陽が地平の彼方へと落ちてゆく。
日本国九州の巨大都市。その街は大きかったが、動く人間は誰もいなかった。既に皆、精神を吸収されて抜け殻となり、心は異空の門に、肉体は天界へと運ばれていった。
男が一人、ビルの屋上に立っていた。
重厚な銀の色の甲冑に身を固め、分厚く巨大な剣を担いでいる。背には一対の光の翼があり、やがて霧散するように消えた。
彼は、人ではなかった。精悍な顔つきをしている。
男は兜の陰から地表を睥睨していた。
「ザインエル様」
夕陽を浴びて純白の翼を茜の色に染めながら女が一人羽ばたいて来た。見紛う事なき天使だ。
「レギュリアか」
「ただいま戻りました。メタトロン様はなんと?」
女は天界より派遣されている最高司令官の名を言った。
「俺にこの国の街を一つ支配せよと言った」
「場所は」
「特に指定は無かった」
男はそう述べた。手駒としてさして重要視されてはいないようだ、と彼は思った。
「左様ですか……」
レギュリアは目を伏せた。彼女にも理解できたからだ。ザインエルの階級は大天使である。
これは天使の階級としては高いものではない。おまけに彼はまだ若かった。
「だが、これはつまり制限も受けなかったという事だ」
銀甲冑の男は天使の少女へと振り向いた。
「ならば、これは好機だろう、レギュリア。我々が飛翔する為の。力を示す為の」
レギュリアは主の言葉に頷いた。
「的は」
狙うならば重要な場所が良い、大量の人間が済んでいて、同時にこの国の人間達の象徴となるような。
レギュリアの視線をザインエルは受け止め、標的とするべき場所を告げた。
それが、冬の終わりの事。
●
「……おい、あの依頼は、なんだ?」
久遠ヶ原のとある斡旋所、窓口に一人の童子が飛びついてしがみつきつつ、片手で張られたメモの一つを指差していた。
「あら……太珀先生?」
アルバイトで係員を務めている少女が目をぱちくりとさせて童子を見た。否、童子ではない。見かけは子供だが、人より遥かな時を生きているはぐれ悪魔だ。名を太珀と言う。学園の教師の一人である。
「えぇと、なんでも京都で不審な団体に中京城と幾つかの建物が占拠されたっていう話で」
バイトの少女はそう説明をする。中京城というのは京都の中京にある古城で、中世のとある将軍が京に滞在する際の居城として築いた物だそうだ。ちなみに元離宮の某城と天守閣がある以外色々よく似た造りだが別物である。
「で、どうもその不審者達が天魔の疑いがあるので、撃退士に手を貸して欲しいという京都府警からの依頼です」
詳しい経緯はこうだ。
先日、京都市にある歴史に名高い中京城が不審な集団に占拠された。
不審者は十数名で、体格は老若男女様々なようだったが皆、一人残らず白いフード付きの外套にすっぽりと全身を包み銀の仮面をつけていたという。
なんでも彼等は不可思議な力を操るらしく中京城にいた人々は不審者達から発せられる強風を叩きつけられて塵を払うかのように転がされ追い出されてしまったらしい。通報を受けた警察が逮捕に向かったが同様の結果に終わってしまっていた。
中京城より北西、北、北東、南東、南、南西の六箇所でも銀仮面集団による建物の占拠が相次いでいるという。
また捕縛せんとした際に不可思議な力と威圧力に恐慌状態に陥った警官の一人が拳銃で発砲したが、弾丸は銀仮面の身を通り抜けて背後の壁に当たったとか。
これらの事態を前にして京都府警は不審者達は天魔の可能性が高いと判断、学園に撃退依頼を出したそうだ。
「なるほど。旭川のあれは、そういう事だったのか」
太珀は頷いた。
「だが、呑気だな人間。この状況にも関わらず、貴様等は依頼の受け手を募集などと人員が集まるのをのんびり待っているのか」
「え?」
「天魔だというなら、あれは今まさにゲートを開かんとしている布陣そのものだろう。長野は知っていた筈だが、現役に伝わっていないのか?」
舌打ちして太珀は言った。
「レクチャーしてやる。あの形は、一点を中央に六方を補助門で囲む陣は、ゲートの支配領域を通常よりも拡大する連結式開門術の一つだ。この国の言葉で言うなら悪魔の物なら六星七門現魔陣、天使なら六星七門示現陣という」
「れ、れんけつ……ろ、ろくしちもんげんじん、ですか?」
「面倒だ。覚えにくいなら両方併せて天魔の七門陣とでも呼べ。どうせ天も魔も効果は同じだ。主門の六方に配下による枝門を配し、主門の支配が及ぶ領域を大幅に拡大すると共に主門核に次元を捻じ曲げる断層障壁を張って主門核を保護する。
配下が枝門を維持している間はその連中は自身の為のゲートを作れぬから、下から人気が無い術だし、効率も場合によっては低下する。制約が多いうえに面倒な陣だが、巧く使われるとその威力は絶対だ。
まず、次元を破る術が無い限り、枝門核が一つでも存在していると主門核へのあらゆる攻撃が無効化される。次元がねじ曲がっているから例え天地を破壊する威力でも弾かれ逸らされる。つまり枝門核が存在する限りメインのゲートコアは無敵だ。
さらに枝門を支える連中の力量に拠るが、二キロか、三キロか、支配領域が増える。円の面積はパイに乗算する事の半径さらに乗算して半径、でかくなればなるほどに増加分は飛躍的に厄介になっていく、初歩の数学だ、解るな? あくまで主門の支配力を拡大するものだから、主がボンクラならあまり意味がないが、わざわざクソ目立つ上に面倒な連結陣など敷いてまで拡大しようというからには雑魚じゃないだろう。直径でいえば最低でも十キロ。枝門も含めればそれ以上。恐らく、このまま開けば京都の中心部は一発で沈むぞ」
「え……ええええっ?!」
「この依頼が学園に届いたのはいつだ?」
「え、えぇと、三日前、です」
「三日か、不味いな。ゲートの展開術が得意な奴ならコアの潜伏期間は終わってゲートを発生させる用意が整う」
「どどどどど、どうしましょう?」
慌てる少女に対してはぐれ悪魔の教師は言った。
「どうもこうもない。とっとと執行部に連絡して人員を至急で掻き集めて対処に向かわせるんだな。主門を開かれる前に陥とせれば上々だ。間に合うかどうかは解らんが、万全の態勢でゲートを開かせたら厄介このうえなくなるぞ」
●
「京都の事件は、その七門陣の物と見て間違いないと?」
生徒会室、大塔寺源九郎が言った。
「旭川の報告書から判断するなら間違いない。あれが実験でこちらが本命である可能性が高い」
結局、自身も執行室へとやってきた太珀が書記長の問いにそう答えた。
「そう見せかけた陽動である可能性はどうなん?」
大鳥南が問いかけた。
「それは零とは言えないな」
悪魔の教師はそう答えた。
「学園を空にする訳にはいかないが、無視する訳にもいかない。ただ、大動員をかけるだけの時間は残されていない、と……」
大塔寺はやや思案すると言った。
「今動ける最精鋭を主門一点に集中し、これを撃破する。これが最善手と見る。立ち上がる前に潰せれば、七門陣も枝門も関係がない。ゲートが立ち上がる前なら、次元障壁というのはまだ展開していないんですよね太珀先生?」
「ああ、七門陣が展開する前の段階なら直接攻撃できる」
「会長」
大塔寺が見ると黒髪の会長は頷き。
「解りました。許可をだします。ただ、今回は私も参加した方が良いですよね?」
「いや、会長は久遠ヶ原にいてくれ。ブラフだった時の備えも必要だし、それよりも撃退庁を通して京都府に働きかけて住民に一時的にで良いから緊急の避難勧告をだして欲しい。太珀先生の話じゃ今度の相手はかなり強敵そうだ。万が一の為に保険をかけておきたい」
「しかし、相手が強敵そうだというのなら、なおの事、戦力が必要なのではないでしょうか」
大塔寺は頷くと、
「戦力が一人でも欲しいというのはその通りだ。でも、君は人間の撃退士としては強いし学園全体でもトップクラスかもしれないが、はぐれ悪魔や堕天使の先生がたよりも必ずしも勝るという訳じゃない。そも戦は数だ。単純戦力として見るなら、他に代用は効く。代えが効かないのは、君が生徒の代表である生徒会長というその立場だ。今の久遠ヶ原は生徒主導を原則としている。生徒会長にしか出来ない役割がある」
「それが避難勧告をだす事だと?」
「それもある。けれど一番大きな理由は、少数精鋭で攻めて勝てなかったら、後は数を頼んで攻めるしかないという事だよ。万一僕等が敗れた時は、君が久遠ヶ原に大動令をかけて京都の敵を討て。その時に会長まで死んでしまっていたら学園に混乱が起こって動きに支障がでる。だから、ここは僕等に任せておきたまへよ」
大塔寺のその言葉に神楽坂は押し黙る。
「あぁなになに、そんな顔はしないでくれたまへよ。あくまで万が一、の時の話さ。今回は太珀先生やクリスティーナにも来て貰えるんだ。僕等自身だって精鋭のつもりだし、いくら強敵だといったって、あのギメル・ツァダイが実はボスでなく単なる前座に過ぎなかったとかいう事態でなければ、十分なんとかなるレベルさ。これはあくまで保険の話。流石に運命の女神様だってそこまで外道じゃないだろう」
●
他方。占拠された中京城、その天守閣の最上の間に銀仮面の天人達が集っていた。
「ザインエル様。六星に配した使徒六柱、首尾は上々にて、枝門の展開に支障なし、と」
白衣に身を包んだ男が膝をつき、板張りの間に胡坐をかいて座る男へと報告した。
報告を受けた男は頷くと、
「こちらのゲートコアも順調に力を蓄えている。発動は間近だ。御苦労、ギメル」
「はっ」
かしこまる男。そこへ横手から小柄な銀仮面が声を投げた。
「ギメル・ツァダイ、枝門の防備はどうなっている?」
「レギュリアか」
ふん、と男は鼻を鳴らすと、
「貴様に言われるまでもないわ。我が選抜せしザインエル様の六星枝将、例え冥魔の者どもが襲来しようとも返り討ちにせしめてみせよう。まして人間ごときは何をかや言わんやだ」
「それは頼もしい限りだ」
レギュリアが口を開きかけたが、彼女が次の声を発するより前にザインエルが言った。
「ギメル、期待しているぞ。それよりも、だ。問題はまず防備よりも獲物が逃げださぬかどうかという事だ」
獲物、京都市の人間達の事を言っているのだとギメルは察した。
確かにゲートが開かれる前に、市民達に一斉に範囲外へと逃げだされると厄介である。土地だけを取っても天使にとっては利益が無い。
「しかしザインエル様、確かに七門陣は目立ちますが、この次元ではあまり使用されていない術です。地上の民が気づくものでしょうか?」
この地の人間達は動きが鈍い。定住している箇所からは容易に離れようとはしないのだ。人間達は簡単にはそれまでの生活を捨てようとはしないのだとギメルは知っていた。
故にあと数日程度ならば問題無いのでは、と思っていたがザインエルは言った。
「北方で一度動いた事が気にかかる。何故なら、背約者どもが居る」
その言葉にギメルは瞠目した。天使の中には――ギメルの感覚ではありえぬ事だが――神に背き地上に降りた罪深き者達が存在していた。その事を失念していた。で、あるならば、旭川での実験は、七門陣が高難易度な術である以上試行はどうしても必要な事だったが、あの動き方は不味かったかもしれない。
「あの裏切り者ども……」
ギメルは我知らず憤慨の念を洩らした。
ザインエルは淡々という。
「それだけでなく、冥魔の側にも人に走った者がいるという。例え人の知識には存在していなくとも、彼奴等ならば気付くかもしれぬ。まだ人間どもに動きはないようだが、早期に気づかれた場合、厄介な事になる――」
その時、階下から一人の銀仮面が間へと駆けこんで来た。使徒の一人だ。場の視線が集まると男はかしこまって言った。
「失礼、しかし火急の報です。京の人間達が一斉に避難を開始したと!」
「なんだと!」
レギュリアは思わず怒声をあげた。人間達に逃げられては計画が瓦解する。
「さらに市内にアウル行使者――あの撃退士と呼ばれる者達が次々に出現し、一路こちらに向かって突き進んでいると。中には人間側に与したと見られる悪魔や堕天使の姿も見られます!」
「やられたな」
騒然とする場の中で、ザインエルが淡々と言った。
「ギメル、卿は確か縛心波の術が使えたな。同じく誘眠の術を使えるサーバントを出す。共同して人間達の動きを止めろ」
「は、ははっ、しかし、あれは広範囲には無理ですし、撃退士どもには効きませんが」
「構わん。ゲートの発動にはいま少しの時が必要だ。それまで獲物を逃がさなければそれで良い。京の全ては無理でも多少は狩っておきたいだろう?」
「……承知いたしました!」
男は頷くと首を垂れた姿勢のまま部屋の床を透過して沈み消えていった。
(せいぜい五万か)
ザインエルはそれを眺めながら胸中で独白した。ギメル等の秘術の範囲から考えると、眠らせる事のできる人間の人数はその程度。
(七門陣無しのゲートで五十万、七門陣が上手くいっていれば百万、実際に手に入ったのは五万、か……)
前途は多難だと思った。だが、それでこそ面白い、とも。
「人間どももなかなかやる。レギュリア、行くぞ」
「はっ!」
男は大剣を手に取ると、配下を引き連れ、城へと迫り来る撃退士達を殲滅しに向かい、そして叩き潰した。
執行部親衛隊は壊滅し、大塔寺源九郎と鬼島武は重傷を負い、教師太珀とクリスティーナは残存をまとめてかろうじて撤退を成功させる。
京都の地より空に向けて、光輝く六星の柱が立ち上ったのだった。