――まろやかなヘドロ。
「これはお肉じゃない、これはお魚じゃない、これはお肉じゃない、これはお魚じゃない……これはお肉でもお魚でもないのーー!! 違うものなのーーーー!!」
一心不乱に藤咲千尋(
ja8564)が元が食材だった『何か』をスコップで掬い、ゴミ袋の中に投入していく。これを肉や魚だと認めてしまっては精神が壊れる。今後、肉や魚が食べられなくなる事請け合いだ。
ディアボロ許すまじ、と元凶の天魔に怒りを燃やし、レインコートに長靴にマスク姿と言う、到底撃退士には見えぬ怪しげな一団の、命を賭けた戦いが続く。
果たして終わりは何時になるか。
それは、誰にも解らない。
●それでもお菓子とか冷凍食品あたりは平和な方
テキパキと動きながら、玲獅がゴミ袋の口をキュッと締める。まかり間違っても運搬中に中身をぶちまける訳にはいかない。キツクキツク締めて、災害を辺りに撒き散らさないようにしないと。
「それでは外に運んできますね。残りもよろしくお願いします」
「しゅこーしゅこー。しゅここー(了解。いってらっしゃーい)」
カートを押して、ガラガラとゴミ袋を運搬する玲獅。そんな彼女を見送りながら、マオは引き続きカビ食品をゴミ袋に叩き込んでいく。幸いにもお菓子や冷凍食品などの袋は、ドロドロのデロデロになっていない。何故か袋にまでカビが付着してるものの、袋は袋のままだ。肉や魚のように、別の物体に変貌を遂げている訳ではなかった。
「向こうに行った皆はチャレンジャーだなぁ……ああっといけないいけない。はやくここも片付けないと」
思わず生暖かい目で精肉&魚介類コーナーを見たマオだが、すぐに作業に戻る。
野菜コーナーを担当しているチコリの作業も順調だ。極力匂いを嗅がないように、鼻ではなく口で呼吸しながら、ポイポイポイポイ野菜だった何かを捨てていく。
ただ、その作業の最中。ふと、チコリの手が止まる。
「…………カビって、たべれないかなあ」
待ってー! チコちゃん、待って待ってー!!
思わず周囲の仲間達が、自分達の作業も止めてチコリを止めに走った。まさに英断だろう。あと少しでチコリの生命力が、マイナス200くらいされていたに違いあるまいて。
やはり長時間このカビ空間で作業する事は危険だ。チコリのように、狂気の淵に足を踏み入れる者が出てきてしまう。
そしてスーパーの外の水場では、遊夜がパンパンに膨らんだ缶詰を手に思い悩んでいた。
「あー、中身入ったままの缶ってそのまま捨てちゃ不味いよな……いやぁ……気分は爆弾処理班って感じでありますな」
ケラケラと空笑いしながら、袋を被せて、そっと缶詰を開ける。膨張し切っている事は見た目で十分分かる。どんな災いがこの缶の中に詰まっているのかも。ああ、果たしてどうなる。このパンパンに膨らんだコーンスープの缶詰を開けたら、どんな災厄が飛び出してくるのか。
んで――ブシュウ! と凄い音。
「ギャアアアアアア! 目がァァァァァァァ!? アッーーーー!!」
合掌。
そんなこんなしている間にも、作業は続く。お菓子や冷凍食品、インスタント食品など袋に密閉されたものは粗方片付いた。問題は、『元』生野菜と精肉と魚介類の、層々たる面子である。
どれもこれも暴れん坊の皆様方だ。気を抜くと一瞬でやられかねない。
「ヒャッハー! 焼くぜ焼くぜ、消毒だー!!」
「あら、いい具合に効いていますね。やはり汚物は火で消毒するのが効果的なようです」
袋に詰めた危険物(生物)を火炎放射器で焼いていく侑吾を見て、穂鳥が感心したように頷いている。
どうやらアウルの焔は、ディアボロの力で謎の物質と化したカビに効果覿面のようであった。
めらめらぼうぼうと綺麗に焼かれていくカビの塊。この調子ならカビの抹消は時間の問題である。
「残る強敵を三つ……さあ行きますよ。最後の戦いです」
頭巾用バンダナ・マスク・エプロン・ゴム手袋・長靴・水中ゴーグル・トング・箒・雑巾という完全殲滅形態で最後の決戦に赴く穂鳥。ずんずんと恐怖の一角へ向かって歩みを進めていく。
残る敵は後僅か。頑張れ撃退士達!
●ラストバトル
「おう、兄ちゃん……こうしてカビに囲まれていると懐かしくなるな……思い出すかい? 俺達が初めてカビに囲まれたあの日の事を……」
「弟よ……戻って来い……あること無いこと言うのはよせ……あの時はカビに囲まれた訳じゃない。俺達がカビを囲ったんだ……」
虚ろな目でカビをゴミ袋に入れながら、キャットフィールド兄弟がありもしない過去話に花を咲かせていた。どうやら、二人ともすっかりやられてしまったらしい。記憶が混濁しているようだ。
「ダイジョブカー! 傷はあさく……ないぞ。ああ、二人とも正気をすっかり失ってしまったぞ……」
素早く駆け寄ってキャットフィールド兄弟の容態を確認したアシュリが、天を仰いで涙を流す。もう二人とも手遅れだ。外傷は無いが、精神に多大なダメージを負っている。レインコートとマスク姿でウフフウフフと笑い合う兄弟。アシュリは悟った。この二人はもう駄目だ、と。
「あ、遅かった……でも、先輩達の……犠牲は、無駄にしない……!」
担当箇所の駆除を終えて、駆けつけてきた燐は、再起不能となった二人を見て拳を強く握り締める。
生きる屍と化したあの兄弟に報いるには、最後までやり遂げるしかない。全てのカビを除去して、更にその後、洗剤で綺麗綺麗にしなくては!
「しょ、消臭剤ー! 消臭剤ー! うわー! 消臭剤が焼け石に水にしかなってないよー! ……うう、あとで服は焼却処分かなぁ」
彩香は目にまで染みる悪臭に涙しながら、カビ食材を袋の中に。大分、数も減ってきているが、敵はまだまだ意気軒昂。デロデロでドロドロでもっさもさだ。これが肉と魚の成れの果てだなんて……哀しすぎて、慟哭っものだ。
「ふがが……ふがががふが……!(許さない……絶対に許さないから……!)」
洗濯ばさみまで使って鼻を抑えて、千尋がカビを処分していく。ふがふがとしか聴こえないが、彼女の怒りは既にフルパワーだ。今ならディアボロやサーバントが群れを成して襲ってきても、真っ向から撃ち払える程に。
他の仲間達も次々に合流していく。傷付いた仲間を支え、手を取り合い、励まし合い、時には「バカヤロー! 諦めるんじゃねぇー!」と頬を叩いて叱咤激励して。
減っていく。カビが無くなっていく。
――このカビを撲滅するまで、撃退士達の歩みは止まらない――――。
「カビさえなければ、チコがおいしくたべてあげたのに……」
チコが泣く。助けられなかった食材の骸を見て、悲しみを背負い。
「我に断てぬ物無し! 我に断てぬカビ無し!」
遊夜が断罪する。カビに塗れたこの、天魔の悪意を。物理的に。
「例え気休めでも……皆さん、最後まで頑張りましょう」
穂鳥がレジスト・ポイズンを使う。皆の耐性を、少しでも上げるために。
「……娑婆の空気が……吸いたい……」
侑吾がスーパーの外に憧憬の眼差しを向ける。きっと外に出れば救われる。
「しっかりー! しっかりするんだぞー!!」
アシュリが、そんな侑吾の頬を張る。逝くにはまだ早いと、仲間を現世に留める為に。
「あ、それじゃゴミ、外まで運んできますね」
何気に最後まで冷静に、ゴミ袋を運搬する玲獅。これが特殊抵抗の値の差なのか。
「しゅこー、しゅこー(それにしても喋りにくいよね、これ)」
「ふが! ふががふが!(同感です! でも外すと臭いでやられますからね!)」
防護マスクと洗濯ばさみ。共に喋りにくい者同士、マオと千尋が意思疎通。何で通じるのかはよく解らない。
「あとは……アフターケア。……そこまでが……お仕事」
ふらふらになりつつ、燐は最後の床掃除。最後まで健気な女の子である。
「薬撒いて、再発しないようにしないとね……うわぁ、もう、服の臭いが酷いよー……」
半べそ掻きながら薬を散布する彩香。誠にご苦労様である。
「なあ兄ちゃん……星が、星が見えるんだよ……」
「弟よ奇遇だな。俺も……空の彼方に、希望の星が……」
そしてキャットフィールド兄弟は、いつ現世に帰ってくるのだろうか――。
……その日の夕暮れ、彼等はスーパーから出てきた。
彼等は打ち倒したのだ。周辺住民が(カビ塗れの撃退士達を迂回しながら)スーパーの中に入ると、そこは洗剤やら漂白剤を使用して、綺麗に清掃された内装が視界に入る。
ありがとう撃退士達――否、ありがとう撃退戦隊!
君達の活躍は忘れない。周辺住民は去っていく彼等の背中を見つめて、ただ純粋に想った。
――とりあえず、早く風呂入りなよ――と。