●魔を切り裂く者達
澄み切った空の下、ひゅるひゅると風が吹く。
それはまるで、今なお救いを求め続ける人々の、悲痛な叫びにも感じられた。
冥魔の軍勢が進軍する。
風より冷たい絶望を孕んで。想いの残滓を嘲笑うかのように、カタカタと音を響かせながら。
喜びも哀しみも消えた街に。
憎しみも愛しさも、救うことさえ奪われ続けた街の中に。
しかし今、撃退士は辿りついたのだ。
撃退士達の闘志は、吹き荒ぶ風に吹き消されることはない。
解放を望む人々の願いに背を支えられ、熱き炎はさらに勢いを増し燃えていく。
●交差点・東
撃退士の前に立つのは、錆びた鎧を身に纏ったディアボロ・スカルファイターの群れ。
深淵の闇を湛えた二つの眼窩に、不気味な赤い光が揺らめいている。
「最終防衛ラインは交差点から20メートル。それ以上進ませるな」
ざっと見る限り、ファイターが持つ得物は剣や斧といった近接武器ばかり。彼我の状況を確認した小田切ルビィ(ja0841)が言い放つ。
「どうしよう。こんな所で足止めされるなんて……」
自身のアウルを刃に顕した神凪 宗(ja0435)の腕にしがみ付き、わざとらしく動揺したフリをする弥生 景(ja0078)。嘆息と共に吐き出した言葉が聞こえたのか、後方に控えるヴァニタス・東海林はにんまりと唇を歪めた。
初見の者でも容易に察することのできる、高慢な性格のヴァニタスを、フレイヤ(ja0715)は暗い瞳で彼女を見据えていた。
(フレイヤ様を、黄昏の魔女を、人間様を舐めんじゃないわよ!)
「腕の見せどころでしょうかね」
敵を押しとどめることなら専売特許――神性の騎士たるイアン・J・アルビス(ja0084)は、ブラストクレイモアを構え持つ。
「警戒すべきは、彼女の能力だろうな」
ロドルフォ・リウッツィ(jb5648)は過去に東海林と遭遇したことがある。たった一度の交戦で、彼女の指揮下に入ったディアボロの厄介さを理解していた。
この人数で相手にするのは、荷が勝ちすぎる。
「なら、分断してしまいましょう」
事もなげに呟いたのは満月 美華(jb6831)だった。
指揮系統を潰してしまえば、兵士は簡単に瓦解するだろう。そして、他方へ回った仲間が援軍に来てくれるまでの間、時間を稼ぐのだ。
「俺が東海林を抑えてみるよ」
危険と承知の上で名乗りを上げたロドルフォ。不敵な笑みを浮かべたルビィも横に並び立つ。
「やれやれ、仕方ないねぇ。援護は任せな」
「微力ながら、私も力添えをさせて頂きます」
アサニエル(jb5431)と織宮 歌乃(jb5789)――気高く美しき女性達の申し出は、男達にとって何よりの褒美だ。
「故郷を奪われた人の為に、出来る事はさせて貰うわ」
これ以上群馬の地を蹂躙させないためにも、木嶋香里(jb7748)は闘いの決意を固めた。
誰一人欠けることなく、群れなす魔に冒された地から帰るために。そして、人々が群馬の地に帰るために。
「僕も、皆さんのお力になれる様、頑張りますね」
先の闘いで負傷した鑑夜 翠月(jb0681)は包帯姿が痛々しい。
「……さて、行こうか」
禍々しいまでに機械的な左義手とは裏腹に、ナハト・L・シュテルン(jb7129)が目指すは最柔の盾。
戦いに先駆けて召喚獣を呼び出した。防御を司る深海の竜・ストレイシオン。ナハト同様に闘うことを好まない温厚な性質であるが、召喚主の意思を継ぎ、忌まわしき存在を前に高く声を上げた。
●交差点・北
地響きを立てて迫りくる戦車の抑えに回ったのは、12人の撃退士達だ。
「逃がさない? 逃げるつもりなんか最初からないよ」
不気味な戦車の上から撃退士達を見下ろす異形のデビル・スコルピオに、神谷春樹(jb7335)は淡々とした口調で応えた。
「蠍男、めーっけ」
年相応の口調で指を差した白野 小梅(jb4012)の顔には、年齢には不相応の笑みが浮かんでいた。
(ふふん、ボクにぃ、あーんな事したんだからぁ、責任とってもらうんだもんねー!)
小梅は以前スコルピオと戦い、大きな傷を負っていた。彼女にとってこの戦いは復讐戦ともいえる。
「この前の借りは返させてもらいます!」
佐藤 としお(ja2489)も死闘の末に敗北してしまった戦車を前に、今度こそ勝利することを誓う。
仕留めていれば、存在しなかったはずの敵である。蓄積させたダメージはすでに回復しているだろうが、戦車が持つ獣頭の2つは、あの日としお達が潰した時のままだ。
(どこまでやれるか分らないけど、全力でいくよ!)
一度後ろを振り向いた滅炎 雷(ja4615)。交差点の向こうには、多くのディアボロを相手に奮闘している仲間達が見える。彼らの負担を減らすためにも、この場を耐え続けなければ。
「彼らの攻撃範囲は判りますか?」
少しでも有利な陣を敷くため、交戦経験のある仲間達から情報を得ようとするカタリナ(ja5119)。しかし彼女が望むほどに明確な答えは得られなかった。
「……スコルピオの魔法弾は、最低でも4メートル、なの」
直接その攻撃を受けた橋場 アトリアーナ(ja1403)でさえ、そう応えるのが限界だった。
詳しくデータを取ったわけではない。彼らが手の内を全て出し尽くしていたとは限らないのだから。
「とにかくヤらなきゃ始まらないよね」
守るべき主君はこの場にいないけれど。共に魔の敵を討ち滅ぼす志しを胸に秘め、ルドルフ・ストゥルルソン(ja0051)は鋼糸を手にする。
「よーっし! 行こうか!」
白虎 奏(jb1315)がストレイシオン『コロ』を召喚した。
深き海色の鱗を持つ竜の守護を受け、撃退士達の身体が青い光に包まれていく。
「さ〜って、竜戦車と遊んでこようか!」
嬉々として走り出したハウンド(jb4974)の口元に、八重歯と呼ぶには少々派手な犬歯が垣間見える。直刀を携えた鷺谷 明(ja0776)も、気だるげな笑みを浮かべて後に続いた。
●交差点・南
ボロボロのローブを纏った幽鬼が近づく。
杖を手にしていることから、彼らが魔術師の類であることは容易に予想できた。
『ゲロゲロゲロ、ゲロゲロゲロ』
『ゲコゲコ、ゲーコゲコッ』
スカルマジシャンを挟むように、片足で踏み潰せそうな大きさのカエルが群れを成し、今の季節にはそぐわない大合唱を響かせている。
いったい何匹いるのか? 十まで確認したのち、天海キッカ(jb5681)は数えることを止めた。
「挟まれちゃったかぁ。でも、わん達が力を合わせればなんくるないさ〜!!」
どんな状況でも決して諦めない。希望は手放さない。全力を尽くせば、結果は必ず付いてくるのだから。
「やれやれ、数で押されるってのは嫌な状況で御座るなぁ」
言葉とは裏腹に、虎綱・ガーフィールド(ja3547)の表情に絶望の色はない。白き狐の面を被り、死闘に備えた。
「――弱い処から突いて行くのは、兵法の基本よね?」
くすりと微笑む巫 聖羅(ja3916)。焔のように揺らめく深紅のオーラで身体を包み込む。
「……力の出し惜しみはなしですね。全力で当たらせて頂きます」
扇で口元を隠し、姉御肌の楊 玲花(ja0249)が目を細める。
もとより自分達の役割は陽動。少しでも長く敵を引き付け、少しでも早く殲滅することが目的なのだ。この程度の障害は予想の範囲内だ。
「大物はいませんが、任されたからには残さずに片付けましょう」
三対の翼を広げた黒井 明斗(jb0525)の姿は、人類の長き歴史において、常に弱き者たちを励まし導いた天の御使いを彷彿とさせる。
隣に寄り添った矢野 胡桃(ja2617)に気付いて顔を赤らめる。それも僅かな間だけで、すぐに背筋を伸ばした。
「三方でも、四方でも……抑えてみせるのだ!」
蒼い光を身に纏ったフラッペ・ブルーハワイ(ja0022)の手中に、スナイパーライフルが顕現した。
魔具を繋ぎ止めるための負荷が圧し掛かり、急激に体力を奪われる。一撃当たれば即、死――そんなギリギリな状況に自分を追い込みながらも、フラッペは冷静に狙いを定めた。
戦いの定石は先手必勝。相手の攻撃を受ける前に、全てを焼き尽くすのみ――
うちなー娘の心を揺さぶる和太鼓の音と共に、豪炎と化したアウルを解き放つキッカ。
それを皮きりに、珠真 緑(ja2428)、Erie Schwagerin(ja9642)、聖羅が次々とアウルを顕現させる。
織り重なるように炸裂する無数の炎、炎、炎……幅の広い路面が紅蓮に染まり、何匹ものカエルをポップコーンのように吹き飛ばしていく。
攻撃は、空からも降り注いだ。
「鋼鉄流星ヨーヨー★シャワー! 行けっ、ボクのヨーヨー達っ」
寒空におへそをチラ見せさせ、ポニーテールニンジャ・犬乃 さんぽ(ja1272)がビルの外壁を駆け抜ける。放たれたアウル製のヨーヨーは天頂で破裂し、地上の敵を捉えた。
玲花も逆側の外壁を掛け、立体的な攻撃を組み立てる。炎の中、放たれた八卦翔扇が鮮やかな弧を描いた。
見た目は殆ど人間と変わらないユウ(jb5639)だが、その背に負うのは闇の翼。艶のある黒髪を靡かせ、爆炎の中で蠢く小さな影を狙い、銃を撃ち放った。
「やった!」
さんぽが上げた歓喜の声は、すぐに落胆へと変わった。
薄れていく砂煙の中から現れたのは、攻撃などなかったかのように進み来るディアボロの姿。
『ゲロロロ、ゲロロロ、ゲロゲロゲロロ……ッ!』
「うわ……」
突然耳を劈いたハウリングに顔をしかめる緑。
耐えられないほどでは無いが、周囲を見渡せば他の共闘者達も皆似たような状況で。顕著に影響を受けてしまったクロエ・キャラハン(jb1839)やキッカは、脳を混ぜ返されるような激しい眩暈を感じ、顔面も蒼白だ。
「危ない、早く下がってください!」
警告を飛ばしたのは、後方に控えていたソーニャ(jb2649)。
状況を察した先制攻撃組が身を引くより先に、カエル達の後方に控えていたマジシャンが手を掲げた。杖の先に闇が凝縮し、弾ける。
その衝撃が届く距離は先刻の火球よりも遠く――手痛い反撃を受けた撃退士達に、さらなる共鳴の洗礼が浴びせられる。
●幽鬼の群れと死者の姫
攻撃の先陣を切ったのは香里だった。
ビイイィィ…………ン。
小気味よい弦音を響かせて、翡翠色のアウルを纏った矢が放たれる。それはまさに疾風のごとき勢いで、スカルファイターの眉間を寸分違わず射抜いた。
衝撃で大きく仰け反ったファイターは、カタカタと顎を揺らしながら崩れた体勢を整えた。
間髪を入れず、白と黒のコントラストを身に纏ったルビィが突出する。射線上に複数のファイターが重なった瞬間を見計らい、封砲を打ち放った。
直撃を受けた先頭のファイターの腕が吹き飛ぶ。しかし、ファイターは何食わぬ顔で自身の腕がぶら下がったままの剣を拾い上げ、進軍を続ける。
死の恐怖を持たないその様は、まさに幽鬼を彷彿とさせた。
「効率が悪い……」
火の蛇を解き放った後、宗は忌まわしげに舌を打った。
ギリギリまで引き付けたにも関わらず、火蛇に飲まれた敵はたったの2体。危険を承知で行使したニンジャヒーローも、東海林の指揮の前には無力に等しかった。
「――雑魚共に頼らなけりゃ、何も出来無いってか? 少しは自力で戦ってみな…ヴァニタスさんよ!」
仰ぎ見た視線の先にはヴァニタス・東海林の姿。少しでも集中を途切れさせようと、ルビィが挑発の言葉を投げかける。
「無駄よ。そんな見え透いた誘いに乗るとでも思っていて?」
東海林の嘲笑が響く。
彼女にとってディアボロは武器であり、身体の一部でもある。それは撃退士がアウルを纏い、魔具を振るうのと同じこと。
たった今ルビィが言った言葉を、東海林は“丸腰の相手でなければ太刀打ちできない”と言う意味に受け取っていた。
何処までも傲慢で身勝手な性格。
目を逸らすと気持ちが負けるような気がして、景はキッと東海林を睨み返した。
その虚勢でさえ、軽く振り払われてしまったけれど。
「来るぞ」
「うん、判ってる。頑張ろうね」
高い士気を保ったまま、2体のファイターが歩み寄る。景は宗と互いに背中を合わせ、これを迎え撃った。
ファイターは戦場に広く散らばっている。この状態では範囲魔法も効果が薄いため、撃退士達は否応なく接近戦を強いられる。
乱戦状態では仲間を巻き込まない彗星を落とすことも難しく、アサニエルは東海林本人へ牽制の一撃を放つ。
「護る為に強くなったんだ……引けないよ」
ナハトの指揮の下、ストレイシオンが雄叫びを上げる。発せられた稲妻を浴びたファイターが、全身を痙攣させてその場に崩れ落ちた。
まだ撃破できたわけではない。強い衝撃を受け身体が痺れているだけだ。放っておけば、すぐにでも動き出すだろう。
「任せてください」
フレイムクレイモアで止めを刺そうと接近した美華の前に、今度は別のファイターが立ち塞がる。
美華は薪を割るように振り下ろされた大斧を剣でがっしりと受け止める。肩に掛かる負荷に耐え、力任せに押し戻した。
戦いは続く。
一進一退の攻防戦。互角に見えるのは、希望的観測だろうか?
魔の加護を受ける者は翠月が、アサニエルは分け隔てなく、傷を癒す。
次第に押し戻されていく撃退士の守りを支えるのは、歌乃が展開する契火の結界だ。
「屍が無数の刃を奮おうと、私の願った炎壁は破れません」
凛とした声が宣言する通り、四方神が織りなす炎は不浄なる魔の軍勢の刃を遠ざけ、撃退士達を守り続ける――
●獣戦車と赤蠍の兵士
猿頭の咆哮と共に空気が強く震えた。
強烈な衝撃波は、構えた盾や鎧越しに撃退士の肉体を打つ。
それは鉄壁の防御力を誇るディバインナイトであっても分け隔てなく――盾を構えたキイ・ローランド(jb5908)は、歯を食いしばって衝撃を堪えた。
「一カ所に集まらないで! 左右から攻撃を続けるんだ」
キイの指示を受け、撃退士達は一斉に散開した。
とは言え相手は多頭の戦車。備え持つ首はそれぞれに独立して動き、確実に三方を捉えてくるのだ。
「悪いけど、それ以上進ませるわけにはいかないんだ」
気配を薄め、密かに距離を縮めたルドルフが繰り出したのは影縛の術。ウニベルマーグはそれを厚い装甲でしっかりと受け止める。
カタラクトクレイモアを手にハウンドが走り寄した。
彼の意図を察した奏がコロに支援を命じる。
吐き出されたブレスに紛れ、ハウンドは獣頭に気付かれることなく近づくことができた。履帯に脚をかけ、一気に駆け上る。
「援軍前に首一つ頂き!」
勢いのままに、奇声を上げる猿頭へ鬼神のごとき斬撃を繰り出す――はずが。
「うわわっ?!」
車体を包む粘液に足を取られ、そのまま頭から落下してしまった。
態勢を崩したままのハウンドに、ウニベルマーグの履帯が音を立てて迫る。
「轢かせるわけにはいかないよ!」
仲間の危機を前に、雷は異界の呼び手を行使。僅かながらに進行を阻害。
ルドルフがハウンドを抱き上げ掻っ攫うのと、ウニベルマーグが無数の腕を力ずくで振り切ったのは、まさに刹那の差。
◆
片腕を失っているとはいえ、スコルピオはやはりデビル。その地力は中々に強く、対応に回ったカタリナ、ユエ(jb2506)、小梅、春樹の4人掛かりでも、抑えるのがやっとだ。
「俺、邪魔するの大好きだからね〜! 余所見しちゃ、駄目よ〜ってね!」
そんな状況でも、ユエは己が快楽に忠実だった。闇の翼を広げ、ヒトの神経を逆なでする雑言で挑発を続ける。
スコルピオは口元に笑みを浮かべた。そこに含まれているのは、卑俗な原住民に組した半端者に対する明らかな嘲り。
振り向きもせずに放った魔弾はユエの耳を掠め、後方にあるビルの看板を破壊した。
頭上に降り注いだ無数の破片を避け、春樹はすぐに銃を構え直す。
「今……12mぐらい届きましたね?」
春樹が素早く距離を目算する。的の高さを考慮すると、実際の射程は更に伸びるだろう。
「えぇ。射程外から……などと言っている余裕は無さそうですね」
最善と考えた作戦は使えなくなったが、カタリナは焦ることなく次善策に思考を切り替える。
「もう絶対に、負けないもんね!」
べぇーっと舌を出した小梅。魔道書・アブロホロスの力で、自身のアウルに風と水の形を与えて解き放った。
カタリナと春樹の連撃に集中していたスコルピオは避けられない。忌まわしげに顔を歪めながら、全てを受け止める。
「図に乗るなよ、天界の爪弾き者がっ」
どれだけ効いているのか、そもそも効いているのか?
薄ら笑いを浮かべ続けるスコルピオの様子からは窺い知ることはできない。
それでも撃退士達は時を稼ぐため、ひたすらに攻撃を続けた。
北側に向かった撃退士達にとっての不運は、恐ろしいまでの敵の堅さ。なによりも持久戦を耐え抜くために不可欠である回復能力の薄さが、重く圧し掛かる――
◆
「これだから鈍いのは困るんだよねえ。やる気なくなっちゃうなぁ」
成り行きを見守っていた明が薄笑いを浮かべた。
重量級であるが故か、ウニベルマーグは阻害系の攻撃が効きづらい様子。この分では“万力”で穿っても平然としているかもしれない。
ならば純粋に攻撃を続けるのみ。
「……どんな相手でも、撃ち抜くの」
抑揚のない口調で紡がれた言葉は、自身に対する強い暗示。巨大なモノへの怯えを心の奥底に抑え込んだアトリアーナは、素早く車体の左側へと回り込む。
両肩に浮かび上がる魔方陣。そこから生み出された時雨のような弾が、激しい吹雪となってウニベルマーグを包み込んだ。飛沫を浴びたドラゴン頭が煩わしそうに叫びを上げる。
「危ない、早く下がって!」
キイの警告でアトリアーナが身を引くより早く、毒蛇がアトリアーナを屠らんと襲い掛かった。
その時、頭上から降り注いだアウルの弾がアトリアーナの危機を救った。
見上げれば、1人行動を別にし、ビルの3階に身を潜めていたとしおの姿。
軽く親指を立てて応えたとしおは、そのまま窓の外へと身を躍らせた。ドラゴン頭の後方へ着地すると、間髪入れずにバレットストームを繰り出した。待ち構えていたように鎌首をもたげた蛇は、激しい弾幕の中でとしおの姿を見失う。
「落とさせてもらいます」
青い光がアサルトライフルを包み込んだ。
直後、天界の加護を受けた弾丸が、けたたましい叫びを上げる猿頭を撃ち抜いた。
●反撃の狼煙
『グワッ、グワッ』
『ケロケロ、ケロケロケロロロロ……』
「いい加減に鳴き止みなさい!」
赤き魔女の心を焦らすのは、先ほど後方から響いた猿の叫びが原因だった。
北側に向かったキイは無事だろうか? できることなら、今すぐにでも救援に向かいたい。しかし、それを行うことを、彼は決して望まないだろう。だからErieは振り向くことなく前だけを見据えていた。
普段であれば容赦なく敵を焼き尽くす炎も、カエルが発する奇妙な音波に阻まれ、大幅に威力を削がれてしまう。
それでも全く届かないというわけではない。
休む暇もなく攻撃を与え続ければ、チャンスは掴めるはずだ。
「やかましいですね。どうせ喚くなら蛙の歌でも歌ってなさい!」
クロエが奏でるは氷の夜想曲。ダメージは望めなくとも、凍てつくほどのアウルがカエル達を死の眠りへと誘う。
「あ……また」
ナイトミストに身を包んでいるにも関わらず、激しい眩暈がクロエを襲う。
それはディアボロの軍勢が距離を詰めた証拠だ。
進軍を押し留める前衛が居ないわけではない。敵の進軍を抑えるには、確実に手が足りない。
近接戦に切り替えた明斗が雷桜を振りかざし、マジシャンに斬りかかった。飛び込んできた異質な存在に、カエル達が一斉に抗議の声を上げる。ともすれば包囲されがちな彼を、胡桃は必死に援護し続けた。
虎綱は手負いのマジシャンを優先して狙い、着実にダメージを重ねていった。
己が命を燃やし、最前線で奮闘するインレ(jb3056)は、至近距離でカエルの音波を浴び続けたため、すでに満身創痍の状態だ。
インレが自らを囮に敵を引き付けたところに、Viena・S・Tola(jb2720)が魔方陣を展開する。
感動のない表情で、淡々と、それでいて誰一人仲間を巻き込むことも無く。
「爆ぜて……」
吐息と共に紡がれた言葉。Vienaの魔方陣が光を放ち、マジシャンを焼いた。
「あまり無茶は禁物ですよ」
高揚状態にあるため本人は自覚ないが、インレの負傷度は高い。
目ざとく状況を判断したソーニャは、手遅れになる前に応急手当てを施した。
自分の身を守ることすら危うい最前線。カエルの鳴き声に若干の吐き気を感じつつも、ソーニャはショットガンを構え直す。激しく撃ちだす弾音が、共鳴によって引き起こされる衝撃波を僅かに軽減させた。
「いつまでも調子に乗っているな」
起死回生の一撃は、マジシャンの向こうから放たれた。
空間が変質する。虚から実へ。濃密なアウルが生み出した闇が無数の槍となり、地を穿つ。それは肉薄する撃退士を避け、ディアボロだけを確実に撃ち抜いた。
同時に土が弾け、数体のマジシャンを巻き込む。
気付かれないよう建物の壁を伝い、密かに後方へ回り込んだリョウ(ja0563)と玲花。
そこにいた全ての者の視線が、2人に注がれた。
戦場に“静寂”が生まれていた。
「今だ、ありったけの攻撃を叩き込め」
攻撃を悉く阻んでいた障壁は途絶えた。この好機を逃してはならない。リョウの声と共に、撃退士達は一斉に攻撃に転じた。
アスファルトを突きぬけて、無数の針が出現する。カエル達は慌てふためいたように散らばるが、百舌鳥の速贄のように次々と串刺しになっていく。
緑のアーススピアが炸裂したのだ。
馳貴之(jb5238)がガルムSPを乱射し、マジシャンを追い込んでいく。
たまらず後退したマジシャンに、気配を殺した虎綱が肉薄、強烈な蹴りを繰り出した。
貴之の射撃で相当のダメージを蓄積していたマジシャンは、その一撃で背骨を粉砕され、崩れ落ちた。半身だけになりながらも、アスファルトに爪を喰い込ませて最期の抵抗を見せる。
忌まわしいまでの生命力に舌を打ちながら、後藤知也(jb6379)がヴァルキリーナイフで止めを刺した。
(ハイエナみたいな戦術だが……これが今の俺に出来る全力だ。)
どんなにあざとく見えようが構わない。少しでも早く敵を減らすことが仲間の援けとなると信じて、光刃を放った。
『ゲK…………ッ』
「幻光雷鳴レッド☆ライトニング! みんな纏めてパラライズ☆」
再びカエルが合唱を始める前に、さんぽが人差し指を立てて魔砲を放つ。深紅の稲妻に撃たれたカエル達は、まるでヘビ型ディアボロに睨まれたかのように凍りついた。
リョウの掌に凝縮した闇が槍の形を象る。それは彼の静かな闘志を顕現するように放電し、無数の敵を貫いた。
麻痺を与えられても、全ての攻撃を封じられるわけではない。しかしカエルの声は弱々しく、攻撃を阻む障壁が復活することはなかった。
感情の昂ぶるまま、クロエはファイアワークス撃ち放った。面白いほどに吹き飛んでいくカエルを見つめる瞳に、狂気の色が映る。
「あと少しです! 頑張りましょう」
ユウもベネボランスを翻し、杖を掲げるマジシャン達を無慈悲に叩き潰した。
もはやディアボロ達は撃退士の敵ではなかった。
出鼻の苦戦が嘘のように、僅かな時間で殲滅を果たしたのだった。
「ぐっ……」
どさりと音がして、インレが膝を付いた。
安心して気が抜けた訳ではない。死をも封じるアウルの激流が、ここにきて途絶えたのだ。吐き出された血の量に、感情を表すことの少ないVienaの表情もさすがに曇る。
「随分と無茶をしたな」
すかさず知也が駆け付け、ライトヒールを2度、続けて行使する。それでも全ての傷が癒えたわけでは無い。
後の治療をVienaに託し、知也は他の仲間達へも癒しを与えていく。
そんな中、自身の治療を後回しにし、Erieは北を抑える仲間の元へ向かった。
リョウ、緑、玲花――負傷の度合いが低い者達も、次々と新たな戦場へと走り出していく。
●勝利を手に
猿が撃破されたことで、戦いの流れは明らかに撃退士側に傾いた。
ウニベルマーグの手数はほぼ半減。“目”が減ったことで死角も増え、容易に包囲することができた。
(まだ2つ頭が残っている。喜ぶのは早い!)
己が手で成し遂げた功績に浸ることなく、としおはマシンガンを撃ち続けた。
ドラゴン頭が吼える。
大きく開かれた喉の奥に、紅蓮の炎が渦を巻いていた。
「危ない、炎を吐くよっ!」
奏の警告を受け、撃退士達は包囲の輪を広げた。
車体を囲むように炎が広がったのはその直後。危うく召喚獣諸共に焼かれるところだった奏は、胸を撫でおろしながら再度コロを召喚する。
「その首を全部落としてみせるよ!」
雷の首を飾るシルバーアクセサリが青白い光を纏った。それは雷の闘志と同調するように、より強く輝きを増していく。
放たれた技はファイヤーブレイク。2つの獣頭を飲み込んで、大きな火球が炸裂した。
中央に陣取るドラゴン頭が苦悶の表情に歪む。
「Yeeeehaaaaw!」
心の底から楽しげな声を上げ、明がステップを踏む。それは敵対する者達の本能を刺激し、殺意を増長させる禁断の舞踏。獣頭達も例外なく嫌悪感を露わにし、激しい雄叫びを上げた。
真っ先に飛んできた蛇の毒牙は形代に押し付けた。
気を抜くことなくウニベルマーグへ向き直った明の視界に、しっかりと自分を見据えるドラゴン頭が飛び込んだ。
(まずい……)
この態勢では形代も取り出せない。
明が直撃を覚悟した時、彼の背から撃ちだされた激しい銃弾が龍炎砲の軌道を逸らした。
「お待たせしましたっ」
淡い金色が風に靡く。南側のディアボロ殲滅に回っていたソーニャだ。
続いて急降下から側面へ回り込んだユウ。流れるような動作でベネボランスを翻し、ドラゴン頭と蛇頭の両方を薙ぎ払った。
「えりーちゃん……」
援軍の中に赤き魔女の姿を見止めたキイ。冷静な騎士の顔が、この時だけは安堵に緩む。
(まだ喜ぶのは早い。今は目の前の敵を討つことだけを考えるんだ……)
明が命を懸けて手繰り寄せ、仲間が繋いだチャンスを無駄にするものか。
キイは一度目を閉じた。精神を集中させ、再び目を開いた時、彼の手には血色の布で封印を施された禍々しき剣が握られていた。
「あとは任せて!」
全身に天界の加護を纏い、間合いを詰めた。車体は変わらずぬめっていたが、どうにかバランスを取って駆け上る。
繰り出された斬撃を、ドラゴン頭は鋭い牙で刀身を受け止めるも、キイはそれを力任せに振り抜き、両断した。
ルドルフはわざと蛇頭に身を晒した後で、反対側へと回り込んだ。
並外れた脚力を持つルドルフである。当時に行使した遁甲の術も相まって、蛇は簡単にその姿を見失ってしまった。
どこに隠れたのかと蛇は無防備に鎌首をもたげ、獲物を探す。
ようやく見つけることができたのは、ルドルフの放った矢が首を貫いた瞬間。
「あっち向いてホイ……ってね。俺達の勝ちだよ」
影縛された蛇頭が苦しそうに頭を振った。
アトリアーナのバンカーが片方の履帯を粉砕した。ウニベルマーグはバランスを崩し、大きく右へ傾いた。
全ての獣頭を失い、移動力すらも削がれた戦車は、いわば堅いだけの只のハコと成り果てた。
虹色の光を帯びる呪符を繰る知也。装甲を貫く威力は持たないが、頼もしい確実な一撃だ。
祝詞を唱え魔力を高めたVienaも、インレと共に攻撃を叩き込む。
「いける! いける! 大丈夫!」
見えてきた勝利の瞬間に、奏の応援に力が入り、コロのブレスが車体を包みこむ。そして。
極限までアウルを凝縮したハウンドの一撃が、首を失い剥き出しになった車体の奥深くへと突き刺さった。
◆
デビルとディアボロを同時に相手取ることは避けなければならない。
そう考えるカタリナは、ただ1人でスコルピオに肉薄し、その場に繋ぎ止める。
至近距離で撃ち出された魔弾を顕現した盾で防ぎ、反撃の槍を繰り出した。片手のため、薙ぐことはできない。細かに突き出す形で、ダメージを与え続ける。
彼女の負担を少しでも減らすため、撃退士達は空から後ろから、息を吐く暇もなく攻撃を繰り返し続ける。
「くそったれ……」
吐き捨てる言葉は、余裕がなくなった証拠か?
「あー、やだねぇ。他人任せだったから、今情けない事になってんじゃないの〜?」
あからさまな挑発。ぎろりと睨んだ眼に、ユエはしてやったり、とほくそ笑んだ。嫌がらせの一矢を適当に射ち、すぐに上空へと逃れる。
ユエは右へ左へ、気の向くまま視界の隅を掠めるように動き続ける。
まるで春先の蠅のような鬱陶しさ。その積み重ねは、確実にスコルピオの集中力を奪っていった。
ここで、南側に回っていた仲間がついに合流を果たす。
頼もしい加勢に勢い付いた小梅は、素早くスコルピオの後方へ回り込むと、アウルで生み出した風で斬りつける。
初撃は惜しくも外れた。放たれた魔弾を身に受けながら、諦めることなく再び鎌鼬を叩き込んだ。
「ガキが……っ」
「絶対、倒すんだもんね!」
細やかな、しかし魂を込めた一撃。小さな身体に満ちる並々ならぬ闘志が、殺意を秘めたスコルピオの視線を釘づけにした。
その無防備な隙を見逃さず、春樹は“眼”という極所を狙い撃つ。
インフィルトレイターの能力を存分に活かした狙撃術。天界のカオスレートを乗せた銃撃は、違うことなくスコルピオの半顔を襲った。
鋭い悲鳴が上がった。
「……貴様、原住民ごときが、よくも、よくも……! 」
半顔を潰されたスコルピオが怨嗟の声を吐き、足掻く。
反撃の毒針は的を大きく外れ、明後日の方へ飛んでいき――闇を、風を、槍を、撃退士達が次々とスコルピオに打ちこんでいく。
身体を己の血で染め上げ、スコルピオが大きく眼を見開いた。そこに映るのは、原住民に対する憎悪の色。
二度目の反撃は、ついに繰り出されることはなかった。
●闇を穿つ
単に距離を離しただけでは、ヴァニタスの加護を奪うことはできないらしい。
集中力を乱すため、アサニエルが牽制を放っても、それは変わらず。東海林の高慢な性格は、決して自意識過剰なだけではないことを思い知る。
(それでも、判断力は劣るようね)
スカルファイターの戦略は力押しが殆どだ。押せば無理やり押し返し、退けば素直に押してくる。
苦戦を演じ続けた結果、東海林とファイターの間は十分に広がっていた。
詰めまであと一手。王手をかけるには、もう少し駒が欲しい。
その時――突出しファイターに三方を囲まれたルビィの体を、風が包み込んだ。
ディアボロ相手に後れを取る不甲斐なさを叱咤するような厳しい、それでいて勇気を与える優しい風だった。
続いて、前触れもなく炸裂した土塊と闇色の槍が、スカルファイターを粉砕する。
「……皆さん!」
振り向いた翠月の顔が破顔した。
待ちに待った援軍が、ついに到着したのだ。
「助かった、聖……」
「兄さん……! もう一頑張りして来てよ……!!」
再会の感動に浸る暇もなく、妹は兄の背中を強く押し、前線へと突き飛ばした。
期は満ちた。
翼を広げたロドルフォが舞い降りた先は東海林の元。一気に肉薄し、肩を羽交い絞めにした。引き寄せて、醜い火傷が残る耳元に、整った顔を近づける。
直後、東海林の平手が彼の頬を張った。
どんな攻防があったのか? 他の仲間達からは見えなかったが、顔が赤くなるほどに怒りを露わにする東海林の様子から、何かしら挑発の言葉を投げかけたに違いない。
◆
「……っ」
大剣を受け止めるファイターの力が不意に緩んだ。ギリギリの鍔迫り合いを続けていた美華は、ここぞとばかりに骸骨の頭を割り砕いた。
「何かが変わった?」
繰り出される攻撃に今までの切れがない。
薙刀でファイターを打ち払った香里も、明らかな異変を感じていた。
「指揮が乱れたようね」
ファイターを殲滅するなら、今が勝負所。
フレイヤが掲げる魔道書が青紫色の光を発する。セルフエンチャントにより強制的に高められた魔力は、激しく燃える炎のように逆流し、フレイヤの身体を包み込む。
手加減無用のブラストレイが、ファイターを吹き飛ばしていく。
「ほらほら、そんなに固まってるからいけないさね」
アサニエルの呼び出した彗星が、撃退士の発する気に圧され後ずさりしたファイター達を捉える。場を捉えた重圧に負け、ファイターの動きが鈍重になった。
◆
「ちょ……ストップ、ストップっ」
過激極まりない東海林のラブコールに、ロドルフォは再び羽ばたく暇も与えて貰えない。
すかさず援護に回ったイアン。タウントを織り交ぜ、引き離しを試みた。
東海林が鋭い批難の眼を向けた。まさに般若といった形相である。
視線が逸れた一瞬でロドルフォは無事に離脱。行き場を失った東海林の怒りは、そっくりイアンへと向けられた。
鋭い爪の一突きは銀の盾でがっしりと防いだが……何かこう、修羅場というか、痴話喧嘩に巻き込まれたように思えるのは、気のせいだろうか?
「イアンさん、後ろです! スカルファイターが……」
東海林の異変を察したファイターが数体、主を援護するために方向を変えた。
翠月の一撃だけでは止めることはできない。盾を構えたナハトが召喚獣と共に割って入り、合流を阻止する。
「ここは通さない。僕が止める!」
普段のおっとりしたものとは違う力強い口調が、彼女の決意を示していた。
「雑魚は任せるのだ!」
蒼き風を纏うフラッペが、遥か後方から支援の弾丸を放つ。
2発、3発と続けざまに撃ちこまれた弾丸が、剣を振り上げるファイターの肩を粉砕した。
忍び寄るディアボロは全て除外されたが、全ての危機が消えた訳ではない。
「ミイラ取りがミイラになってどうするんですか?」
銀の盾を使い切ったイアンに容赦なく襲いかかる東海林の爪。胡桃は狙いを定め、凶刃の軌道を逸らした。
多くの仲間によって繋がれた好機のバトンは、宗の掌に渡された。
数メートルの距離から間合いを詰めた宗。その存在に気付いた東海林が身を翻すよりも早く、袈裟掛けに背を切り裂いた。
「一気にケリを付けるわよ!」
次にバトンを受け取ったのは景。
不意打ちに怯んだ東海林が平静を取り戻すまえに、ロンゴミニアトをフルスイングした。
先程と違う、誰かを傷つけるための引き鉄。恐怖に震える手を抑え、胡桃が墜弾を撃ち出した。
「私の緋願の太刀にて、黎明を」
最後に響いたのは凛とした声。歌乃の祈りに応えた白き刀身が鮮やかな赤に染まる。光の飛沫を靡かせて、放たれた風が獅子のように吼えた。
「……っは」
漆黒の髪が風の中で乱れ、戦場に紅が散った。
「醜いな……」
倒れ伏す東海林を静かに見つめ、ロドルフォが想いを吐露する。
「傷跡や顔の造作がどうってんじゃねえ 。人を恨んで妬んで、挙句の果てにそれを踏みにじる幸せしか見いだせなくなった……その心根が醜いってんだ」
醜くなった姿が心を歪ませたのか。心が歪んでいたから、醜い傷を負うことになったのか?
それは誰にも――おそらく本人ですら、自覚はないことだろう。
同じように消えることのない傷を背負うナハトは、あり得たかもしれないもう一人の自分を思い描き、そして否定した。
どんな理由があるにせよ、人道を違えるか否かを選ぶのは、当人の選択なのだから。
蔑みも、慰めも、光を失った哀れなヴァニタスの耳に、もう何も届くことはないけれど……。
●薄明の天幕
魔勢との戦いを終えて四辻へと帰還した撃退士の間に、大きな歓声が上がった。
「皆さん、お疲れ様です!」
誰もが少なからず傷を負っているが、誰も欠けることなく戻ることができた。翠月の労いの言葉も、自然に声が弾む。
互いに顔を見合わせ、掌を打ち交すルビィと聖羅。
2人の間で交わされたハイタッチは、ごく自然に撃退士達の間で繰り返されていく。
少々無理をしすぎたインレの身体を支えるVienaも、半顔に刻まれた刺青が消え、普段の穏やかな表情に戻っていた。勝利にはしゃぐことは無いが、互いの無事を喜び合っていた。
「さて、もう一仕事しようかねぇ」
慰労の意味も兼ね、アサニエルは残った癒しの術を分け与える。
重傷は中傷へ、中傷は軽傷へ。身体に掛かる負担が減ったことで、心も楽になっていく。
ライトヒールが尽きた知也も、特技の応急手当を活かし、軽傷者に治療を施した。
「……皆、無事で良かった」
互いに健闘を讃え合う仲間達を静かに眺めるソーニャ。
輪の中に飛び込む勇気はないけれど、喜びに沸く気持ちだけは、しっかりと共有していた。
「“依頼”完了……ね」
またひとつ、戦いの記録を終えた緑は、他の共闘者達が向かった北に目を向けた。
「あっ」
その時、胡桃が持つ光信機が受信を示した。
勝利の余韻に浸っていた撃退士達の間に緊張が走る。
流れ出た声は、北のドームへ向かった仲間の声だった。
【南路陽動】 担当マスター:真人