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第2話

 翡翠の色の水面に映る白い髪の十代半ばの男、お前は日常の尊さを知っているか?
 と問いかけられたのならば、答えは
――さぁ、どうなんだろうね。
 になるだろうか。勿論、解ってはいるつもりだ。大切だと思う。
 でも本当に解っているかと問われれば、真にその貴重さを身体で解っているのだろうか、俺は。
 何処かで軽く、見ていないか。
 一年を経て濁ったプールを覗きこみつつ、その水面に映った自分の顔をながめて、ふとそんな言葉が脳裏に浮かんだ。
 愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶという。頭の悪い奴は失ってみなければその価値は真には解らない。だから真に大切なものでも雑に扱いこんなものは惜しくもないと思って投げ捨てる。失ってから気づくんだ。「あの日の俺は、あれを守る為に、万の難事を排しても戦うべきだった」と。失ってからでは全ては遅い。取り戻す事が不可能となってしまったものは、もう取り戻せない。
 俺は、この日常の尊さを真に理解しているか。頭では解っている。だけど、危険の中に身を置いても、まだまだ実感がボケているような気がする。俺が撃退士だからだろうか。滅多な事ではアウル行使者は死なない。強い力を持っているから。でも理由は他にもあるんだろう、きっとそれは俺という人間の性質、知性なんだろう。賢者は歴史で学べるが、愚か者は我が身に経験してみてからでなければ真には解らない。俺は賢者ではないらしい。身に迫る危機として実感が出来ない。だがせめて、俺の理性が日常を尊いと叫ぶのなら、さほどの実感が伴わずとも、半信半疑であっても、俺はそれを守る為に戦おう。俺はこの日々が尊いと信じるから。
 プールに溜められた濁った水が、栓を抜かれて徐々に徐々に嵩を減らしてゆく。水面に映った俺の顔が揺らいでその口元を歪めた。
――お前は本当にそれを信じきれるのか? 最後まで大事に出来るのか? お前に?
 そんな事を述べて嗤っているようだった。
「律紀ー! 何ぼけっと突っ立ってるの!」
 その時、不意にソプラノの声が響いて、俺は声のした方を振り向いた。
 そこには赤い髪を縛った青い瞳の少女が立っていた。火村だ。紺色の水着の上から体操着のTシャツという恰好で、デッキブラシを肩に担ぎ何故か仁王立ちで胸を張って踏ん反り返っている。
 彼女はびしっと腕を俺に向け人差し指で差すと、
「来てくれたのは感謝してるけど、今日中にちゃっちゃっと終わらせないといけないんだからね、のんびりやってる暇はないわよ!」
「ああ、御免、ついぼうっとしてしまって」
 俺はぽりぽりと頭を掻きながら謝った。久遠ヶ原のプールは大きい。
 とある夏の前の日の週末、俺達は執行部からの依頼を受けてプールの清掃にやってきていたのだった。
「また考え事? ただでさえアケミの奴がドタキャンなんてしてくれちゃったもんなのだから、全力でやらないととても日が沈む前には終わらないわよ!」
 火村が腹立たしげに言った。本来なら火村と火村の友人と俺の三人で行う筈だったのだが『急な用事』というのが入ったらしく、火村の友人のアケミさんという方は来れなくなってしまったらしい。
「そうよ、アケミめ〜! ふざけんじゃないわよ!」
 火村は非常にご立腹な様子でむきーっと声をあげ、だんだんとコンクリートを足で踏みつけている。友人が来なかったので本日の火村は特に御機嫌斜めのようだ。
「まぁ、ほら、急な用事って入っちゃう時は入っちゃうもんだからさ」
 俺はなだめるように言った。
「そうだけど、急な用事って何よ! あいつ絶対そういうのじゃないわよ、ケータイで連絡寄越した時なんかちょっと笑ってたもん! 絶対さぼりよ! 掃除っていっても一応執行部からの依頼なのに! 何考えてんのよあいつ!」
 どうやら火村の見るところによれば、アケミさんは仕方のない事でドタキャンした訳でもないらしい。
「アケミさんってどーいう人なの?」
「律紀も会った事あるわよ。ほら、黒髪のロングの子。ちょっとお節介な所あるけど悪い子じゃないんだけど偶にあいつはフリーダムで訳わかんないのよ!」
 お節介、ねぇ。
「へー‥‥」
「どうかした?」
「ううん、なんでもないよ。とりあえずあれだ、洗浄剤取って来るよ」
「ああ、うん、そうね。二人だけでやらないといけないんだし、喋ってないでちゃっちゃとやらないと。あたしホース持って来るからそっちお願いね」
 そんな訳で俺と火村はプールの清掃を開始した。
 使われなくなってから十ヶ月近くも放置された水溜めは、なかなか愉快な事になっている。苔やヘドロの一大群生地だ。臭いもキツイ。
 汚れきった水を流し、ある程度の沈殿物を排除して、それでもプールの底に残ったそれらを大きなホースで勢い良く放水しながらブラシを使って排水口へと押し流してゆく。一気にやると詰まるらしいので、それなりに神経を使った。
 それからは洗浄剤を撒いてプールの底や壁にブラシをかけてゆく。ここにもやはり黒ずんだカビやら苔やらがしっかり根を降ろしていて、一回二回ブラシをかけた程度はさっぱり落ちない。何度もかける必要があり、しかも久遠ヶ原のプールは一つだけでなく幾つか種類があって、総面積はかなりの広さになる。これのせいでプール掃除には人手が必要なのだ。だが二人でやらなければならない。時間内に終わらせる為にはかなりの速度でやらなければならない。撃退士というのは、一般の人に比べると結構な超人だから、体力や速度的にはかなり有利だけど、それでもたった二人でこなすのはやっぱり大変な作業だった。
「うう、日が暮れる前までに終わるかなぁ」
 昼時、プールサイドに腰を降ろして眺めつつ火村が不安そうに言った。火村は普段から強気なようでわりと弱気なところがある。ミネラルウォーターのボトルに直接口つけてごくごくと飲み、はぁ、と肩を落として嘆息した。
「ま、なんとかなるって。大丈夫さ。頑張ろう」
 俺は頂いた弁当を食べつつ励ますように言った。大変ではあるけれど実際、この調子でやりきれれば、日が暮れるまでには終わるだろう。俺がそう述べると火村は「うん」とこくりと頷いた。
 ちなみに、だけど、火村の弁当はやっぱり火炎色だった。
「‥‥火村家は、あれかい、全ての食物は須らくして煉獄の色に染め上げるべし、とかいう家訓でもあるのかい?」
「あるわけないでしょそんな家訓」
 逆に呆れたようにツッコマレた。
 とりあえず、辛さ控え目にしていただけると嬉しいデス、という要望を伝えてから午後の作業となったのだった。


 午後、晩春の暖かい日差しに若干の汗をかきつつ清掃を続けていると、視界の端にきらりと光が瞬いた。それは一瞬の事だったけど、俺には確かに知覚出来た。撃退士の五感というのは、個人差が大きいけれども概ね一般人よりもかなり鋭くなっているんだ。
「火村ー」
 俺はブラシをかけていた手を止めると、赤髪の少女に近づいて声をかけた。
「何?」
「ちょっと小用行ってくる。すぐに戻れると思うけど」
「え? ああ、うん、解った」
 火村はちょっと頬を赤くして頷いた。何を想像したか君。
 俺はプールからでると建物の中へ入って部屋の窓から出て移動しフェンスを乗り越えると、身を低くして遮蔽の陰に入りながらそちらへと向かった。
 移動する事しばし、俺は校舎の非常階段の踊り場に居た。
 視界の先にはコンクリートの縁に身を乗り出している少女の背中があった。真っ直ぐな黒い髪が美しい。ただし何故か望遠レンズらしき物を覗きこんでいて、張り込みよろしく古風な牛乳瓶に食べかけのアンパンまで付近に置かれてあったけど。
「あのー」
 俺が声をかけると、女は弾かれたように振り向いた。黒い瞳が大きく見開かれ驚愕の色が映っている。
「バードウォッチングなら森とか行った方が良いですよ」
 あまり刺激しないように、にこりと笑って俺は言った。
 女はしかし、
「この私が気づかれずにバックを取られただとぅ?!」
 妙にテンションの高い調子で叫び声をあげた。
「ふっ、流石は中山律紀、我が心の友に弁当を作らせるだけの事はあるっ! 私だってまだ作ってもらった事ないんだぞっ」
 何処からツッコメば良いんだろう。
 とりあえず、まだという事はいつかは作らせる気なのだろうか、じゃなくて、
「‥‥こういう場合は『お前、何者だ!』と聞いた方が良いんでしょうか」
 俺が言うと女は瞳を細めて振り返り、その長い黒髪に手櫛を入れて風に広がるように優雅に払うと昂然と言い放った。
「よくぞ聞いてくれました! 私の名は祁答院暁美! 火村飛鳥の親友だ!」
 フリーダムな人だな。
「もう知っているようだけど、俺は中山律紀という。君が、あれかい、火村が言ってた本日プール掃除に来る予定だったけどドタキャンしたというアケミさんかい?」
「その通り!」
 祁答院さんは大きな胸を張って答えた。そこは堂々と頷ける箇所なのだろうか。
「ふふふ、中山君、キミの噂はかねがね聞いているよ」
 ぴっと指を立てて祁答院さんは言った。
 はて、どんな噂だろう。
「偶に黒い色が見える自称常識人だってー」
 黒いとは心外である。
「‥‥これでも一応、出来る範囲で世の為人の為を考えて生きてるつもりなんだけどね」
 ちょっと凹む所であるが、まぁそう見られる場合もあるのは仕方がない。
「うんうん、飛鳥からはイイ奴だって聞いてるよ!」
「それは嬉しい評価だ。で、そう言ってくれているからには、俺は火村の良い友人としてありたい訳だけど、何故、火村の親友が、その親友に対して覗きまがいの事をやっているのか聞いても良いかな?」
「違うぞ中山君、覗きではない。これは親友の青春の一ページを見守っているだけなんだよ」
「‥‥‥‥それを覗きというんじゃないかなぁ」
「理解していただけないとは哀しい限りだ。価値観の相違というものは古今東西、人の道をすれ違わせるものだね」
 祁答院暁美は端正な顔に哀愁を浮かべて嘆息してみせた。
「だって君、私の友人が意中の彼と二人っきりになれるチャンスなんだぞ?! ここは一つ友人の為に一肌脱いで二人っきりにしてやるのが親友の務めというものではないかね? 若い男女が二人っきりできゃっきゃうふふしてれば一昼夜にして二人の仲は大進展だろう! そしてこんな面白そうなイベントを見守らないでいる理由があるだろうか?! いいや、無い! ある筈がないッ!!」
 熱く語る祁答院氏に対して俺は諸々のツッコミを一先ずおいてから言った。
「とりあえず、普通にそんなイベント起こらないレベルで手が足りなくて重労働になってるんですが、そこについてはどうお考えですか」
「えへっ、ちょっと誤算っ」
「えへっ、じゃなくて」
 フリーダム過ぎるだろこの人。
「あのー、俺達の観察は止めて今からでも清掃に参加してくれませんかね」
「えー」
「参加してくれれば貴方がここでこうやっていた事は黙っておきますよ?」
 にこっと笑って俺は言った。
「それってー、言外に参加しないと飛鳥にバラすぞって脅しだよねー?」
「脅してはいないよ。ただ単に取引を持ちかけているだけだよ。俺としては二人だけでやるつもりになってたし、貴方が拒否するならバラして二人だけで行っても構わない」
 俺はケータイのカメラを向けつつそう言った。
「黙って二人だけでやるって選択はー?」
「俺がここを立ち去っても君が俺達を監視しないという保証が最低限の前提だね。そしてそれを俺に信用させる事、出来る? 君にじろじろ見られながら、もしくはその可能性に脅えながら作業というのも落ちつかないだろう」
「もう見ないわ、信じてっ」
 手を組んで瞳をウルウルと潤ませ切実な声音で祁答院さんは言った。
「で?」
「解ったよぅ」
 ぱっと元の表情に祁答院さんは戻った。
「ま、見つかってしまった時点で私の敗北な訳ですね。大人しく清掃に参加させていただきますわ」
「了解、よろしくね」
「でもさ、君も物好きだね? 私だったら、私と一緒に作業なんてやりたくないけど」
「危険は潰せないなら見える所において管理しておくのが鉄則じゃないかな」
「うん、ちょっと黒いとか言われる要因ってそういう所だと思う」
「悪かったね」
 はぁ、と俺は嘆息したのだった。まぁ、仕方ない。
 そんな訳で俺は祁答院さんを連れてプールに戻り、火村が俺に対して遅いだの祁答院さんをみてあの電話はどういう事だったの、みたいな事を叫びつつ、あれやこれや言って三人で清掃を終えたのだった。


 無事に清掃依頼を完了させた翌日の昼。
「まったく、アケミの奴にも困ったものよね」
 教室で一個の机を挟んで弁当を広げつつ火村が言った。
「愉快な人だね」
「愉快過ぎて偶に一本背負い仕掛けたくなるわ」
 火村はぷりぷりと怒ってそう言った。
 ちなみに本日の弁当は赤色勢力は第一次遭遇の時よりもかなりその勢力を減じさせており、味は普通に普通だった。格段の進歩である。
 あれやこれや所感を述べつつ弁当をつついていると不意に火村のケータイから軽快な音楽が鳴り響いた。電話らしい。火村が耳にケータイを当て「もしもし?」と言い、次の瞬間さっと顔色を変えた。
「そう‥‥解ったわ」
 火村は呟き、ケータイを切ると立ち上がった。傍に立てかけておいた太刀を手に取り紐を回して腰に佩く。
「どうしたの?」
 ただならぬ様子に俺は声をかけた。火村の全身から鬼気迫るものが迸っている。
 火村は俺を見ると言った。

「アケミが死んだって。悪魔に殺られた」

 青い瞳に冷たくも弾け飛びそうな程に激しい光が宿っていた。

 続く






【人物】天真爛漫な正義の女子レスラー。真…



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